近代文法学史における受身と状態性

2012.11.2(金)第297回・日本近代語研究会発表資料

 

近代文法学史における受身と状態性-山田文法を中心に-

 

國學院大學大学院生 岡田 誠

 

 

はじめに

 

受身の中で、非情の受身と呼ばれる表現がある。非情の受身は、三矢重松(1908)を嚆矢とし、日本語固有説と非固有説とがある。また、その本質は状態性であるか否かが、重要な論点にもなってきた。非情の受身と状態性の指摘は、山田孝雄1908)から使用されているが、状態性を考慮しない立場もあるが、状態性を「話し手の主観的な表現」とすることで、「非情の受身は状態性」として説明できることとなった。そこで、受身と状態性をテーマに、山田孝雄を中心に近代文法史の流れを探ってみることとする。

 

 

1 国学と洋学-接尾語説と助動詞説-

 

国学の立場では、「る」「らる」を動詞の語尾として扱っている。富士谷成章(1778)は、「る」「らる」は「脚結」の中の「身」に入れられており、「被身」として立項されている。「被身」では、接続を「る」と「らる」とに分け、現在の動詞の四段活用には「る」が、上下の一段・二段活用には「らる」がつくことを示している。また、接尾語説と助動詞説とがあるが、富士谷成章(1778)では、接尾語に近い考え方をしている。また、本居宣長(1779)は、「に通ふ」「に通ふ」とし、「ゆ」「らゆ」が「る」「らる」になったとする解釈文法としての視点に立っている。

洋学の立場では、「る」「らる」を助動詞として扱っている。鶴峰戊申(1833)は、動詞の語尾としての「る」と助動詞としての「る」「れる」を、古典の例では区別しているが、口語では区別しないで、同じものとして扱っている。また、田中義廉(1874)は「る」「らる」を助動詞として扱った。このことが、後の大槻文彦(1890)に続くものとされている。

 

 

2 山田孝雄-受身と状態性-

 

山田孝雄(1908)は助動詞を動詞の複語尾とし、山田孝雄(1936)では「る・らる」は受身を原義とて自発は「受身の一変態」と述べ、複語尾の中に分類しているが、複語尾を「属性の作用を助くる複語尾」「統覚の運用を助くる複語尾」の二つに分けたうちの、「属性の作用を助くる複語尾」に分類し、「る・らる」は「属性の作用を受くる複語尾」の中でも、「状態性間接作用」に属させ、

状態性間接作用とは文の主者が其の作用の主者ならずして対者ありて其者が其主者たれども其作用は現に行はるゝにあらずして唯行はるべき地位に立てるを示すと共に直接に行はれず、間接なり、而して又共に主者其者の状態を示す傾向強し。この故に状態性といふなり。

と述べている。また、非情の受身については山田孝雄(1908)で、

吾人は受身が状態性なることを説かむとす。・・〈中略〉・・抑受身といふに二種の観察点ありとす。一は動作作用の影響を受くる者其自身より見たる受身、一は傍観者ありて、一の動作作用の影響を受くる其状態を見たる場合の受身、この二つは自然に異なる趣あり。始の受身にありては受くる者が自識せりと思はずば受身となることなし。これ先にいひし有情物が文主たる場合のものなり。終のに至りては非情物が文主たりとも現に吾人の見る所によれば確かに非情物甲が乙なる者の影響を受けてありと吾人が認めたる時には又受身の地位にたてりと思惟しうるによりてこゝに受身の文は成立するなり。かゝる際の受身は決して其の文主が受身を形づくる要点たるにあらずして傍観者が之を状態として見たる時に限らるゝなり。

と述べ、古典の受身の例を示し、非情の受身も状態性であることを示している。また、「この橋は工人に造られたり」の例では、橋の成立原因をいうもので、「受身の文の構成に困難を生ずる」と述べて、日本語本来の有情・非情の受身は固有のものとして認めているが、西欧文直訳の影響の非情の受身は非固有としている。

 

 

3 明治期から昭和初期までの他の文法書

 

明治期から昭和初期の他の文法書として、大槻文彦(1890)、草野清民(1901)、保科孝一(1911)、吉岡郷甫(1912)、徳田淨(1936)、堀重彰(1941)、の記述をみると、特徴的なものは、堀重彰(1941)があり、被動の助動詞を「動きが消極的方向であり、状態的陳述となるもの」と述べている。このことは、受身の焦点になる状態性を指摘し、山田孝雄(1908)の流れを受けている点で重要な意味を含んでいる。

 

 

