元号と『万葉集』

読売日本テレビ文化センター公開講座(講義資料)

 

元号の由来と『万葉集

岡田 誠

 

第一部 元号の由来

 

元号が本格的に使用されるようになったのは、明治以降である。それまでは、元号は存在してはいるが、十干十二支で示していた。また、元号にはフリガナを振らない習慣だったので、読み方の不明な元号も多い。  (参考)山田孝雄『年号読方考証稿』

 

一 元号改元の理由の分類

 

a 代始改元

天皇の即位によって改元

b 祥瑞改元

珍しい現象、めでたい現象がおきたときに改元

c 災異改元

疫病・地震・火災など不吉な現象がおきたときに改元

d 革年改元

辛酉の年甲子の年には革命がおこるとして改元。(中国の古代の予言的思想)

 

二 四文字の年号の時代

 

天平感宝(七四九)

改元理由)陸奥国から黄金が朝廷に献上

天平勝宝(七四九から七五七)

改元理由)孝謙天皇が即位

天平宝字(七五七から七六五)

改元理由)蚕が糸でめでたい文字を書いた・宮中の天井に「天下太平」という宝のようにありがたい字が浮かび上がった。

天平神護(七六五から七六七)

改元理由)不詳

神護景雲(七六七から七七〇)

改元理由)不詳

 

三 一世一元制

 

「明治」という元号

菅原在光

易経』「聖人南面而聴天下、嚮明而治」・『孔子家語』「長聡明、治五気、設五量、撫万民、度四方」

 

「大正という元号

国府種徳

易経』「大亨以正、天之命也」

 

「昭和」という元号

吉田増蔵

書経』「百姓昭明、協和万邦」・『史記』「百姓昭明、合和万国」

 

「平成」という元号

安岡正篤(考案)・山本達郎(再提出)

史記』「内平外成」・『書経』「地平天成」

「保元」「平治」元号の禁忌・

 

「令和」という年号

中西進

万葉集』「初春の令月にして、気淑く風和らぐ」(巻五)

 

 

元号法(昭和五十四年六月十二日法令第四十三号)

1 元号は、政令で定める。

2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める

附則

1 この法律は、公布の日から施行する。

2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

 

 

 

 

第二部 『万葉集』概説

 

 

一 上代の日本文学

 

上代文学とは、奈良時代の文学のことである。それまでは、日本語を表記する手段も確立されておらず、口承文学であった。記載文学として、まとまった日本語が書かれたのは、八世紀である。その時期の文学のことを上代文学という。上代文学の主な作品としては、以下のものがある。

 

古事記』(歴史的文学書)

日本書紀』(歴史書

万葉集』(和歌集)

風土記』(地理書)

懐風藻』(漢詩集)

 

この中でも『古事記』と『万葉集』は、重要である。『古事記』は、稗田阿礼という人物が暗誦していたといわれているが、本当に暗誦できるのか、疑問視されてきました。しかし、昭和初期にアイヌ語の研究で有名な金田一京助博士が、アイヌの間で口承されてきたユーカラを全部暗誦している女性を見つけ、自宅に呼び、原稿をおこした。つまり、その女性は、『古事記』と同じぐらいの分量の『ユーカラ』を暗誦していた。この出来事があってから、稗田阿礼が『古事記』を暗誦していたことは確実となった。

 

二 三大歌風の特色

 

○『万葉集

一 長歌・短歌・旋頭歌

二 五七調が主。二句切れ、四句切れが多い。

三 終止形止めが多くある。助詞「も」「かも」で止めるものが多い。

四 枕詞・序詞・対句・繰り返しをよく用いる。

五 生活に即して現実的。率直・直観的・写実的。

六 素朴・直線的・雄大・明朗・男性的。

 

○『古今和歌集

一 短歌が主(長歌・旋頭歌をわずかに含む)。

二 七五調が主。三句切れが多い。

三 係り結び止めが多い。推量・疑問・願望・打消の語がくることが多い。

四 掛詞・縁語・比喩が多くなる。

五 生活から遊離し遊戯的。理知的・観念的・反省的・技巧的。

六 繊細・優美・女性的。

 

