シュリーマンの学習法
ハインリッヒ・シュリーマン
ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン(ドイツ語: Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日−1890年12月26日)は、ドイツの考古学者、実業家。ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアが実在することを発掘によって証明した。
(生い立ち)
プロイセン王国のメクレンブルク・シュヴェリン州(現メクレンブルク=フォアポンメルン州)ノイブコウ(シュヴェリーンの近郊)生まれ。父エルンストはプロテスタントの説教師で、母はシュリーマンが9歳のときに死去し、叔父の家に預けられた。13歳でギムナジウムに入学するが、貧しかったため1836年に退学して食品会社の徒弟になった。
貧困から脱するため1841年にベネズエラに移住を志したものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社した。1846年にサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得。さらにゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収める。クリミア戦争に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得た。
(トロイア発見)
自身の著作『古代への情熱』(新潮文庫・岩波文庫)では、幼少のころにホメーロスの『イーリアス』に感動したのがトロイア発掘を志したきっかけであるとしているが、これは功名心の高かった彼による後付けの創作である可能性が高い。発掘当時は「トロイア戦争はホメロスの作り話」と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた、というのもシュリーマンの著作に見られる記述であるが、実際には当時もトロイアの遺跡発掘は行われており、シュリーマンの「トロイア実在説」は当時からして決して荒唐無稽なものではなかった。
彼は発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と語学にいそしんだと、自身の著作に何度も書き、講演でもそれを繰り返した。実際には発掘調査に必要な費用が用意できたので事業をたたんだのではなく、事業をたたんでから遺跡発掘を思いついたのである。また彼は世界旅行に出て中国や日本を訪問した(後述)。その後ソルボンヌ大学やロストック大学に学んだのち、ギリシアに移住して17歳のギリシア人女性ソフィアと再婚、トルコに発掘調査の旅に出た。だが、最初の結婚の失敗と30才も年下の女性と結婚したことによる一種のアイデンティティ・クライシスが彼の中にはあり、さらに戦争終結による事業の見通しの暗さが彼をトロイア遺跡発掘へと駆り立てたのだと言われる。発掘においてはオリンピア調査隊も協力に加わっていた。
彼は『イーリアス』を読み込んだ結果、トロイア市はヒサルルクの丘にあると推定した。1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの黄金」(トロイアの黄金)を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなった。
彼は発掘の専門家ではなく、当時は考古学なるものの存在も皆無に等しかったため、発掘技術にも限界があった。発掘にあたって、シュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたトルコ政府が発掘の中止を命じたのに対し、イスタンブルに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、これらは現在に至っても考古学者による再発掘・再考証を難しい物にしている。
(ギリシア考古学の父)
シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)がトロイア戦争時代のものだと推測したが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明した。第2層は実際にはトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡だった。これにより、古代ギリシア以前に遡る文明が、エーゲ海の各地に存在していたということをも証明した。
また彼は、1876年にミケーネで「アガメムノンのマスク」のような豪奢な黄金を蔵した竪穴墓を発見している。1881年にトロイアの黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民となった。建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトの助力を得てトロイア発掘を継続する傍ら、1884年にはティリンスの発掘に着手。1890年、旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネに葬られた。
(人物)
職を転々としながらも商才を発揮しトロイ発掘の目標に向け蓄財し、かつ勉学にはげみ音読により文章を丸暗記する勉強法で多国語を理解し、ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、スウェーデン語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、アラビア語、トルコ語に詳しかった。
(日本訪問)
清国(当時の中国)に続き、幕末・慶応元年(1865年)に日本を訪れ、自著 La Chine et le Japon au temps présent(石井和子訳『シュリーマン旅行記清国・日本』講談社学術文庫)において鋭い観察眼で当時の東アジアを描写している。本書においてシュリーマンは日本に対しては、政府の政治活動には批判的であるが、日本の文化・風俗は賞賛している。当時欧米では江戸の驚異という表現で日本の話題が取り上げられていたので来日したと著作の中でのべている。横浜に旅装を解いた後、直ちに絹織物と養蚕を見るため八王子を訪れている。『カイコが吐き出した細い糸で出来た織物は透明感と艶やかさに満ち、最も興味深かったものの一つ』と記している。さらに日本人の清潔さについて、町にごみ一つ無く、ところかまわず痰を吐く清国や欧米と比したり、さらに役人の賄賂を拒否する姿勢、船人足の要求する運賃の正当さ、においても清潔であると。さらに混浴について『浴場の前を通ったらアダムとイブそのままに、丸裸の男女がぞろぞろ出てきて、外国人の私を見物した、羞恥心も無ければ風紀の乱れる様子も無い、何たる聖なる単純さであろうか』と、半ばあきれ気味に感嘆した。
(著書)
『古代への情熱 シュリーマン自伝』岩波・角川・新潮文庫
La Chine et le Japon au temps présent, Paris: Librairie centrale, 1867.