4 松下大三郎-漢文訓読の視点-

 

松下大三郎は、日本語教育の経験などから漢文法と国文法との整合性をはかり、松下大三郎(1927)では、「使動・被動を示す方法」として、「原動の詞がそのまゝ使役、被動の意味を帯びる場合」と「形式動詞を附加する場合」の二つを挙げて、使役を示す「使」や受身を示す「被」「見」「遭」「遇」の文字を形式動詞としており、「見」「遭」「遇」は、原動の主に対する依拠性がないために、動詞の下に「於」を置かないと受身では使用できないと述べている。さらに、受動態を「被動態」と呼び、その種類として、日本語では「自己被動」(人、盗賊に殺さる。)、「所有被動」(人、盗賊に物を偸まる。)、「所有物動作被動」(父、子に死なる。)、「他物動作被動」(雨に降られて家に籠る。)の四種類があるとし、そのうち、自己被動と所有被動は漢文にはあるが、所有物動作被動(他物の動作を自己へ被るもの)と他物動作被動(他物の動作を直接自己へ被らずに自己の所有物へ被るもの)はないとして、漢文の被動態と日本語の被動態との比較をしている。松下大三郎の「被動態」の種類について、「自己被動」「所有被動」「所有物動作被動」「他物動作被動」が松下大三郎(1928)では、「人格的被動」と一括しているが、晩年の松下大三郎(1930)では「利害被動」としており、「被動」の種類も増えて整理されて、次第に考えが深まっていった過程をみることができる。鈴木一(2002)は、松下大三郎の動詞論と品詞論を扱い視点から松下大三郎(1927)の位置づけをとらえているが、受身の視点においても、松下大三郎(1927)を一連の流れの中に位置づけることができる。

 

 

5 橋本進吉-助動詞の相互承接と自動詞-

 

橋本進吉は(1938)の中で、助動詞の相互承接続について考察し、表を作成している。その表によると、「受身」「使役」の助動詞は、一番上にくる。

非情の受身については、橋本進吉(1931)の中で非固有説に立ち、

主語が有情のものである場合には、受身に於ては利害を蒙るといふ感じが特に深いが、右のようなものでは、その感じはうすい。さうして、むしろ、自らさうなったといふ感じの方がつよいのである。即ち受身の助動詞をつけたものが、一つの自動詞と似た意味を持つ。

と述べており、非情の受身の本質は状態性にあることに橋本進吉は気付いていたと思われる記述がある。また、一種の自動詞と似た表現を示し、適切な自動詞の表現を持たない動詞が、「る」「らる」をつけて自動詞的なものとするとしている。さらには、受身の動作主を「-に」で示すのも、「浪にくだけ。」「風に乱るる」「月山にかかる」「石につまづく」などのように、自動詞の「-に」を伴う表現から出たものとしており、自発と自動詞を関連させながら説明している点に特色がある。

 

 

6 佐伯梅友・宮地幸一-非情の受身「固有説」と「非固有説」-

 

非情の受身の例の指摘は三矢重松(1908)を嚆矢とするが、佐伯梅友(1947)は、「非情の受身非固有説」に立ち、本来は迷惑の受身の言い方をしていたと指摘している。今泉忠義・宮地幸一(1950)では、現代語の「迷惑の受身」の例を示し、古典の例について数少ない古典での「迷惑の受身」の例をあげ、それらは非情の受身にもなっていることを指摘し、「迷惑の受身は伝統的な在来なもの」としている。非情の受身は、佐伯梅友は非固有とし、今泉忠義・宮地幸一(1950)は、日本語固有と判断している。その後、宮地幸一(1968)は、数多くの古典の非情の受身の例をあげて、非情の受身は日本語固有のものであるとしている。宮地幸一(1962)では、敬語に関連した存在詞について、主体についての考察をしており、状態性に気付いていたと考えられる。

 

 

7 時枝誠記-客観と状態性-

 

時枝誠記(1941)は、「る」「らる」の受身表現について、「客体的な彼についての或る事柄の表現」「主体的なものを客観化してゐる」「彼についての表現であって、客体的に表現に属する」「語としては、客体的な事物の特殊な把握を表現してゐる」と説明している。この説明は、「状態性」ということばで表現されてきた。時枝誠記は、心的過程としてのヴォイスについては、「る」「らる」を「自発根源説」でとらえており、その形によって客観化され、状態性の表現になってしまうが、例文を見ると、「人に」という、北原保雄(1981)のいう受身格を示している。この立場でヴォイスの心的過程に違いが出てくるのではないかと思う。さらに、時枝誠記(1941)の中で、「る」「らる」は、接尾語と同列に扱っている。時枝誠記(1950)では、「主語に対する述語」という視点で説明し、さらに、複合動詞をつくるとも述べている。時枝誠記の「る」「らる」の扱いは、接尾語として一括して考えられがちであるが、時枝誠記(1941)では接尾語と言い切っていたが、時枝誠記(1950)になると、接尾語とは言い切らずに、複合動詞という考え方を持ち出し、「る」「らる」「れる」「られる」の独立性を示している。