○『新古今和歌集

一 すべて短歌。

二 七五調が主。初句切れ、三句切れが多い。

三 体言止めが多い。

四 掛詞・縁語・比喩・本歌取りが多くなる。

五 現実から逃避。観念的・耽美的・構成的・象徴的。

六 幽玄・艶麗・絵画的・物語的。

 

三 和歌の内容上の分類

 

四季の歌(春夏秋冬の歌)

賀歌・・祝いの歌

(例)わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで

古今集・読人しらず)

離別歌・・旅などをするにあたっての別れの歌

羇旅歌・・家を離れ、自然などに接触して、その体験や感慨を述べた歌。

物名歌(隠題)・・歌の内容と関係なく与えられた題(事物の名称など)を歌の中に詠み込んだもの

(例)あしひきの山たちはなれゆく雲のやどりさだめぬ世にこそありけれ

(「橘」が詠み込まれている)

恋歌

哀傷歌・・人の死を悲しむ歌

雑歌

 

四 『万葉集』と『新古今和歌集』『百人一首

 

百人一首』二

 

(作者)「持統天皇」六四五―七〇二年。天智天皇の第二皇女。天武天皇の皇后。

藤原京を造営。

 

春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山(万葉集・巻一・二八)

春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香具山

 

春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山(新古今集・一七五)

(口語訳)春が過ぎて夏が来てしまっているらしい。夏になると真っ白な衣を干すという天の香具山なのだから。

(語法)

けらし   けるらし

白妙の   「衣」にかかる枕詞・純白の布

てふ    といふ

天の香具山 大和三山(香具山・畝傍山耳成山)の一つ。「天」は『万葉集』では「あめ」、『新古今和歌集』では「あま」と読む。

 

百人一首』四

 

(作者)「山部赤人」生没年未詳。奈良時代初期の宮廷歌人で叙景歌にすぐれていた。歌人として柿本人麻呂と並び称される。

 

田子の浦うち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける

万葉集・巻三・三一八)

田児之浦従打出而見者真白衣不尽能高嶺尓雪波零家留

 

田子の浦うち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ新古今集・六七五)

(口語訳)田子の浦に出てみると、真っ白な富士の高嶺にしきりに雪が降っていることだよ。

(語法)

田子の浦 駿河国静岡県)の海岸

白妙の  枕詞・純白の布

つつ   反復・継続・余情

 

五 万葉仮名の問題点

 

国語の表記をする際に漢字の音を用いる他、訓も利用した複雑巧妙な表記である。

 

訓による表記(訓がな)

大和・・八間跡

薄・・為酢木

音による表記(音がな)

国・・久尓

心・・許己呂

 

これらの万葉仮名を「どうやって読むのか」ということが平安時代以降、学者の間で研究されてきた。その中でも、訓み方が割れている有名な例として、『万葉集』四十八の歌がある。これは教科書にも掲載されている柿本人麻呂の歌である。この歌は、賀茂真淵の訓み方で定着しているが、問題点が多い。

 

東野炎立所見而反見為者月西渡(『万葉集』・四八)の訓み下し

 

賀茂真淵はこの歌を以下のように訓み下した。

 

ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ万葉集・四八)

(東の野にかぎろひの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ)

 

この歌は、旧訓では、以下のとおりである。

 

あづまののけぶりたてたるところみてかへりみすればつきかたぶきぬ

 

この旧訓を賀茂真淵が江戸時代に新たに調子のよい響きに訓み下して以来、その訓読にしたがっており、教材に収録されるときにもこの読み方で採用されている。

そして、与謝蕪村の以下の絵画的な俳諧を連想させる歌として、鑑賞されることが一般的である。

 

菜の花や月は東に日は西に

 

しかし、賀茂真淵の訓み下しには、語法上の面から欠点が指摘されている。その語法上の欠点を補うように訓み下したものとして、伊藤博氏と佐佐木隆氏の訓み下しを比較検討してみることにする。

