受身と日本語学史

[要旨]

近代文法学史における受身と状態性

本稿では、先行研究に見られる受身、とりわけ、古典の非情の受身と呼ばれる現象に着目してみた。そして、主に、中古の資料を中心として、有情の受身と呼ばれるものと、比較しながら扱った。
使用したのは、『萬葉集』『竹取物語』『伊勢物語』『大和物語』『古今和歌集』『土佐日記』『落窪物語』『和泉式部日記』『枕草子』『源氏物語』『紫式部日記』『堤中納言物語』『更級日記』『方丈記』『徒然草』(岩波古典文学大系)である。ただし、『源氏物語』は『源氏物語・全』(おうふう)を用い、桐壺から藤裏葉までを調査した。その他は、全用例を調査した。
和歌における「非情の受身」は、非情・有情の同一視である擬人法が多いため、純粋な「非情の受身」の例とすることはできない。この点については、『国語学大辞典』でも記述が見られる。また、人物関係を主として、話の展開が早い作品では、「非情の受身」が使われにくく、自然を描写する場面での「非情の受身」が多い。このことは尾上圭介(1998a)が既に指摘している。このように、文章の性質によって、「非情の受身」の使用状況は、異なりが出てくる。例えば、非情の受身の例としてよく使われる、『枕草子』『方丈記』『徒然草』などの随筆は頻度が高い。また、受身文と状態性との関係が指摘されているが、全体的な割合は高くはないが、古典の非情の受身だけでなく、有情の受身でも状態性の表出になるものがある。
非情の受身では、「非情−なし」が7割以上あるが、金水敏は、この形が叙景文(限定された時空に存在する、ものの現れを写し取る文)に多く見られる形式としている。尾上圭介は、古典文における非情の受身は、情景描写の受身としたが、これは金水敏の言う、叙景文ということであり、確かに古典文では多いけれども、完全に情景描写と言い切るのは割合から言って難しいが、古典文の場合には、現代語の非情の受身のように多様なものとは質が異なっていることがわかる。
また、形として、主語が有情ならば、ニ格は有情もしくは表出しない、また逆に主語が非情ならば、ニ格は非情もしくは表出しない。つまり、「有情−なし」「有情−有情」「非情−なし」「非情−非情」というのが、それぞれ、有情の受身・非情の受身の9割以上である。したがって、「有情−非情」や「非情−有情」は好まれなかったことがわかる。受身文の主語と旧主語との関係については、金水敏の「*非情−有情」が、小杉商一の狭義の非情の受身(純粋な非情の受身)では言えたが、広義での非情の受身では、当てはまらなかったように、狭義の非情の受身か広義の非情の受身かで、異なってくるので、論を進める際に、どちらの立場かを明示する必要がある。

[要旨]

近代文法学史における受身と状態性−山田文法を中心に−

受身の中で、非情の受身と呼ばれる表現がある。非情の受身は、三矢重松を嚆矢とし、日本語固有説と非固有説とがあることで知られている。また、日本語の受身の本質は状態性であるか否かが、重要な論点にもなってきた。受身と状態性の指摘は、山田孝雄から使用されているが、状態性を考慮しない立場もある。しかし、近藤泰弘によって、状態性を話し手の主観的な表現の一種とすることで、日本語の受身の本質は状態性の表現であると説明できることとなった。そこで、本稿では、受身と状態性をテーマに、山田孝雄を中心に近代文法史の流れを扱った。
近代文法学史の面から山田孝雄の受身の論をみると、日本語の受身の本質は「状態性」にあり、欧米文直訳の中立的・客観的に描く受身は、話し手は主体の側に立たないとし、「る・らる」の原義を受身であると指摘したことに特徴がある。その後の研究は、この状態性の解釈と森重敏による受身からの格助詞の分出という論理性の発展に継承されていったと言える。受身の状態性をめぐっては、堀重彰は状態的陳述を指摘し、橋本進吉・宮地幸一・時枝誠記は日本語本来の非情の受身の本質は状態性にあることに気付いていた記述がある。佐伯梅友は状態性を持ち込まずに非固有とし、松下大三郎は山田孝雄とは異なる立場で、漢文との整合性で研究を進め、受身文を分類し、現代の受身文の分類の理論的基礎になった。また、橋本進吉の示した助動詞相互承接を渡辺実北原保雄が構造的に再考した。
近藤泰弘は時枝誠記の論を継承・発展させ、状態性を話し手が主体の側に立って経験を描き、主体に視点を置いている視点と主観性に着目し、主観性の一種とし、従来のモダリティとを区別した。この研究を踏襲し、益岡隆志は、視点に関わるものを非構成的主観性、従来のモダリティを構成的主観性と呼び、非構成的主観性をモダリティの研究対象から外した。このようにして、日本語本来の非情の受身の状態性が説明できることとなった。
それに対して状態性を持ち込まずに尾上圭介は説明したが、日本語本来の非情の受身を情景描写の受身とし、西欧文直訳の影響による非情の受身とを分けた点で、山田孝雄の論を継承している。近藤泰弘は時枝記誠の流れで、言語の場を発話者と聞き手の存在を意識したが、尾上圭介は発話者と聞き手を除いた、物理的な場として考えている。このことは、言語の場が、発話者と聞き手を前提とするか否かの違いによるといえる。





