受け身と状態性の先行研究

1.受身と状態性についての先行研究

受身と状態性について、重要な指摘を行ってきた先行研究を以下にまとめてみることとする。

1.1山田孝雄−状態性の指摘−

山田孝雄(1908)は日本語本来の固有の受身か否かは、状態性にあるとし、古典の受身文も現代の受身文も本質は状態性であり、
○この橋は工人に造られたり
のような例では、橋の成立原因をいうもので、「受身の文の構成に困難を生ずる」とし、明治以降の欧米文直訳の受身は日本語本来の受身ではなく、状態性が感じられない表現であると述べた。この状態性という指摘が、受身の考え方に大きな影響を与えることとなった。

1.2小杉商一−状態性と非情の受身−

小杉商一(1979)は古典における非情の受身は、
○硯に髪の入りてすられたる。(枕草子・28段)
○だいの前に植ゑられたりけるぼうたのをかしきこと。(枕草子・143段)
のように「り」「たり」「あり」「侍り」「無し」が下接するか、それに準ずる状態性の表現になることを指摘し、山田孝雄の状態性の説を継承した。この研究によって、古典の非情の受身の本質は状態性であることが定説となった。

1.3金水敏−状態性と非情の受身の継承・発展−

金水敏(1991)は、山田孝雄(1908)・小杉商一(1979)を継承し、非情の受身の状態性は知覚の描写となると述べ、小杉商一(1979)を発展させ、
○硯に髪の入りてすられたる。(枕草子・28段)
○だいの前に植ゑられたりけるぼうたのをかしきこと。(枕草子・143段)
のような視覚的な状況描写と、
○数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞え、・・。(源氏物語・若菜)
○神楽の、笛のおもしろくわななき吹きすまされてのぼるに、・・。(枕草子・142段)
のような、必ずしも状態性の表現を付与しない聴覚の状況描写とに分けた。
また、金水敏(2006)では「物事の属性、一時的あるいは恒常的な状態、一定の結果状態や運動の持続状態を表す述語が属性である。一般に、形容詞、形容動詞は状態性の述語であり、動詞は、状態動詞と呼ばれる語群を除けば、非状態性の述語であると考える。」とした。

1.4近藤泰弘−受身と状態性の主観性−

近藤泰弘(2000)は、時枝記誠(1941)の言語には発話者が存在するという立場で、大江三郎(1975)、澤田春美(1993)の主観性の研究を踏まえた上で、近藤泰弘(2000)は、主観というものを、「ている」「てくる」、「やる」「もらう」などの授受・受身・コソアド・敬語などのダイクシス(直呼)のように、視点が関係する表現である自分とそれ以外を主観的に区分する体系と、従来から主観表現とされるムード・モダリティ・陳述とに分け、視点が関係するものはムード・モダリティの研究対象から外すことを述べた。
この近藤泰弘(2000)を踏襲し、益岡隆志(2007)は、視点に関わるものを非構成的主観性、従来のモダリティを構成的主観性と呼び、非構成的主観性をモダリティの研究対象から外した。このように、状態性とは、主観表現の一種であることを示すとともに、受身の本質は状態性であり、主観表現の一種であることが確認されることとなった。