 賀茂真淵の訓み下しの語法上の欠点を整理すると、以下のとおりである。

 

〇「見ゆ」が活用語を受ける場合には、「終止形+見ゆ」でないといけないのに、「野にかぎろひのの」の「の」を読み添えているために佐伯梅友(一九三八)『万葉語研究』(文学社)の説からすると、「―の―連体形」となり、「連体形+見ゆ」で、「立つ(連体形)見えて」になってしまっている。

〇「炎」を「かぎろひ」と訓んでいるが、「けぶり」ともよめる。

〇「月西渡」を「月傾きぬ」「月傾けり」「月は傾く」と訓んだり、あるいは表記をそのまま生かして、「月西渡る」ともよめる。

 

これら点を考慮して、伊藤博氏と佐佐木隆氏は、それぞれ以下のように訓み下している。

 

伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社

ひむがしののにはかぎろひたつみえてかへりみすればつきにしわたる

東の野にはかぎろひ立つ見えて返り見すれば月西渡る

 

○佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)

ひむがしののらにけぶりはたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ

東の野らに煙は立つ見えて返り見すれば月傾きぬ

 

ただし、「月西渡」を、伊藤博(一九八三)『万葉集全注』(有斐閣)では、「万葉では西空の月には必ず傾くというのを尊重してカタブキヌの訓を採る」として「月傾きぬ」としてあったものを、伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社)では、以下のように「月西渡る」としている。

 

「『東の野にはかぎろひ立つ』に対しては、原文『月西渡』の文字にそのまま則してツキニシワタルと訓ずる方が適切であろう。『西渡る』は、月や日の移る表現として漢詩文に多用される『西○』(西流・西傾・西帰など)を意識したものらしい」

 

 伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社)の訓みは、語法を重視しながらも、用例調査を行っておらず、『万葉集』の言い回しや民俗性をも重視したものであるといえる。逆にいえば、思いつきや発想に頼ってしまっているために迷いが生じて訓みを変えることにもなったともいえる。それに対して、佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)は語法を重視した上で、綿密な用例調査を施しており、たいへん説得力がある訓み下しになっている。用例調査を綿密に行っている点で、佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)の方がすぐれているといえるであろう。

 

賀茂真淵(かものまぶち)(一六九七―一七六九)は、国学者で『万葉考』『国意考』などを著したことで知られ、本居宣長の師匠として、『古事記』の研究を薦めたことでも有名である。賀茂真淵の主な主張は以下のとおりである。

 

〇『万葉集』には、古代日本人の「高く直き心」(おおらかで自然な心)が表れたものとし、和歌に古代日本人の心情が発露していると考えた。

〇『万葉集』の調べは「ますらをぶり」(男性的でおおらか)で、「高く直き心」が和歌の響きとして表れたものであるから、尊重しなければならないとした。

〇『万葉集』は素直な心情の発露で、そこには「からくにぶり」(儒教や仏教のような人為的なもの)はまったく感じられない、日本人の心そのままであるとした。

 

六 『万葉集』の概略

 

万葉集』は奈良時代に編纂された現存最古の歌集である。全部で二〇巻(第一部が巻一から巻一六まで、第二部が巻一七から巻二〇まで)、歌数は約四五〇〇首である。短歌を中心に、長歌・旋頭歌・仏足石歌・漢詩を含んでいる。舒明天皇の時代から天平宝字三年(七五九)までの、約百三十年間の歌が収められている。最終的な編者は大伴家持が有力とされている。他に、橘諸兄説や勅撰説などもある。

内容を大きく分類すると、雑歌(自然や宮中儀式、旅などで詠んだもの)・相聞歌(男女の恋を詠んだもの)・挽歌(死を悼む歌や臨終の歌、死者を追慕する気持を詠んだもの)に分けられる。この三つを「三大部立」と呼んでいる。

