陰陽師とは
○陰陽師について
陰陽師とは?
陰陽師について、吉田光邦氏は以下のように述べています。
陰陽家は中国の思想を継承し、律令制以来の伝統を持っていた。その活動が目立つのは、平安朝のころであり、賀茂家・安倍家がその中心となっていた。賀茂家は幸徳井とも称し、安倍家は安倍晴明を祖としてのちには、土御門となった。彼らは鬼神を自由に使って吉凶を予知し、また災害を除いたのである。『今昔物語集』『古今著聞集』などには、彼らに関する各種の説話が録されていて、その力のすぐれていたことが伝えられてきた。
陰陽師とは、陰陽道の担い手のことです。もともとは、中国発祥の「陰陽五行説」を基にしていますが、日本で独自の発達をとげました。占いや呪術を用いて、悪霊や鬼神を祓い、霊の障りである病を治し、ときには呪詛返しや調伏合戦を繰り広げました。その一方で、当時最新鋭の天文学や暦学を駆使して、吉凶を占い、国家を安泰に導く羅針盤の役目も果たしていました。つまり、当時としては、最新の科学とオカルトとを融合させたものが陰陽道だったのです。陰陽道は天皇の庇護下にありましたが、貴族の没落とともに民間にも流出していきました。そして、明治になると、神道は国家神道に統一され、陰陽師の機能の一つである「暦」は、東京帝国大学が編纂することとなり、お祓いや神事の役割は神社の神職が行うこととなり、陰陽道の役割は消滅しました(詳しくは、戸弓学『陰陽道とは何か』(PHP新書)を参照してください)。
陰陽師は、宮中に所属する「官人陰陽師」と、町にいる「法師陰陽師」がいます。「官人陰陽師」は、賀茂(かもの)保(やす)憲(のり)、賀茂(かもの)光栄(みつよし)、安倍(あべの)晴(せい)明(めい)などの天皇や貴族のために奉仕する、いわば国家公務員的存在です。「法師陰陽師」は、民衆相手の個人営業的存在といえます。本来は、賀茂氏のほうが陰陽師の主流でしたが、室町時代に途絶えてしまい、晴明の立ち上げた安部氏が土御門家を名乗り、唯一の公家の陰陽師となりました。国家公務員的な「官人陰陽師」は、「中務省(宮中事務を取り扱う機関)」にある「陰陽寮」という部署に所属し、日時と方角を調査し、報告していました。つまり、貴族が政務や儀式を実施するのによい日時や場所を占いで決定していました。貴族たちは、吉凶をたいへん気にしていて、行動するのに適した日時を陰陽師に調べさせて、その判断に従いました。
占いにあたっては、六(りく)壬式盤(じんちょくばん)などの占いの道具や風水の知識も使いました。さらには、祈祷や怨霊を退散させたり、雨乞いなどのための各種の祭祀の準備も行いました。お祓いのときに穢れを移すための「撫物(なでもの)」という人形作りにも励みました。天皇の行幸のときには、道中の無事を祈り、病・死・産などの穢れがあるときには、神事を調整し、毎年11月には、翌年の暦を奏上しました。
当時は、貴族は基本的には仏教ですが、陰陽道と上手に並存していた時代で、天皇や貴族は、この世の現実的な問題に対しては陰陽道を効果的に用いました。また、地獄・極楽・死後の心配などの、あの世の問題については仏教に教えを乞いました。