紫式部について

紫式部
 紫式部は、本名は未詳で、生没年は未詳です。宮仕えの頃は、「藤式部」とも呼ばれました。「紫式部」の名前は、『源氏物語』で「紫の上」を描いたことに関連があるようで、藤原公任に「わか紫やさぶらふ」と問われたことに由来するようです。「式部」は、父や兄が式部丞(しきぶのじょう)であったことから名づけられたようです。
父は藤原為時の娘で、家系としては藤原冬嗣の流れをくむ名門ですが、本流から外れた受領階級でした。しかし、曽祖父の兼輔をはじめ、勅撰和歌集歌人や、有名な学者が多く出た家系でした。このように、紫式部は文芸・学問に恵まれた環境の中で成長しました。
 幼くして母を失いましたが、父から漢学・音楽・和歌の教えを受けました。二十二歳のころに、藤原宣(ふじわらののぶ)孝(たか)と結婚し、一女(賢子(けんし)=大(だい)弐三位(にのさんみ))を産みましたが、二年後に夫は没しました。『源氏物語』は夫の死後書き始められたようです。寛弘四年ごろ中宮彰子に出仕し、翌寛弘五年には物語の大部分が完成していたようです。『紫式部日記』には、書かれた当初から話題となり、他の女房が書き写していく様子が描かれています。藤原道長の愛人とする考え方も有力です。晩年のことは未詳です。