藤川徹訳『日本中国旅行記』 新異国叢書:第2輯6、雄松堂出版、1982年
石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫、1998年
(伝記)
エミール・ルートヴィヒ『シュリーマン トロイア発掘者の生涯』 秋山英夫訳 白水社
エルヴェ・デュシエーヌ 『シュリーマン・黄金発掘の夢』 「知の再発見」双書:創元社、1998年
キャロライン・ムアヘッド『トロイアの秘宝 その運命とシュリーマンの生涯』 芝優子訳 角川書店 1997年
デイヴィッド・トレイル『シュリーマン 黄金と偽りのトロイ』 周藤芳幸ほか訳 青木書店 1999年
(シュリーマン勉強法)
シュリーマンの自伝には、シュリーマンの語学学習法が書かれています。その学習方法は、「シュリーマン語学学習法」と呼ばれ、現在でも影響を与えています。
まず、勉強するにあたって「なぜ勉強するのか?」という動機がしっかりとしていることが前提となっています。「遺跡の発掘」が彼のライフワークですから、そのためには多くの語学を必要としたために、その一環としての語学学習といえるでしょう。ビジネスでの成功も遺跡発掘のための資金ということで、いっそう達成しやすかったともいえます。大目標やミッションに向かって小さい目標をクリアしていくといく方法をとっていることがわかります。
では、その語学学習方法を『古代への情熱−シュリーマン自伝』(新潮文庫)から要約してみます。
○手始めに、文字を書く練習を能書家に教わった。
○6ヶ月間で、英語の基礎を身につけた。
大きな声でたくさん音読する。
ちょっとした翻訳をする。
作文を書き、添削してもらう。
月に二回、教会にいき、よい発音をまねた。
短文や長文を暗誦する。→これによって、記憶力が強くなった。
絶えず本を手放さず、隙間の時間を活用して、単語や文章を暗記した。
○英語に続いて、フランス語を6ヶ月で身につけ、続いてオランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語の学習を行い、それぞれ6週間で身につけた。
○各国語で書かれた文学書を読むようにした。
○ポーランド語、スウェーデン語を学習した。
○ギリシア語、ラテン語を学習した。
これらの語学学習法は、多くの言語を身につけるために参考とされてきています。渡部昇一氏(英語・英文学者)と木田元氏(哲学者)との語学学習の対談の中でも、その影響を受けていることが感じられます。二人とも、英語・フランス語・ドイツ語・ギリシア語・ラテン語を習得しています。それぞれの語学学習のコツを示してみます。
♢渡部昇一氏
基本的な文法書を読んだら、基本の短文を暗記する。
♢木田元氏
一つの言語を毎日ひたすら三か月徹底して勉強する。そうすれば、一つずつマスターできる。そうすれば少なくとも、読むのには不自由しない。
他に、日本人に多く読まれたものとしては、新名美次氏(眼科医)『40か国語習得法』(講談社ブルーバックス)や千野栄一氏(言語学者)『外国語上達法』(岩波新書)などがあります。