本田宗一郎の文章の中の受身文

本田宗一郎(2001)『夢を力に』日経ビジネス文庫
○第一部 私の履歴書
(1浜松在の鍛冶屋に生まれる)
私はおじいさんに背負われてその精米屋によく連れてってもらったが、発動機のドンスカドンスカという音と、石油の一種独特のにおいをもった青い煙がたいへん魅力的だった。
もっともその理科も、頭ではよくわかり、先生に聞かれれば答えられるのだが、いざ試験となるとさっぱりだった。
とにかく手先は器用な方で、物を造らせられればだれにも負けない自信があったが、字ではうまく表現できない。
練兵場にはへいが張りめぐらされ、たしか十銭ぐらいの入場料をとっていた。
家に帰ったらきっとどなられるに違いないと覚悟していたが、初め怒っていた父は、私がこうやって飛行機を見て来たと話すと「・・」と父自身感激してしまった。
器械にあこがれ、エンジンに魅せられた私ではあったが、前述のように字に弱い私の通信簿の成績はあまりかんばしくなかった。
しかし、見に行くと「お前みたいなきたない子は来ちゃいけない」と追い返された。
人間は自分の個性でいくべきで、色とか、格好とかに左右されるべきではない。
(2自動車修理工場に見習奉公)
そして高等科を卒業すると、私はおやじに連れられ、たった一つの柳行李をかついで浜松から汽車に乗り上京した。
来る日も来る日も子守り、手に握らされたものは夢に見た修理道具のスパナではなく、ぞうきんだけだった。
それからというものは、多少は主人に認められはじめ、いやな子守りは少なくなって、修理工としての仕事を多くするようになった。
焼け出されていなかに帰るのに困っている人たちをサイドカーに乗せてやると、礼金をたくさんくれた。
主人は芝浦の工場で焼け出された多数の自動車の修理を一手に引き受けてなおしはじめた。
(3小僧っ子から神様へ)
そのすぐあとを私も兄弟子にいわれた通りこぶしの親指を曲げて降りた。
うまくいったと思った瞬間、車掌に「もし、もし」と呼び止められた。
結局、兄弟子の分まで払わされた。
こんなに食べて、あとで高い金をとられるかもしれないと心配していると、女中が入って来て、「あらっ」と言った。
私の実家は鍛冶屋、自転車と機械に縁があり、私ももともと機械いじりが好きなたちだったので、自転車の修理をやらされるようになっても、技術の習得が早く、進歩がいちじるしかった。
ある夏の日、主人に「神田先の九段でギアが欠けてエンコしているから行ってこい」と言われた。
自転車に灯をつけずに水道橋まで走ってくると、物かげにかくれていた真っ白い服、真っ白い手袋にサーベル姿のおまわりさんに「オイ小僧、ちょっと待て」と呼びとめられ、うしろに積んだギアを押さえられてしまった。
白い手袋にサーベル姿のおまわりさんに「オイ小僧、ちょっと待て」と呼びとめられ、うしろに積んだギアを押さえられてしまった。
おかげで「オイ小僧」「オイ小僧」の連発で、私はさんざん油をしぼられた。
とうとう捜しに出た兄弟子が、交番の中でおまわりさんにどなられている金モール姿を見つけ「どうかご勘弁のほどを」とわびを入れてもらって、やっとの思いで逃げ帰った。
私が18歳のとき、主人から盛岡へ出張して消防自動車をなおしてこいと命ぜられた。
年こそ若かったが、腕のほうは認められていた証拠だろう。
まるっきり小僧っ子扱いされた私があてがわれた宿のへやは女中べやの隣であった。
そして自動車をどんどんばらしていくのを見て、こわされてしまいはせんかとハラハラしながら言った。
その日の夕方、旅館に帰ると、へやは女中べやの隣から床の間のついた一等室へ替えられていた。
(4若者と二人で「浜松支店」)
しかし、よその修理工場ではなおらなかった車が私のところに持ち込まれてなおったということがちょいちょいあって評判になりはじめ、なんでもなおるというようなうわさまで立つようになった。
私は地元の新聞にまたデカデカと出されるのをおそれた。
つね日ごろ25歳ぐらいの若僧が40男、50男顔負けの豪遊をしていたので内心おもしろからぬ気持ちも持たれていたのだろう。
翌日の新聞のトップに「アート商会大あばれ」とさんざん書かれてしまった。
「アート商会芸者を連れて大あばれ」とまたやられてはたまらない。
「そんなもの帰ったらすぐ買ってやるから」と言って帰したが、私は自分の持ち物に対する女の執着心の強さというものを、このときほどつくづく感じさせられたことはなかった。
町内の長老たちからは「本田さんの夜回りは大勢で回るから安心できてけっこうだ。だがなんとも騒々しくていけない」といわれたが、なるほどそれに違いはなかった。
女房の村の人たちから「運転手さんといっしょになるの」と女房はたいへんな尊敬のされかただった。
そのころ自家用の車を持っている者はそうざらにはなく、運転手も「さん」づけされるほどだった時代である。
浜松では毎年五月に「たこ祭り」が行われるが、そのお祭りの日に私は友人と二人で料理屋で芸者相手に飲めや歌えの大騒ぎをしたことがある。
そこで当時東京の多摩川べりで開催されていたオートレースに出場した。
車からはね飛ばされ、地面にたたきつけられた私はさらにも一度バウンドして気を失った。
車からはね飛ばされ、地面にたたきつけられた私はさらにも一度バウンドして気を失った。
あのサイレンを鳴らす救急車で病院に運ばれていたのだ。
(5ピストンリング製造に苦闘)
絶体絶命のピンチに追い込まれた。
田代教授はに私の製作したピストンリングを分析してもらうと、「シリコンがたりませんね」と言われた。
そこでとうとう二年たったある日、退学を言い渡されてしまった。
