水が/を飲みたい

 こんばんは。かつて、東京大学編入試験を受験したことがあります。そのときに過去問を取り寄せたことがあるのですが、「−たい」の機能について論述させる問題がありました。どのくらい記述すればよいのかと思って、調べてみたら研究レベルでは大きな問題があることがわかり、びっくりしたことがありました。
そのときに調べたことを中心に書いてみたいと思います。

 「水が飲みたい」と「水を飲みたい」のように、「が」を使うのか、「を」を使うのかで迷う例がしばしばあります。特に述語が
  「―たい」水が飲みたい
  「―好き」りんごが好き
  「―気に入る」それが気に入る
  「―わかる」英語がわかる
  「―できる」中国語ができる
  「―てある」机がおいてある
  「―話せる」ドイツ語が話せる
などです。図式化すると、
  ――が――たい・気に入る・わかる・できる・てある・話せる
となります。
とりわけよくあげられる例として、
  水が飲みたい
  水を飲みたい
をとりあげて、学校などでは「何を何々したい」という表現を誤りとして教えます。例えば、
  「水を飲みたい」
は誤用で、
  「水が飲みたい」
が正しいなどと教えています。しかし、本当にそうなのでしょうか。「水が飲みたい」も「水を飲みたい」も、江戸時代も明治時代にも使われているのです(夏目漱石も両方使っています)。それに、少し長い語句を挟む文章では、
  このバケツの水をどこかに捨てたいのだが
のように「―を―たい」で使うのが普通です。松村明(まつむらあきら)氏、吉田金彦(よしだかねひこ)氏といった近代語・現代語の研究者の意見でも、「―が―たい」も「―を―たい」も明治三十年ぐらいまでは普通に使われていると述べているのです。結局のところ、場面と強調するものを考えるのがよいようです。日本語教育の森田良行氏のように、
  何が飲みたいのか―私の飲みたいのは水だ―水が飲みたい(「水」を強調)
  水をどうしたいのか―この水を捨てたい(「捨てる」という述部に焦点)
とする考え方がよいようです。
 現代を代表するチョムスキーという言語学者がいます。チョムスキーは、人間の意識を表層と深層とにわけて、言語だけ見ていてはいけなくて、その背後や意識にあるものを重視しました。つまり、
  言語―表層―深層
となるのです。また、言語学の祖、ソシュールは、「意味と音との結びつき」に焦点をあてて考えました。これらを発展させていくと、「言語心理学」「文章心理学」「認知心理学」「認知科学」という分野になります。また、近代文学の理論研究では、「テクスト(文脈)分析」という言葉で表しています。