湯澤幸吉郎の受身記述

国際文化振興会(1944)『日本語表現文典』の受身記述

この日本語テキストは、序文に湯沢幸吉郎によって主に書かれた口語テキストであることが示されている。林四郎(1960)では、以下のように高く評価している(注2)。

文表現の意図によって、日本語の「言い方」を整理したものでは、多分、前述した湯沢幸吉郎氏の「日本語表現文典」が最初のものに属するであろう。この本の特色は、表現意図を「希望」「命令」「意志」等等に分類したたけでなく、文成立の原理を、かなり根本的に考察していることである。

このテキストでは、第十八章で「受身の意を表す言ひ方」で扱われている。この章では、「他から動作・作用を受ける意味を述べるには、次のやうに、動詞に助動詞『れる』『られる』を附ける」と述べ「出る杭は打たれる」「善い者は賞められる」の例をあげ、活用表を示し、四段活用の未然形に「れる」、その他の活用の未然形に「られる」が接続することを述べ、「られる」がサ変動詞につくと「不親切にせられる」「他人から侮辱せられる」なるが、普通には「不親切にされる」「他人から侮辱される」のように「される」になることを述べている。また、よく用いられる連用形についても「又、助動詞『た』、助詞『て』は、次のやうに共に連用形に附いて『れ(られ)た』『れ(られ)て』の形となる」と述べて、「太郎が叱られた(叱られてゐる)」「次郎が賞められた(賞められてゐる)」の例をあげている。
 次に動作主について、「受身を表す文において、動作・作用の主体を表すには、次のやうな名詞・代名詞に格助詞『に』又は『から』を附ける。(更に添意助詞を附けることがある。)」と述べ以下の例をあげている。「からは」「からも」と副助詞を添えている例文をあげているのが特徴的である。
太郎は時々父に叱られる。
中村も社長に呼ばれた。
確かに言はれてそんな事をしたのか。
松本は仲間からは嫌はれている。
善い者は世間から賞められる。
冬の登山は学校からも禁じられた。
武田の旅行は、あなたからとめられたさうですね。
また、自動詞の受身についても以下の例をあげている。
斉藤は気の毒にも長男に死なれた。
(私は)毎夜子供に泣かれる。
(私は)昨夜も友達に来られた。
某は部下に逃げられた。
そして、「主語と動作・作用との関係は間接的であって、主語がその動作・作用の影響を受ける意となる。なほ、自動詞の受身は、必ず主語で表されてゐる者、又は話手に取つて不本意である意味を含むものである。」と述べ、自動詞の受身は迷惑の受身、間接受身であることを述べている。
他の大きな特徴としては、受身を肯定・打消・丁寧・過去にする場合についても述べていることがあげられ、以下の例をあげている。
善い者は叱られない(叱られぬ)。
武田は社長に呼ばれなかつた。
出る杭は打たれます。
二人は忽ち敵に見つけられました。
夏野登山は学校から禁じられません。
中村も昨日は叱られませんでした。
また、第十九章で「使役・被役の意を表す言ひ方」で使役受身を「被役」と呼んで扱っており、「他の使役を受ける(被役)意味を述べるには、次のやうに、使役の助動詞『せる』『させる』に、受身の助動詞『られる』の重なった『せられる』『させられる』を用ひる」「使役主を表す必要のある時は、『から』『に』を附けたものを用ひる」と述べ、以下の例をあげている。
私は時々友達からいやな話を聞かせられる。
太郎は今本を読ませられてゐる。
太郎は寂しい所に寝させられた。
私は兄に変な物を食べさせられた。
さらに注意事項として、「させられる」がサ変についた「せさせられる」の形は普通には「させられる」を用いる点、四段活用についた「せられる」は「される」になることを述べており、どの日本語テキストよりも詳しく書かれている。
このように、このテキストは受身について多くの記述がなされており、詳しいといえる。
このテキストは、湯沢幸吉郎が中心になって執筆したとことであるが、以下に湯沢幸吉郎の著作における受身文についての記述を概観してみることとする。合わせて日本語テキストの位置づけも考えてみる。
湯沢幸吉郎(1944)では、「第二章 動詞」の中で「『される』と『せられる』」、「『忘れられる』と『忘られる』」、「第四章 助動詞」の中で「使役の『せる、させる』と『す、さす』、及び被役の『せられる』と『される』」、「受身の言ひ方」として扱っている。
「第二章 動詞」の中の「『される』と『せられる』」では「される」口語文に広く用いられることを示し、「『忘れられる』と『忘られる』」では音転説を否定し、上代に見られる「忘る」の四段活用の未然形に「る・れる」、下二段活用に「らる・られる」の未然形に接続した流れであることを述べている。
「第四章 助動詞」の中の「使役の『せる、させる』と『す、さす』、及び被役の『せられる』と『される』」では、四段活用に「せられる」が続き、四段活用に「させられる」は誤りで「される」を正しいと述べた。ただし、「せられる」を基本とし、「される」も認めるという方針であることを述べている。「受身の言ひ方」の受身についての考え方を以下にまとめてみる。
○日本語本来の受身は人を主体として「不本意・迷惑」の意味を示すが、西洋風の受身の言い方は不満・迷惑の意味はなく使われている。
○日本語では自動詞でも受身が使えるが、それは「不本意・迷惑」の意味のときに限られる。
○非情の受身で他動詞のときには「て(で)ある」を附け、「自動詞」のときには「てゐる」を附けて動作・作用の反復・継続、あるいは結果の状態を示すのが普通である。この非情物主語の言い方に受身の言い方が加わる言い方(「作られてゐる」「呼ばれてゐます」など)が増えてきており、これらには「不本意・不満」の意味はない。
○非情の受身は、文章が単調になることを防ぐことのできる表現である。有識者は西洋語にふれる機会が多いため、非情の受身が増える(注3)。
○非情の受身に「ねばならぬ」「なければならぬ」(「式は厳粛に挙げられなければならぬ」は本来「式は厳粛にあげなければならぬ」)は従来の表現ではない。「ねばならぬ」「なければならぬ」は、「人がそうするのが義務である」「人間がそうせずにいられない」という意味である。
○非情の受身のようなものを適度に用いることはよいが、必要もないのに多用するのはよくない。
湯沢幸吉郎(1951)でも同様のことを述べている。湯沢幸吉郎(1944)の段階で、基本的な受身についての論は完結しているようである。