 

 

8 渡辺実北原保雄-助動詞の相互承接の再考-

 

渡辺実(1971)は、「れる」「られる」について、「雨に降られる」の例をあげて、これを時枝誠記入れ子型構造の流れで説明し、「雨に」という連用成分に対する述語が「降る」ではなく、「降られる」であることから、「れる」「られる」は述語の一部分であるとしていることから、接尾辞とし、時枝誠記とほぼ同じ扱いをしている。また、渡辺実(1971)の助動詞の相互承接の分類表では、「れる」「られる」は、第一類となる。渡辺実の助動詞の相互承接は、助動詞を述語と終助詞との間に登場する一群の語として考えて、構文的職能を基準とした助動詞の整理と相互承接について論じた。「れる」「られる」は、渡辺実の分類では、乙種・第一類の助動詞となる。

北原保雄(1981)は、「れる」「られる」について、「せる」「させる」が助動詞の中で、なぜ動詞にもっとも近い位置にくるのかを考察しながら、受身の場合の構造は、使役の構造と類似しているとした。「せる」「させる」と「れる」「られる」とが連接する場合は、「れる」「られる」が「せる」「させる」に下位することについての理由について、「ある場合(受身の意味になる場合)には使役格に近い受身格の展叙とも関係しうるが、ある場合(可能・自発・尊敬などの意味になる場合)には主格の展叙とだけ関係する。」と述べて、文構造からも説明している。また、北原保雄(1981)は、助動詞の相互承接について大雑把な助動詞の相互承接を示した。

 

 

9 森重敏-山田文法の論理性の発展-

 

森重敏(1959)は、「る・らる・す・さす・しむ」は格助詞と相関することから、「格の助動詞」であるとした。森重敏(1969)では、

動詞は、述語となることを本来とするから、自然、まず、格に関する道具として、格の助動詞ともいうべきものを分出する。いわゆる「る」「らる」「す」「さす」「しむ」など、受身・使役・自発・可能・敬語の助動詞がそれである。これらは述語に対する主語などの分出する格助詞-これもまた名詞の道具のようなものである-と相関する。

と述べ、「花が風に散らされる」の例をあげ、受身の場合は、形式上は、「花-れる」だが、「風に散らされる」の部分が「風が散らす」という力が、主者「花」に向かって働き、働かれる主者「花」が「散らす」という働きを受けることを述語とすることとなり、「散らす」力が無力な主者において実現するために「散らす」と「れる」とは一本になると解釈している。また、自発については、「故郷が思われる。」の例をあげて、「主者の『思う』ということが、対者『故郷』からの発動で自然に実現する-そこに対者から主者への関係方向がある。」としている。そして、「花が風に散らされる」のように受身の場合には、主者は話し手、第二者、第三者と自由であるが、自発の場合は、「故郷が思われる」のように、主者は話し手に限られてしまい、「故郷が-れる」その結果、「私が思う」としている。

森重敏(1969)は、自動詞を、「意志あるにしてもその遂行よりは遂行した結果の状態や、意志などなくて或る一つの作用が現象している状態やをあらわす意味のもの」として、その自動詞の意味から自発というものが分出しうるとしている。この点で、非情の受身と通じる面がある。

 

 

10 近藤泰弘と尾上圭介-状態性をめぐって-

 

近藤泰弘(2000)は、

意志動詞とはその動詞で示される動作に対して通常の意味での動作主がある動詞である。それに対して無意志動詞とは、その動詞は動作を示さずある様子や状態の対象であるようなものである。先に示したもの以外では「倒れる」「死ぬ」「なる」「はっきりする」「-られる(いわゆる可能・受身の助動詞)」などがそうであって、みな動作とは言えない動詞である。

と述べている。この記述から、近藤泰弘は、「れる」「られる」について、無意志動詞を構成するものとして扱っていることがわかる。このことは、時枝誠記(1941)が「れる」「られる」を客観的な表現であると述べ、接尾語として「詞」に分類したことを、近藤泰弘が発展させ、無意志動詞を構成するものとして、説明していることがわかる。したがって、説明の仕方は異なるものの、基本的には、時枝誠記(1941)が「れる」「られる」を詞とした流れを受けていると考えられる。また、「ている」「てゆく」「てくる」の関係について、