私は退学を命じられてからも、しばらくの間は自分の好きな時間になると出ていって講義を聞いていた。
(6バイクからオートバイづくりへ)
またGHQ連合艦隊総司令部)の財閥解体、工場解体指令でトヨタも解体されるのではいかといううわさもあり、ここできれいさっぱりと縁を切った。
そのころ、磐田に警察学校ができ、私は頼まれてそこの科学技術担当の嘱託になった。
もともと機械作りの好きな私は、こうなったらエンジンまで作ってしまえとばかり、爆撃されて放置してあった機械を修理して据えつけ、エンジンの製造にとりかかった。
だが一方では「あんなもの、ヤミ屋の乗るものだ」とさんざん悪口も言われた。
戦時中からガソリン統制は非常にきびしいもので、戦後になっても割り当て以外のガソリンを使っていると物統令違反でやられた。
違反でやられそうになっても、「使っているのはガソリンじゃない。統制外の松根油だ」とすまして言えばそれで通るというわけである。
そこで一部から悪評も立てられたが、大衆にとってつごうのいいものはやはりつごうがいいわけで、北海道、九州と各地から現金持参で買いにやってきたほどだった。
(7東京に進出、初の四サイクル)
私の会社の人物評として、よく「技術の本田社長、販売の藤澤専務」といわれるが、その藤澤武夫君と私との出会いはドリーム号の完成した昭和24年(1949年)八月であった。
自分がくふうしたものが人に喜ばれて役に立つということに無上の喜びを感じてい私はもうけの方をつい二の次にしていた。
そこでさっそく月産三百台のオートバイの組み立て工場をつくると申請したところ通産省に呼びつけられた。
「三百台なんてとんでもない。オートバイがそんなに売れると本気で思っているのか」としかられたのである。
当時十万台なんて言ったら、それこそ脳病院にでも入れられてしまったろう。
(8借り着で藍綬褒章を受ける)
いまどきそんな格好で銀座を歩いたら、あまりに古典的すぎて気違いじゃないかと思われてしまう。
しかも私は表彰される側なのだから、何もそう堅苦しい思いをする必要はないと思った。
「私の方でなんとかモーニングをそろえておくから、当日はぜひそれを着て出席してください」と頼まれた。
本心はモーニングがないからゴネただけのこと、そこまで言われては来て行くよりほかない。
よく似合うと知人に笑われた。
世に言う「惚れて通えば千里も一里」というやつで人さまが見れば苦しいようでも本人は楽しんでいるのですから、表彰されようとは夢にも思っていませんでした。
帰宅後、女房にその話をすると、私にまたうわ気の虫でも出たかとひどくしかられた。
(9不況下、不眠不休で代金回収)
世界の進歩から取り残されて自滅するか、危険をおかして新鋭機会を輸入して勝負するか、私は後者を選んだ。
こうなった以上、私に残された道はただ一つ、ただしゃにむに前進あるのみだった。
「ホラ見ろ、本田のアプレが始まった」とかなんとかジャーナリズムにたたかれながら、一日でも早く金をかき集めて払うより道がない。
(10国際レースに勝ち世界一へ)
ここで飛行機に行ってしまわれてはたいへんなことになる。
ローマは一日にして成らずというが私は奇しくもそのローマで大汗をかかされたのだった。
(11米国並みの研究費をつぎこむ)
いっぱんに拒否されてしまった。
これはこの男がこれまでの既成観念にとらわれていたからである。
昔のように実用的な用途で乗り回す姿はほとんど見かけなくなり、半面純粋にレジャー用品として見直され喜ばれるようになっている。
昔のように実用的な用途で乗り回す姿はほとんど見かけなくなり、半面純粋にレジャー用品として見直され喜ばれるようになっている。
だから、オートバイは自動車に駆逐されるものではなく、自動車の次にくるレジャー品である。
そんなケチな了見ではベルギーの人たちにきらわれ海外企業は成功しない。
研究員は現在六百六、七十人おり、毎月約一億八千万円ぐらいの経費を使って運営されている。
(12社内にしみわたる理論尊重の気風)
だから鈴鹿でカブの生産が始まったときには初めからスムーズにすべてが進行、カブの生産費は大幅に引き下げられた。
百億円の大工場がわずか二年半でペイされている。
そのとき世間からは何かと非難されたが、私はちゃんとした見通しをもって行った。
昔から言われているように、ヤリの名人は突くより引くときのスピードが大切である。
私はアプレ事業家などと言われているが、アプレもアバンもない。
よく私のことを陣頭指揮だなどという人がいるが、社長というものは重役会議で決定したことが手順よく行われているかどうか全体を監督し、突発事故が起きたときにはよく対処されているかどうか、もし対処されていなければ役員に相談して適切な打開策を検討するのが役目である。
よく私のことを陣頭指揮だなどという人がいるが、社長というものは重役会議で決定したことが手順よく行われているかどうか全体を監督し、突発事故が起きたときにはよく対処されているかどうか、もし対処されていなければ役員に相談して適切な打開策を検討するのが役目である。
よく私のことを陣頭指揮だなどという人がいるが、社長というものは重役会議で決定したことが手順よく行われているかどうか全体を監督し、突発事故が起きたときにはよく対処されているかどうか、もし対処されていなければ役員に相談して適切な打開策を検討するのが役目である。
それさえスムーズに行われていれば何も陣頭指揮などする必要はない。
激励あり、助言あり、思わぬ旧友をあたためるものもあって、私自身反省やら懐旧の情やらを味わう機会を与えられた。
この手紙に私は全く心をうたれた。