表記は、「万葉仮名」と呼ばれる、中国から漢字を借りて表記として用いた。この「万葉仮名」の解読には、平安時代以降に盛んに研究されてきているが、現在でも読み仮名の確定していない歌も数多くあり、研究も盛んである。また、この「万葉仮名」の研究から古代日本語には八つの母音があったことが、橋本進吉博士「古代日本語の母音について」という論文によって立証された。つまり、「ア・イ・ウ・エ・オ」の他に、やや暗い響きの「イ・エ・オ」があったと推定される。この母音の区別は、平安時代になると消滅したようである。

万葉集』の修辞技巧としては、枕詞・序詞を使用している。特に枕詞は解釈できないものがほとんどであるために、言霊で呪術的なものとしてとらえることが多い。

万葉集』の歌風の変遷としては、以下のように、四つに分けるのが一般的である。

 

(第一期)「初期万葉の時代」天智天皇天武天皇額田王・鏡王女・有間皇子

藤原鎌足など。

(第二期)「人麻呂の時代」持統天皇柿本人麻呂大津皇子・大伯皇女・志貴皇子

稲積皇子・但馬皇女石川郎女高市黒人など。

(第三期)「山部赤人山上憶良の時代」山部赤人山上憶良高橋虫麻呂など。

(第四期)「大伴家持の時代」大伴家持大伴坂上郎女・笠郎女など。

 

第一期は古代歌謡の影響を受けながら、素朴で純真な歌が多い。第二期はみずみずしく力強い歌が多い。第三期は個性的な歌人が多く現れて、多彩な歌風が展開される。第四期は政情不安なことも反映しているためか、繊細で観念的な歌が多い。

万葉集』の原本は発見されていないため、平安時代の中期に源兼行によって書かれた『桂本万葉集』が現存する最古の写本である。他の写本としては、『元暦校本万葉集』『藍紙本万葉集』『金沢本万葉集』『天治本万葉集』などがある。

平安時代以降、勅撰和歌集ということもあって『古今和歌集』が和歌の聖典のような扱いを受けていたが、それに対して正岡子規が『万葉集』の価値を力説してから、『万葉集』の研究が盛んになった。その後、斎藤茂吉が『万葉集』の歌を歌人の立場から約四〇〇首を丁寧に解釈した、『万葉秀歌』(岩波書店)という名著も出版された。学者としては折口信夫が『口訳万葉集』を出版して口語訳を示した。

万葉集』を詠むには、多くの知識が必要である。国文学・国語学・日中比較文アg九・民俗学歴史学・考古学・植物学・書誌学などである。そのため、さまざまな研究の方法がある。例えば、表記の研究・字余りの研究・文法や語法の研究・音韻の研究・風土の研究・歴史学的な研究・作者と作品との関連の研究・中国最古の漢詩集である『詩経』や『古事記』『日本書紀』との比較研究・配列の研究・類歌の研究などがある。さまざまなアプローチがあるので、研究も盛んで開かれたものとなっている。「万葉学会」にも多くの会員がいるのである。

 

七 『万葉集』の書名の訓み方の変遷

 

一、A マニエフシフ(奈良から平安初期)

B マンエフシフ(奈良から平安初期)

二、マンエフシウ(平安から鎌倉)

三、A マンヨウシュウ(室町以降・現在の通行の訓み)

B マンニョウシュウ(室町以降・連声の作用)

 

八 『万葉集』の書名の由来の諸説

 

一、多くの歌を集めた集

二、多くの世代にわたる歌集

三、万世にまで伝えるべき歌集

四、天子の御代万歳を寿福する歌集

 

九 『万葉集』の主な歌人と歌風

 

(代表的な万葉歌人

舒明天皇       素朴・清純

有間皇子       強い真実感

額田王           優雅

柿本人麻呂    長歌を完成・雄大荘重

高市黒人       瞑想的・観照

山部赤人       叙景歌人・絵画的

大伴旅人       思想的叙情歌人

山上憶良       人生歌人

高橋虫麻呂    伝説歌人

大伴家持       鋭敏・繊細

 

(第一期)初期万葉の時代・六二〇―六七〇・壬申の乱前後までの動乱の時代

 

額田王(ぬかたのおおきみ)

(特徴)力強く、情熱的で豊かな感情を華やかに歌い上げた。

 