これらは単に話し手の主観的な使い分けにすぎない。また「てゆく」「てくる」のみならず「ている」も、方向性を意識しないという意味において主観的な表現であると認定される。

と述べている。このように「ている」を「話し手の主観的な表現」と説明したことで、従来、曖昧であった「ている」という状態性を示すものの定義が、状態性とは「話し手の主観的な表現」と説明でき、古典の非情の受身は小杉商一(1979)の指摘にあるように、存続の「たり」「り」を下接したりすることから、「状態性」とはされてきたものの、明確に説明できないため、状態性を持ち込まずに考える説が多く提出されてきたが、この状態性という曖昧になっていた事柄に、終止符を打つことになった。山田孝雄の指摘した状態性について、小杉商一(1979)や金水敏(1991)など個別的研究などで指摘されてきた、日本語本来の「非情の受身とは状態性である」という説の正当性も説明することとなった。

それに対して、尾上圭介(1998a・1998b・1999)は状態性を用いずに、受身根源説にも、自発根源説にも立たず、受身・可能・自発・尊敬を一つにまとめ、主語を場と考え、「出来文」(事態全体の出来事を語る文)としている。そして、日本語本来の非情の受身については、主語は人間以外のもので、被影響者ではなく情景描写の受身であるとし、平安時代からある日本語本来のものであり、非情の受身ではないとした。近代になってから、外国語直訳口調の中から次第に市民権を得てきたものと区別している。つまり、尾上圭介の論は、非情の受身と呼ばれていたものを「情景描写の受身(日本語固有)」と「非情の受身(日本語非固有)」とに分けている。これは山田孝雄(1908)述べた古典の有情・非情の受身は固有のものとして認めているが、西欧文直訳の影響のものは非固有としているものを継承・発展させたものといえる。

 

 

結び

 

以上、近代文法学史の面から山田孝雄の受身の論をみると、「受身の状態性」を指摘した点と「る・らる」の原義を受身であることを指摘したことに特徴がある。その後の研究は、この状態性の解釈と森重敏による受身からの格助詞の分出という論理性の発展に継承されていったと言える。受身の状態性をめぐっては、堀重彰は状態的陳述を指摘し、橋本進吉・宮地幸一・時枝誠記は日本語本来の非情の受身の本質は状態性にあることに気付いていた記述がある。佐伯梅友は状態性を持ち込まずに非固有とし、松下大三郎は漢文との整合性で研究を進め、受身文を分類した。また、橋本進吉の示した助動詞相互承接を渡辺実北原保雄が構造的に再考した。近藤泰弘は時枝誠記の論を継承・発展させ、状態性を「話し手の主観的な表現」としたことで、日本語本来の非情の受身の状態性を説明した。それに対して状態性を持ち込まずに尾上圭介は説明したが、日本語本来の非情の受身を情景描写の受身とし、西欧文直訳の影響による非情の受身とを分けた点で、山田孝雄の論を継承している。近藤泰弘が言語の場を発話者と聞き手の存在を意識したが、尾上圭介は発話者と聞き手を除いた、物理的な場として考えている。このことは、言語の場が、発話者と聞き手を前提とするか否かの違いによる。

このように、山田孝雄の受身の論は先行研究として、非情の受身固有説・非固有説の箇所で引用しているが、近代文法史の上から山田孝雄は受身について本質に関わる重要な指摘を行い、後の受身の研究に大きな影響を与えたことがわかる。受身の論を展開する上で、山田孝雄は近代文法学史の上でも重要な指摘を行い、欠かすことのできない論を展開したと言えるのではないだろうか。

 

 

主要参考文献

 

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鶴峰戊申(1833)『語学新書』・テキストは福井久蔵編(1939)『国語学大系』図書刊行会

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大槻文彦(1890)『語法指南』・テキストは北原保雄他編(1996-)『日本語文法研究書大成』勉誠社

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山田孝雄(1936)『日本文法学概論』宝文館

松下大三郎(1927)『標準漢文法』・テキストは徳田政信(1975)『校訂解説・標準漢文法』勉誠社

松下大三郎(1928)『改選標準日本文法』・テキストは徳田政信(1974)『改選標準日本文法』勉誠社

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近藤泰弘(2000)『日本語記述文法の理論』ひつじ書房