非情の受身の用例調査

非情の受身の用例調査

以下、実際に積極的に非情の受身を認める立場で、古典文の「非情の受身」の例を見ていくこととする。今回の調査で用いた出典は、『萬葉集』『竹取物語』『伊勢物語』『大和物語』『古今和歌集』『土佐日記』『落窪物語』『和泉式部日記』『枕草子』『源氏物語』『紫式部日記』『堤中納言物語』『更級日記』『方丈記』『徒然草』(岩波古典文学大系)である。ただし、『源氏物語』は『源氏物語・全』(おうふう)を用い、桐壺から藤裏葉までを調査した。その他は、全用例を調査した。ただし、表記は私意によって改めた箇所がある。また、紙面の都合上、全用例はあげなかった。

萬葉集』・・13例
○白珠は人に知らえず知らずともよし知らずともわれし知れらば知らずともよし(1018)
○この花の一枝のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや(1457)
○沫雪に降らえで咲ける梅の花君がり遣らばよそへてむかも(1641)
○昔こそ難波田舎と言はれけめ今は今日引き都びにけり(312)
竹取物語』・・2例
○もし、幸に神の救あらば、(船ハ)南の海に吹かれおはしますべし。(28)
○これを見て、内外なる人の心ども、物におそはるるやうにて、あひ戦はん心もなかりけり。(9)
土佐日記』・・1例
○(私ノ)およびもそこなはれぬべし。(廿日)
伊勢物語』・・1例
○つとめて、その家の女の子ども出でて、浮海松の浪によせられたる拾ひて、いへの内に持て来ぬ。(87段)
『大和物語』・・9例
○家も焼けほろび、物の具もみなとられはてて、いといみじうなりにけり。(126段)
○隠れ沼の底の下草水隠れて、知られぬ恋はくるしかりけり。(138段)
○かの廂にしかれたりし物は、さながらありや。(140段)
○簾もへりは蝙蝠にくはれてところどころなし。(173段)
古今和歌集』・・8例
三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ(巻2・春歌下・94)
○雪降れば冬こもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける(巻6・冬歌・323)
○・・今は野山し近ければ春は霞にたなびかれ夏は空蝉なきくらし秋は時雨に袖を貸し冬は霜にぞせめらるるかかるわびしき身ながらに・・(巻19・雑歌体・1003)
落窪物語』・・7例
○さきなる車は、尻ばやにこされて、人々わびにたり。(巻之二)
○後の御車せかれて、とどまりがちなれば、雑色どもむつかる。(巻之二)
○人々の装束は、爰にしおかれたらむまうけの物して、西の対にてせんとおもほして、西の対しつらはせたまふ。(巻之四)
和泉式部日記』・・1例
○冬の日さへ氷にとぢられて明かしがたきを明かしつるかな。
枕草子』・・36例
○帽額の簾は、まして、こはじのうちおかるるおといとしるし。(28段)
○つまとりの里、人に取られたるにやあらむとをかし。(65段)
○神楽の笛のおもしろくわななき吹きすまされてのぼるに、・・・(142段)
○近う立てたる屏風の絵などは、いとめでたけれども、見もいれられず。(271段)
源氏物語』・・64段
○この際に立てたる屏風も、端の方おしたたまれたるに、紛るべき几帳なども、・・。(空蝉)
○数珠の脇息にひき鳴らさるる音、ほの聞こえ、・・。(若紫)
○筝の琴の引き鳴らされたるも、けはひしどけなく、・・。(明石)
○御髪の吹き上げらるるを、人々おさへて、いかにしたるにかあらん、うち笑ひたまへる、いといみじく見ゆ。(野分)
紫式部日記』・・7例
○おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。(1)
○渡殿の橋のとどろとどろと踏みならさるるさへぞ、ことごとの気配には似ぬ。(2)
○いとよくはらはれたる遣水の、心地ゆきたるけしきにて、・・。(27)
○口にいと歌の詠まるるなめりとぞ見えたるすぢに侍るかし。(48)
堤中納言物語』・・3例
○(毛虫ハ)日にあぶらるるが苦しければ、こなたざまに来るなりけり。(虫めづる姫君
○まろが菊の御方(=虫の名)こそ、ともかくも人にいはれ給はね。(はなだの女御)
○左の果てに取りいでられたる根ども、さらに心及ぶべうもあらず。(逢坂越えぬ権中納言
更級日記』・・10例
○軒近きをぎのいみじく風に吹かれて、くだけまどふが、・・。
○ゐやう定の吹きすまされたるは、何ぞの春とおぼゆかし。
○冬の夜の月は、昔よりすさまじきもののためしにひかれて侍りけるに、・・。
○そのをり荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、・・。
方丈記』・・4例
○あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。(2)
○家はこぼたれて淀川に浮かび、地は目のまへに畠となる。(2)
○人をはぐくめば、心恩愛につかはる。(2)
○さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。(2)
徒然草』・・31例
○されば、女の髪すぢをよれる綱には、大象もよくつながれ、女のはける足駄にてつくれる笛には、秋の鹿、必ず寄るとぞ言ひつたへはべる。(9段)
○古き墳はすかれて田となりぬ。(30段)
○焚かるる豆殻のはらはらと鳴る音は、・・。(69段)
○御溝にちかきは河竹、仁寿殿のかたによりて植ゑられたるは呉竹なり。(200段)

まとめてみると、受身の全用例における「非情の受身」の割合は、次のようになる。

萬葉集22.4%
竹取物語14.3%
土佐日記25.0%
伊勢物語9.1%
大和物語32.1%
古今和歌集72.7%
落窪物語7.0%
枕草子28.3%
和泉式部日記8.3%
紫式部日記20.6%
源氏物語20.9%
更級日記37.0%
堤中納言物語27.3%
方丈記66.7%
徒然草40.8%
※『源氏物語』は「桐壺」から「藤裏葉」までを扱った。

まず、古典文における「非情の受身」の例として、よく引用される『枕草子』と『徒然草』は、よく引用されるだけあって、それぞれ、28.3%、40.8%と他の作品よりも割合が高いことがわかる。
この数値の中で、『古今和歌集』における「非情の受身」の割合が高いのは、擬人的表現が多いためだと考えられる。つまり、有情と非情との同一視が考えられる。
また、『竹取物語』『伊勢物語』『落窪物語』『和泉式部日記』での「非情の受身」の割合の少なさは、人物関係が中心であり、しかも、話の展開が早いため、主語(主格)には、非情物がなりにくいためであると考えられる。
枕草子』『源氏物語』『紫式部日記』『更級日記』の場合には、自然描写の場面での「非情の受身」が多い。
まとめると、次のようになる。
○和歌における「非情の受身」は、擬人法が多いので、純粋に「非情の受身」の例とすることはできない。
○人物関係を主とし、話の展開が早い作品では、「非情の受身」が使われにくい。
○自然を描写する場面での「非情の受身」が多い。このことは、尾上圭介(1998a)が既に指摘しており、古典の非情の受身を情景描写の受身と呼んでいる。
○文章の性質によって、「非情の受身」の使用状況には異なりが出てくる。