近松の言説

近松の言説―穂積以貫『難波みやげ』―


○文句にてには多ければ、何となく賤しきもの也。然るに無功なる作者は文句をかならず和歌あるひは

俳諧などのごとく心得て、五字七字等の字くばりを合さんとする故、おのづと無用のてには多くなる也。

たとへば、年もゆかぬ娘をといふべきを、年はもゆかぬ娘をばといふごとくになる事、字わりにかかは

るよりおこりて、自然と詞づらいやしく聞ゆ。されば、大やうは文句の長短を揃えて書くべき事なれど

も、浄瑠璃はもと音曲なれば、語るところの長短は節にあり。然るを作者より字くばりをきつしりと詰

過ぐれば、かえつて口にかからぬ事あるもの也。この故に我作(わがさく)には此かかはりなき故、てにはおのづか

らすくなし。・・〈中略〉・・藝といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也。成程、今の世実事によ

くうつすをこのむ故、家老は真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅(べに)脂白粉(おしろい)をぬる事ありや。又、真

の家老は顔をかざらぬとて、立役がむしやむしやと髭は生なり、あたまは剥(はげ)なりに舞台へ出て藝をせば、

慰になるべきや。皮膜(ひにく)の間といふが此也(ここなり)。虚(うそ)にして虚にあらず、実(じつ)にして実にあらず、この間に慰(なぐさみ)が

有たきもの也。