東洋医学の三大理論

東洋医学の三大理論
1陰陽論
自然界のさまざまな事象を陰と陽の2つに分け、陰陽の対立や依存しあうことで全体のバランスが保たれると考える。

2五行論
すべての事物は「木・火・土・金・水」という5つの基本物質に属性に分類され、それぞれが互いに協調や抑制の関係にあるとする。

3天人合一(天人相応)思想
自然と人体とは、同じ要素を持っていると考え、自然界の現象を参考に体内のしくみや異常を想定する。


気学の重要人物
神谷古暦
松浦東鶏・・江戸時代後期
松浦琴鶴・・九星方鑑学・家相学中興の祖
園田真次郎・・気学の創始者。豪放ま性格と伝えられている。
飯田天涯・・45°の風水的気学。
田中胎東・・奇門遁甲に近い気学。最高の家相に住んだが、刺殺された。
浦辺顕・・驚異の的中率といわれた気学

気学の源流−『活盤奇門遁甲精義』(高根黒門)東洋書院の記述を中心に−
気学の源流となったのは、「方鑑学」と言われるもので、「方鑑学」にも幾つかの流派があります。明治の終わりに園田真次郎氏によって気学が創始される以前に、最も普及していたのが、江戸時代の松浦琴鶴の系統の九星を用いる流派だったのです。「九星学では本命星で見るが、気学では本命星と月命星でみる」と中村文聡は述べています。
古代日本では「方違え」というものが行われており、『源氏物語』や『枕草子』にでてきますが、実際にはどのようにやっていたのがよくわかりませんでした。そのような秘伝が、「土御門占い」「安倍晴明占い」という形で、占いに関する文献という形で出てきたのが江戸時代中期でした。
松浦琴鶴は、江戸時代の人物ですが、伯父に当たる松浦東鶏より方鑑学と家相を学びます。松浦東鶏の方鑑学は、松浦東鶏の著になる『方鑑精義』をみれば明らかなように、「大将軍」や「金神」や「東幡方」等の吉凶神殺を用いるもので、琴鶴はこれに満足しなかったようです。ちょうどその頃、中国より『協紀弁方書』『陰陽五陽奇書』などの方位書が輸入されていました。松浦琴鶴の『三元秘用方鑑図解』の「真吉方の弁」の項で、松浦琴鶴は「これまでの方鑑学に基づいたが吉凶が当たらなかった。ここにおいて、昼夜を削り、ついにその真偽を発明した。」と語っています。そして同書によれば、陰陽五陽奇書の中の1冊である『三白宝海』の記述をヒントに、本命星と方位に廻座した九星の相剋相生による方位術を編み出し、これが現代の気学の源流であると言えるでしょう。それ以降、高等な方位術である「奇門遁甲」(原型は「八門遁甲」であるといわれています)から抽出して、江戸時代の家相家であった松浦(まつうら)琴(きん)鶴(かく)は、生まれ年の九星を中心とした「九星方鑑学」を確立して占うようになりました。その後、松浦琴鶴は師匠であり伯父でもある松浦東鶏に対して、自分が創出した九星方鑑学こそが真伝なので考えるを改めるように進言しますが、松浦東鶏は考えを変えず、ついに二人は袂を分かつことになります。松浦琴鶴の九星方鑑学は、不要な神殺を極力排除して、神殺方位よりも本命星との方位との九星との生剋の方が優先すると主張したのです。しかし、琴鶴は暗剣殺や破等の凶方位は、九星の吉方位といえども使用できないと言っており、今日の気学の原型は、松浦琴鶴によって作られたと言ってよいでしょう。
この方位学(「方鑑学」と「九星学」)が、園田(そのだ)真次郎(しんじろう)の手によって大正時代末期に簡略化されて気学が成立しました。この気学が非常に流行したために、「命」の占いまで見るようになっていきました。さらには、形で見る「相」の一種である「家相」まで気学でみるようになったのです。そして、明治時代になり、陰陽師の役割が終了したのちには、神主が陰陽師の役割も行うようになり、盛塩などのまじない的な要素とも結びつくこととなりました。現在では「九星気学」などと呼ばれて、すっかり定着しました。
気学などの九星による方位学は日本のオリジナル占術で、台湾の占術の関係者でも、同様に記述してあります。一般に方位を東西南北の四正方位を30度、それ以外を60度に分割する説を、気学創始者園田真次郎の考案と言う人がいますが、実は園田真次郎明治42年に気学を創始して講義を開始する二十年程も前の明治21年に、松浦琴鶴の弟子筋にあたる尾島碩聞が著した『方鑑大成』には、当時すでに方位を30度60度に分割する説があることに言及しています。「大将軍」や「金神」や「東幡方」等の吉凶神殺とは、年末になると配られる暦の本の冒頭に書かれてる方位神です。例えば、「大将軍」は災いをもたらすとされ、「大将軍」が巡る方位への移転や増改築などは凶とされます。また、この本の中では、方位を東西南北の四正方位を30度、それ以外を60度に分割する説は、園田真次郎氏が提唱する以前から広まっていたとありますが、『運命学を斬る』(群松恵之介)には園田氏が関東大震災の体験から方位を東西南北の四正方位を30度、それ以外を60度に分割する説を提唱するようになったと書かれています。この本の著者の群松恵之介氏は園田真次郎氏に面談された際に、そのことを本人から直接聞かれたとありますので、信憑性と高いと思われます。また、この本の中では、生前の園田真次郎氏は良く言えば磊落、悪く言えば無頓着な方であったとあり、園田真次郎氏の提唱された気学にも疑問を持たれているようです。
問題点としては、気学の中に取り入れられている「九星学」では、九つの星で人間を占うという分類で、どんな性格で適職は何かということまでも鑑定する万能の占いになってしまっている点があげられます。佐藤六龍によると、特に奇門遁甲の一部から生まれた九星学は、理由付けが面白いからということで、テキ屋が大通りで客寄せをするためのものでした。また、鮑黎明は『華僑の風水学』(東洋書院)の中で、気学を否定していますが、浦辺顕の気学に関しては一定の評価を与えています。

(気学と風水との違い)
1風水は河図を基に中国で発達した。気学は洛書を基に日本で発達した。
2風水は相学として扱われる。気学は占術として位置づけられている。
3風水では北を上として用いる。気学では南を上とする。
4風水では、東西南北がすべて45度である。気学では30度と60度である。
5風水では、磁気による東西南北に基づく。気学では太陽の位置に基づく。
※中国古代伝説上の図や文字の「河図」「洛書」。「河図」は伏羲(ふっき)の世に、黄河から現れた竜馬の背のうず巻いた毛の形を写したという図のこと。易の八卦はっかの基になったとされる。「洛書」は夏の禹王が洪水を治めたとき、洛(らく)水(すい)という川から現れた神亀の背の文字を写したとされる図。『書経』洪範篇のもとになったとされる。転じて、得ることが難しい図書のたとえともなる。「河」は黄河、「洛」は洛水という川。