ハンス・ケルゼンの民主政治擁護

 

 

ハンス・ケルゼンの民主政治擁護

      

ケルゼンは、「あるかないか(存在・Sein/is)」と「あるべき・なすべき(当為・Sollen/ought)」とを、「分離可能性テーゼ」として、方法的二元論で取り扱っている。また、科学主義との近接性も指摘し、オーゥエン、サン・シモンを空想的社会主義と呼び科学的社会主義と対立させて考えた。その上で、ケルゼンの民主政擁護について見てみる。ゲルゼンは相対主義・法実証主義の立場から以下の記述にみえるように、その「自由の理念」を見ることができる。

 

民主制はその敵よりの攻撃に対し最も脆弱な政体である民主制はその最悪の敵さえもその乳房で養わざるをえないという悲劇的宿命を負っている。民主制が自己に忠実であろうとすれば、民主制絶滅運動をも容認し、それに他の政治的立場と同様の発展可能性を保障せざるをえない。・・〈中略〉・・多数の意思に抗し暴力にさえ訴えて主張される民主主義はもはや民主主義ではない。・・〈中略〉・・民主主義者は身を忌むべき矛盾に委ね、民主制救済のために独裁を求めるべきではない。船が沈没してもなおその旗への忠実を守るべきである。」(『民主制の擁護』)

 

この記述から見えることは、正義と寛容の精神に支えられているのが特徴的である。相対主義については、共同体内の共通性を前提とする文化相対主義が知られているが、「経験的相対主義」「規範的相対主義」の亜種を取り除いたものを「価値相対主義」を述べた。宗教的価値、美的価値など、価値はその正当性を認めるものにのみ妥当(valid)するとし、「妥当」は正しいものとして適用されるとした。

また、ケルゼンは、少数派を前提とし、少数派に不利益が出ないように配慮したうえで、多数決がもっとも害が少ないとした。それは、他律を強制される人数が最小であり、正当性は保証しない暫定的な結論であるからだとしている。その正義について、「自由の正義、平和の正義、民主主義の正義、寛容の正義」をあげ、寛容の正義の立場から、マルクス主義は客観的な真理の実在を設定する点で、ナチズムはカリスマ的指導者への服従を促し、一元化・統一化する点で多様性を否定するため、どちらとも寛容とは相容れない不寛容の思想であるとした(注1)。

このようにケルゼンの民主政の根拠としては、「法実証主義」、「価値相対主義」、「正義」、「寛容さ」をあげることができるであろう(注2)。

 

(注)

1

また、ドイツ連邦共和国基本法18条は「寛容の限界」も指摘している。

2

小貫幸浩(2018)は、「ケルゼンは民主主義にさほど寄与していない」とケルゼン批判している。

 

(参考文献)

小貫幸浩(2018)「法の純粋理論と民主制の擁護の間-補論・その2-」『駿河台法学』31巻2号

瀧川裕英・宇佐美誠・大屋雄裕(2014)『法哲学有斐閣