細江逸記の受身記述

細江逸記の受身記述−比較言語学山田孝雄の影響−

細江逸記(1928)は、英語やドイツ語とは異なることが一般に論じられているが、比較研究の立場からすると、印欧語族内でも異なって用いられていることを指摘し、「所相」は西欧諸国でも日常会話で用いられており、心理的に用いられる条件を以下の三点にまとめ、(1)以外は所相(受身)を用いなくても用が足りるとている。
(1)行為者が知られざるか又は言者の心中に的確ならざる時
(2)行為者は的確に知られて居ても受動者の方が重要視せらるる時
(3)文に変化あらしむる為
細江逸記(1928)は、古代サンスクリット語には、能相(Active Voice)の中に「Parasmai-Pada」と「Atmane-Pada」とがあり(注)、「Atmane-Pada」が転じて「自動詞」と「所相」となることを述べている。Atmane-Padaが受動を示しており、それを(A)「真性受動のもの」、(B)「無人称のもの」、(C)「反照受動」の三つに分類し(注)、(B)(C)から(A)が発達したものとしている。そして、ギリジア語のActive,Middle,Passiveの三つの相があり、Middle Voiceから発達したものであるとし、ギリシア語のMiddle Voiceと古代サンスクリット語のAtmane-Padaと酷似したものであるとしている。
Passive Voiceが印欧祖語に近いギリシア語のMiddle Voiceや古代サンスクリット語のAtmane-Padaの反照性から来たと推測できるのと同様に、日本語でもギリシア語のMiddle Voiceや古代サンスクリット語のAtmane-Padaにあたる、「中相」というものがあり、それは上代の「ゆ」を語尾とするものであり、「中相」を一種の原始的な相の在り方とし、「所相(受身)」、「一部の自動詞」、「勢力」に発展し、「勢力」から「自然勢」「能力」「敬語」に発展したと考えた。細江逸記は、テンス・アスペクト・ムードについては別個としないことを述べており、英語学者ではあるが、日本語文法の眼を開かせたのは山田孝雄の著作であることを述べている。ヴォイスに関して述べた細江逸記(1928)でも山田孝雄(1908)を頻繁に引用し(注)、山田孝雄が動詞の自他を否定し、受身根源であるのに対して、細江逸記は便宜上としながらも、動詞の自他を用い、山田孝雄の受身根源説に疑問を呈し、「中相」を設定し、その「中相」が上代に発達したもので、受身・自発・自動詞の前の段階のものを設定している。つまり、受身根源説にも自発根源説にも立たないことが大きな特徴と言える。そうして、「中相」からの発達法則として、以下の(1)(2)(3)の法則で発達し、この法則方向に活動した結果、「中相」としての純粋な心持は間もなく忘れられたたように見えると述べている。
(1)反照、受動、自動の法則
(2)反照、使役、他動の法則
(3)受動、使役の法則
また、非情の受身についても、山田孝雄(1908)を引用しながら論を展開し、非情の受身固有説には立ちながらも、挙げている用例は情景描写の用例をあげている。受身の本質にも触れ、チェンバレンの説を引用し、「日本語の受身は純粋な所相ではない」とし、中相を考えれば、自動詞の受身の存在も理解できると述べている。
このように、細江逸記のヴォイスの論は、「中相」という概念を用いた独特のものであるが、その背後には比較言語学山田孝雄の影響をみることができるのである。