あかねさすむらさきのゆきしめのゆきのもりはみずやきみがそでふる

あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る(一・二〇)

(美しい紫色を染め出す紫草の野を行き、立ち入りを禁じられた野を行き、野の番人が見るではありませんか、あなたがしきりに私に袖を振るのを。)

大海人皇子の返歌)

むらさきのにほへるいもをにくくあらばひとづまゆゑにわれこひめやも

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(一・二一)

(美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのに何で私が恋をするだろうか。)

 

○有間(ありまの)皇子(みこ)

(特徴)斉明天皇の時代、謀反を企てたとして刑死。わずか十九歳であった。

 

いへにあればけにもるいひをくさまくらたびにしあればしひのはにもる

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(二・一四二)

(家にいるときにはいつも食器に盛る飯を、旅の途中なので椎の葉に盛ることだ。)

 

(第二期)万葉調の時代・六七〇―七一〇・律令国家の確立

 

○柿本(かきのもとの)人麻呂(ひとまろ)

(特徴)宮廷歌人として皇室を賛美した歌が多く、長歌形式を完成した。『万葉集』に約五〇〇首収録させる代表的歌人

 

ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ(一・四八)

(東の野にあけぼのの光が差すのが見えて、振り返ってみると西の空に月が傾いているよ。)

 

○大津(おおつの)皇子(みこ)

(特徴)天武天皇時代、皇太子草壁皇子に謀反を起こした罪で刑死。二十四歳であった。

 

足引きの山の志津国井も待つと割れたちぬれぬやまのしづくに

あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに(二・一〇七)

(あなたを立って待っていると、私は山の木からのしずくにすっかり濡れてしまった。山のしずくに。)

 

(第三期)万葉調の最盛時代・七一〇―七三〇・律令政治の安定期

 

山部赤人(やまべのあかひと)

(特徴)叙景歌にすぐれ、これを完成。絵画的な歌風。

 

ぬばたまのよのふけゆけばひさきおふるきよきかはらにちどりしばなく

ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く(六・九二五)

(夜が更けていくと、久木の生えている清き川原に千鳥がしきりに鳴いているよ。)

 

大伴旅人(おおとものたびと)

(特徴)大宰帥、大納言などを歴任。藤原氏の圧迫に苦しんだ。

 

あわゆきのほどろほどろにふりしけばならのみやこしおもほゆるかも

沫雪のほどろほどろに降り敷けば平城の京し思ほゆるかも(八・一六三九)

(泡のように消えやすい雪がはらはらと降りしくと、奈良の都が懐かしく思われるよ。)

 

山上憶良(やまのうえのおくら)

(特徴)苦しい生活体験や妻子に対する愛情を詠んだ。

 

しろかねもくがねもたまもなにせむにまされるたからこにしかめやも

銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも(五・八〇三)

(銀も金も玉も何にしようか。優れた宝である子どもに及ぼうか、いや及びはしない。)

 

(第四期)万葉時代の終焉時代・七三〇―七六〇・天平文化爛熟期・社会矛盾拡大期

 

大伴家持(おおとものやかもち)

(特徴)『万葉集』の編者といわれている。歌風は感傷的で繊細、現実から離れ、想像の美を描く。

 

はるのそのくれなゐにほふもものはなしたてるみちにいでたつをとめ

春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出でたつ少女(一九・四三九)

(春の園の紅に美しく咲いている桃の花。その色が下に映えている道に出て立つ乙女よ。)

 

(歌の種類)部立

◇相聞           贈答の歌。恋愛歌が中心をなすが、親近者や知友などの間に交わした歌もある。

◇挽歌        柩を挽くときにうたう葬送の歌の意であるが、転じて死をいたむ歌。辞

世の歌や、故人を追想する歌も含む。

◇雑歌           行幸供奉、遊猟、宴遊、自然諷詠など、雑多な内容の歌

 

◇東歌        遠江、武蔵、信濃陸奥など東国地方の民謡で、いつとはなしに民間に

うたわれた歌。方言のはいった素朴なものが多い。

◇防人歌       西辺の守りにつくため東国から派遣された兵士の歌。

 

