受身と状態性

非情の受身の主語(主格)としては、どのようなものがあるかについては、小杉商一(1979)が、
(1)非情のものが擬人化されてゐるかまたは、言ひかけなどで、それに準じてゐる場合。
(2)有情のもの(人)の身体の一部分が受身の主語となる場合。
(3)歌・詞などが受身の主語となる場合。
(4)人の乗つてゐる車が受身の主語になつてゐる場合。
(5)衣装が受身の主語になつてゐる場合。
(6)「人ガ非情物ヲ・・サレル」の場合。
をあげ、これらは「なんらかの意志で、その表現の中に看取されるものであり、これらを一往、純粋の非情の受身から除いて考察することにする」と述べ、動作主についても、
(1)風・波などが動作・作用を加へた場合。
(2)車・草子などが動作・作用を加へる場合。
(3)動作・作用を加へたのは人(猫・蝙蝠)であるが、人等にその結果をもたらす意志がなく、結果として自然さうなつた場合。
(4)動作・作用を加へたものが、文脈上不明の場合。
(5)動作・作用を加へたものが不特定多数の場合。
(6)動作・作用を加へたものは判つてゐるが、誰がしたかは問題ではない場合。
と分類している。さらに、小杉商一(1979)は、次のように述べている。

非情の受身においては、動作・作用を加へるものは、いづれの場合もほとんど問題にされてをらず、従つて誰がしたかといふ動作性は、極めて希薄になり、その結果としてある状態の方が重要視されてゐるのに気づく。このことは非情の受身には、ほとんどの場合、存在継続の「たり」または「り」が下接されてゐることによつても明らかである「たり」も「り」も下接にない場合は「あり」か「侍り」か「無し」等、存在や状態を表はす語が必ず下にある。

最初に受動文に状態性のあることを述べた、山田孝雄(1908)は、「有情の受身」(動作作用の影響を受くる者其自身より見たる受身)と「非情の受身」(傍観者ありて動作作用の影響を受くる其状態を見たる場合の受身)は、一種の状態性を示すものであり、「状態性こそ受動文の本質」と述べている。したがって、小杉商一(1979)の論は、山田孝雄(1908)の流れとして位置づけることができる。この小杉商一(1979)の論を発展させたのが、金水敏(1991)である。金水敏(1991)は、
平安時代の仮名散文の非情の受身は、知覚された状況を描写する場面で用いられることが多い。
と述べ、そのような場面で用いられる文を叙景文(限定された時空に存在する、ものの「現れ」をうつしとるもの)と名付けている。また、小杉商一(1979)の示した「非情の受身」の例を金水敏(1991)は、大きく二分類し、アスペクトの違いとしている。まとめてみると、次のようになる。

Ⅰ結果の存続・・視覚的な状況描写
「り」「たり」「あり」「侍り」「無し」が下接するか、それに準ずる状態性の表現になる。
○硯に髪の入りてすられたる。(枕草子・28段)
○だいの前に植ゑられたりけるぼうたのをかしきこと。(枕草子・143段)
Ⅱ作用の持続・・聴覚的な状況描写
必ずしも「り」「たり」等の状態性の助動詞は付与されない。
○数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞え、・・。(源氏物語・若菜)
○神楽の、笛のおもしろくわななき吹きすまされてのぼるに、・・。(枕草子・142段)

この非情の受身の状態性に関して、細井由紀子(1986)では、現代語について、次のように報告している。まとめてみると、次のようになり、現代語でも、非情の受身の状態性は、指摘できるようである。



              動詞の意味
受身文に主語が有生名詞句  動作に力点     動作受身
受身文に主語が無生名詞句  結果の状態に力点  状態受身

ところが、小杉商一(1979)が述べるように、「たり」「り」の下接というのが気になるところである。

非情の受身においては、動作・作用を加へるものは、いづれの場合もほとんど問題にされておらず、従つて誰がしたかといふ動作性は、極めて希薄になり、その結果としてある状態性の方が重要視されてゐるのに気づく。このことは非情の受身には、ほとんどの場合、存在継続の「たり」または「り」が下接されてゐることによつても明らかである。「たり」も「り」も下接語にない場合は「あり」か「侍り」か「無し」等、存在や状態を表はす語が必ず下にある。

現代語で考えた場合、
彼は殴られた。
生徒が先生に叱られた。
バスが破壊された。
花が風に吹かれた。
などのように、「たり」の流れを引いている「た」という語が非情・有情に関係なく、下接しているからである。小杉商一(1979)の論は非情の受身に限定したものであったが、ここでは主語が有情である場合の用例まで拡大して、「たり」がどのくらい下接しているかについて考察してみたい。
実際に、有情の受身を調査すると、
○かいまみの人、隠れ蓑とられたる心地して・・。(枕草子・104段)
○「いかで、かく心もなきぞ」などいへど、(我々ハ)のぶることも言はれたり。(枕草子・278段)
○(葵上ハ)いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、・・。(源氏物語・桐壷)
○まろは皆人に許されたれば、召しよせたりとも、なでふことかあらむ。(源氏物語・花宴)
などのように、「たり」の下接している例が目につく。そこで、主語が非情・有情の受身の場合、どのくらい「たり」が下接するか、その用例数を調査してみたところ、『萬葉集』『古今和歌集』『土佐日記』『和泉式部日記』には、「たり」の下接例が無かったが、それ以外のものについては、次のようになった。


        有情   非情   合計
落窪物語    2    1    3
竹取物語    1    0    1
伊勢物語    4    1    5
大和物語    0    2    2
枕草子     10    17    27
源氏物語    19    20    39
紫式部日記   4    3    7
堤中納言物語  2    1    3
更級日記    1    5    6
方丈記     0    1    1
徒然草     2    2    4
合計      45    53    98

対象とした有情628例・非情197例のうち、「たり」が下接したのは、有情45例・非情53例で、それぞれ次のようになる。

有情の受身 7.2%
非情の受身 26.8%

この結果から、古典文で「たり」が下接するのは、主語が非情の場合だけではなく、有情の受身にも、状態性の表現に為り得るものがあるということが言える。
しかし、全体的な比率からは、有情の受身で、「たり」の下接する率は低いので、小杉商一(1979)の論を妨げるものではないといえる。