(注)
1
林四郎(1960)は、基本文型と植民地支配の日本語教科書について、以下のように述べている。
さて、このような基本文型の第一開花期は、ちょうどそのまま、大東亜戦争の進行時期であった。戦争を別にしても、日本の勢力が東南アジアに伸びていった時期であった。当然の要求として、外国人に、なるべく早く日本語を教えなければならかった。そうなると、国語学者の書いた文法書は、少しも役に立たず、文法より文型が必要になった。その中でも、何はともあれ、まず身につけさせるべき「基本の文型を」を見つけることが必要であった。そういうわけで、国語における文型問題が、そもそも基本文型から出発したのであった。
2
なお、林四郎(1960)は、受身・使役を「態の加わった用言による描叙」とし、「補助動詞」「補助形容詞」「接尾語」に分けて記述し、「れる・られる・せる・させる」を接尾語に分類している。
3
湯沢幸吉郎(1944)の中で、注意として、以下のことを述べている。
受身であつても、古来不本意の意味の伴はないものがある。それは官位を授けられる場合であつて、例へば「大納言に任ぜられる」とか「五位に叙せられたり」とかいふ類である。これは事柄自体が恐悦すべきことであるから、当然である。その他「神童といはれた」「人に褒められる」の如き、一般に喜ぶべき事柄を言ひ表す場合も同様である。

(参考文献)
林四郎(1960)『基本文型の研究』明治図書
湯沢幸吉郎(1944)『現代語法の諸問題』日本語教育振興会[テキストは『著作集3』(勉誠社・1980)所収]
湯沢幸吉郎(1951)『現代口語の実相』習文社[テキストは『著作集4』(勉誠社・1980)所収]