十 万葉集の影響を受けた歌人

 

(鎌倉)

源実朝

(江戸)

賀茂真淵田安宗武・橘曙覧・平賀元義

(明治)

正岡子規・島木赤彦・斎藤茂吉折口信夫・森信三

 

十一 万葉集の主な注釈書

 

(江戸)

万葉代匠記           契沖

万葉集考              賀茂真淵

万葉集略解           橘千蔭

万葉集古義           鹿持雅澄

(昭和)

万葉集全註釈       武田祐吉

万葉集注釈           沢瀉久孝

 

十二 万葉人の四季の景物

 

(春)一から三月

ウメ・モモ・ツバキ・スミレ・アシビ・サクラ・ツツジ・ウグイス・キザシ・サワラビ・春雨・霞

(夏)四から六月

フジ・アヤメグサ・ユリ・ウノハナ・カキツバタホトトギス・ヒグラシ

(秋)七から九月

ナデシコオミナエシ・ハギ・モミジ・ススキ・サネカズラ・ツルハミ・シカ・カリ・七夕・秋風・時雨・霧

(冬)十から十二月

ヤマタチバナ・ササ・マツ・・霜・新年

 

十三 山上憶良が詠んだ「秋の七草」と「七夕」

 

萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花

(巻八・一五三八)

〇万葉のころは、キキョウのことをアサガオと呼んでいた

 

天の川 相向き立ちて 我が恋ひし 君来ますなり 紐解き設けな

(巻八・一五一八)

(天の川で向かい合って、私が恋い焦がれているあの方が今夜おいでになる。さあ、衣の紐を解いてお待ちしよう)

 

十四 天武天皇を現人神とする思想

 

大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井を京師となしつ(大伴御行

 

大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ(作者未詳)

 

大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも(柿本人麻呂

 

「大君」 ①天武天皇 持統天皇

「都」「京師」 ①飛鳥清御原宮 藤原京

壬申の乱(六七二年)↓現人神思想

 

十五 額田王

 

額田王は、『万葉集』第一期の女流歌人である。はじめ大海人皇子(後の天武天皇)に寵愛を受けて、十市皇女を生んだが、後には天智天皇に愛された。歌は優美で情熱的である。その歌からは、巫女的な性質を感じ取ることができる。以下、代表歌をあげてみる。

 

にきたつにふなのりせむとつきまてばしほもかなひぬいまはこぎいでな

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(巻一・八)

(熟田津で船出しようと月の出を待っていると、潮もちょうどよく満ちてきた、さあ、漕ぎ出そう。)

 

冬こもり 春さりくれば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我は(巻一・一六)

(春が来ると、冬の間は鳴かなかった鳥もやってきて鳴く。咲かなかった花も咲いているけれど、山の木々が鬱蒼と茂っているので、分け入っても取らず、草が深く茂っているので、手に取っても見ない。秋の山の木の葉を見ては、紅葉したのを手に取っては美しさを味わい、まだ青いのはそのままにして嘆く。その点こそ残念ですが、秋の山の方が優れていると私は思います。)

 

みわやまをしかもかくすかくもだにもこころあらなもかくさふべしや

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(巻一・十八)

(なつかしい大和の国の三輪山をそのように隠すのか。せめて雲にだけでも思いやりがあってほしい。振り返り振り返り見たい山なのに、そのように雲が隠してよいものか。)

 

あかねさすむらさきのゆきしめのゆきのもりはみずやきみがそでふる

あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る(巻一・二〇)

(美しい紫色を染め出す紫草の野を行き、立ち入りを禁じられた野を行き、野の番人が見るではありませんか、あなたがしきりに私に袖を振るのを。)

大海人皇子の返歌)

むらさきのにほへるいもをにくくあらばひとづまゆゑにわれこひめやも

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(巻一・二一)

(美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのに何で私が恋をするだろうか。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考資料) 『万葉集』の秀歌を詠む

 

あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る

(巻一・二〇・額田王

(紫草を植えた御料地をあちこちとお歩きになって、まあ野の番人が見るではありませんか、あなたが袖を振ってわたしに合図しておいでなのを。)

 

秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山路知らずも

(巻二・二〇八・柿本人麻呂

(秋山のもみじが茂っているために山中に迷って帰れなくなってしまった、わがいとしい妻を探し求めようにもその山道がわからないことであるよ。)

 

あしひきの山川の瀬に鳴るなべに弓月が嶽に雲立ち渡る

(巻七・一〇八八・柿本人麻呂

(山あいのを流れる川の瀬音が高く響くとともに、弓月が嶽に雲が一面に立ちのぼることだ。)

 

葦辺行く鴨の羽交に霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ

(巻一・六四・志貴皇子

(葦の生えている海辺を泳ぐ鴨の羽の合わせ目に霜が降って寒い夕べには、いま旅中にある自分としては、大和の暖かいわが家のことが思い出されてならない。)

 

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

(巻三・二六六・柿本人麻呂

(近江の琵琶湖、その夕波に鳴き飛ぶ千鳥よ、おまえがそんなふうに鳴くと、わたしは心もしっとりとひきつけられるように、ここに天智天皇の大津の宮が栄えた昔のことが思い出されてならない。)

 

天ざかるひなの長路ゆ恋来れば明石の門より大和島見ゆ

(巻三・二五五・柿本人麻呂

(都を遠く離れたいなかの長い旅路をずっと通って、故郷の大和を早くみたいと恋いつつ来ると、明石海峡から大和の山々が見える、ああなつかしいことだ。)

 

あわ雪のほどろほどろに降りしけば平城の京し思ほゆるかも

(巻八・一六三九・大伴旅人

(あわのように解けやすい雪がはらはらと降りしきるのを見ると、こうして大宰府にいるわたしには、奈良の都のようすがしきりと思い出されてならないことであるよ。)

 

いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚無し小舟

(巻一・五八・高市黒人

(もう日暮れとなってしまった今時分、どこに船泊まりしているだろうか。さきほどは安礼の崎を漕ぎ回って行ったあの棚無し小舟は。)

 

稲つけばかかる吾が手を今宵もか殿の若子が取りて嘆かむ

(巻一四・三四五九・東歌)

(いつも稲をついているのでこんなにあかぎれのできているわたしの手を、今夜もまた御殿の若君がお取りになって、かわいそうだとお嘆きくださることだろうなあ。)

 

磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた帰り見む

(巻二・一四一・有間皇子

(わたしは今この磐代の浜を通るにあたって、世人がするように、わが命と旅の無事を祈って松の枝を結び合わせて行くが、もし無事であったならばまた帰って来てこの結んだ枝を見よう。)

 

石走る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも

(巻八・一四一八・志貴皇子

(寒さ厳しい冬が過ぎて、石の上を激しく流れる滝のほとりのわらびが芽を出す、楽しい春になったことであるよ。)

 

石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか

(巻二・一三二・柿本人麻呂

(石見の高角山の木の間から私が振る袖を、いとしい妻は見たことであろうか。)

 

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

(巻二・一四二・有間皇子

(家にいるときにはいつも食器に盛る飯を、旅の途中であるから椎の葉に盛ることである。)

 

妹が見しあふちの花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに

(巻五・七九八・山上憶良

(いとしい妻がかつて病中に見たせんだんの花は今年も咲いたが、すぐまた散ってしまうだろう。妻を失った悲しみに泣く私の涙がまだかわきもしないのに。)

 

妹として二人造りしわが山斎は木高く繁くなりにけるかも

(巻三・四五二・大伴旅人

(今は死んでしまった妻とかつていっしょに造ったわが家の庭の植え込みは、木立も高く伸び枝も茂ってしまったことであるよ。)

 

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む

(巻二・一六五・大伯皇女)

(一人この世に生き残った人である私は、弟を葬った所だから、明日からはこの二上山をいとしい弟と思って眺めよう。)

 