[要旨]

現代受身文の分類と理論−松下文法から日本語記述文法へ−

現在の受身文の分類研究において果たした松下大三郎の業績は、先行研究でも必ず引用されるほどである。松下大三郎を嚆矢とした現代日本語の受身文の理論的研究を本章では概観し、現在の最新の研究でも言われている受身の理論の中に、松下大三郎の著作にその萌芽が見られる箇所があることを指摘し、松下大三郎の受身の分類と理論の研究史の中に果たした意義と役割、および指摘されていなかった点を明らかにし、再評価を試みた。
本稿では、受身の理論的研究の上では欠かすことのできない松下大三郎を起点とし、松下大三郎の影響関係の上から、益岡隆志のいう、「日本語記述文法」の流れを重視し、現代の受身の主な論にいたるまでを概観し、受身文の分類と理論とを扱うこととした。
松下大三郎では、受身文を被動として、「単純被動」「利害被動」「可能被動」「価値被動」「自然被動」の五つに分類している。この分類は、動作を受ける対象を分類基準にした点に特徴がある。特に、一の単純被動は直接受身、二の利害被動は間接受身のことを示しており、間接受身を細分類している点が特徴的である。そして、「れる・られる」の多義性を「受身」を原義とし、三、四、五で自発・受身・尊敬を受身の一種としたもので、中国人留学生への日本語教育の経験が生かされているといえる。
この松下大三郎の分類は、現在では直接受身・間接受身・自動詞の受身・持ち主の受身・迷惑の受身・非情の受身と呼ばれているものを体系的に扱ったもので、現代の受身文の理論的分類の出発点を成すものであり、必ず引用されるものである。それに対し、日本語学史の上で、松下大三郎は山田孝雄を批判的に意識している面があり、受身にもそのことが言える。つまり、山田孝雄は、受身文の分類としては、主語と旧主語に着目し、非情物主語・ニヨッテ格は、日本語本来ではないとする「非固有説」を論じ、直接受身と間接受身に大きく分類するにとどまり、動詞の自他には意味がないとして動詞の自他を論じている研究を批判した。
それに対して、松下大三郎は、受身文の種類を細かく分類し、有情物主語・非情物主語・旧主語ニヨッテ格についても、非固有ではあるが、そういったものを現象としてとらえ、受身文の分類の中に取り入れ、さらには山田孝雄が批判した動詞の自他に注目して分類を行ったのである。この点は、山田孝雄の文法論への批判的意識と松下大三郎の日本語教育の経験が生かされているといえる。現代の受身の論について考えるとき、山田孝雄と松下大三郎の受身の論は、必ず引用され、日本語教育や生成日本語文法などでは、松下大三郎の受身の論は欠かすことのできない研究とされている。そのため、受身の分類と理論では、松下大三郎の存在は欠かすことができないと言える。