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも一人し思へば

(巻一九・四二九二・大伴家持

(うららかに照っている春の日に、ひばりが空高く上がってさえずり、その声を聞いている私は心が傷むことであるよ、一人物思いにふけっているので。)

 

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそを負ふ母もわを待つらむそ

(巻三・三三七・山上憶良

(わたくし憶良などは今はもうこの宴席からおいとまして引き下がりましょう。なぜって、家ではわが子が泣いておるでしょうし、その子を背負っている母、つまり愚妻もまたわたくしの帰りを待っておるころでしょうから。)

 

勝鹿の真間の井を見れば立ちならし水汲ましけむ手児奈し思ほゆ

(巻九・一八〇八・高橋虫麻呂

葛飾の真間の井を見るにつけも、昔朝夕ここの地面を平らにするほどにやってきて水を汲まれたという、あの手児奈のことがしきりと思い出されてならない。)

 

韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして

(巻二〇・四四〇一・他田舎人大島)

(わたしの着物の裾にすがりついて泣く子どもたちを置いて、わたしは防人として出てきてしまったことだよ、あの子どもたちは世話する母親もいないけれども、どうしているだろうか。)

 

君が行く道のながてを繰りたたね焼きほろぼさむ天の火もがも

(巻一五・三七二四・狭野茅上娘子)

(いとしいあなたが流されていらっしゃる越前までの長い道を、たぐりよせたたみ重ねて焼いてなくせるような天の火がほしいものですよ。道がなくなればあなたは流されて行くことがないでしょうし、たとえ流されて行っても都との距離の遠さがなくなるでしょうから)

 

君待つとわが恋ひをればわが宿のすだれ動かし秋の風吹く

(巻四・四四八・額田王

(あなたのおいでを待ってわたしが恋しく思っておりますと、わたしの家の戸口のすだれを動かして秋風が吹くことでございます。あなたのおいでになる前知らせでしょうか)

 

防人に行くはたが背と問ふ人を見るがともしさもの思ひもせず

(巻二〇・四四二五・防人歌)

(防人として行くあの人はだれの夫ですかと尋ねる人を見ることのうらやましさよ。その人はなんの心配もしないでおいでになる。わが夫が防人に行くので悲しんでいるわたしの気持ちも知らないで)

 

桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる

(巻三・二七一・高市黒人

(桜の田の方へ鶴が鳴きながら飛んでいく。きっと年魚市潟は潮が引いて干潟となったに違いない。それで水辺を求めて鶴があんなに鳴きながら群れ飛んで行くことだ)

 

ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも会はめやも

(巻一・三一・柿本人麻呂

(志賀の大きな入り江は昔ながらに今も水が淀んでいるが、たとえいつまでも水が淀んでいようとも、天智天皇の都を置かれた時の人にふたたび会うことができようか。いやもう会うことができないことであるよ)

 

ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ

(巻一・三〇・柿本人麻呂

(この志賀の辛崎は昔と変わらず無事になるけれども、天智天皇が置かれた都はもう荒れ果ててしまったから、あの宮仕えの人たちがここで遊び興じたあの船の姿はもう待っていても見ることができなくなってしまったのだ)

 

笹の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば

(巻二・一三三・柿本人麻呂

(笹の葉は山全体が鳴るごとく風にさやさやと鳴り騒いでいるけれども、わたしはそんな山中の道を歩きながらなにか不安な思いにかきたてられる心を抑えて、ひたすら妻のことを思っている。別れて来たので)

 

信濃路は今の墾道刈株に足踏ましなむ履はけ吾が背

(巻一四・三三九九・東歌)

信濃路は新しく切り開いたばかりの道です。だから草木の切り株があってきっとそれをお踏みになるでしょう。そうなったらたいへんですら、どうぞくつをはいていらっしゃい、わがいとしいあなたよ)

 

白珠は人に知らえず知らずともよし知らずともわれし知れらば知らずともよし

(巻六・一〇一八・元興寺の僧侶)

(真珠はその真価をなかなか人に知られないでいる。しかし、知らなくともよい。他人が知らなくともせめて自分が自分の優れた才能を知っていれば、他人などが知らなくともよい)