五十音図

【参考資料】−松岡正剛の「千夜千冊」−

馬淵和夫(1993)『五十音図の話』(大修館書店)

読むとは声を出すことである。分かるとは声を自分の体で震わせることなのだ。分かるは、声を分けることなのである。言葉や文字の本質から声を抜いてはいけない。多くの言語学者や書家たちは声を忘れすぎている。空海はこれを一言で「声字」(しょうじ)と言ってのけた。日本の文字。日本のボーカリゼーション。すべては高野山比叡山で考え抜かれたことだった。ということは、日本語という独自のシステムを構成していった功績のかなりの部分に、真言僧や天台僧がかかわっていたということになる。日本という秘密のまことに重大な胎盤密教僧によって充血していったということになる。
ぼくには日本のことや日本語を考えるときに、いったんふと契沖に戻ってみることがしばしばある。そういうなか、契沖が浄巌と深く交流していたことが気になっていた。この交流は、歌学者であって国学者の嚆矢であった契沖がそもそも仏教学者であって、しかも高野山に十年にわたって学んだ悉曇学者であったことを示している。浄巌は当時の真言宗第一の学者である。その浄巌とほぼ同時期に高野山にいた契沖は、真言僧たちの悉曇学の深さを知ってたちまちこれに取り憑かれたのであろう。やがて自ら悉曇学を拓くうちに和字や和音に関心をもっていく。その最初の成果が元禄8年(1695)の『和字正濫鈔』になる。ここに「契沖の五十音図」ともいうべきものが登場するのだが、いろいろ調べてみると、その半ば以上の成果を悉曇学から貰っていた。悉曇学とは日本の国語史を代表する文字と声の学問である。声字音義の学問だ。けれども、その対象はあくまで梵字であった。その梵字と漢字の関連を考えようとする学問だった。それが仮名の発達によって悉曇学にも仮名との対応関係が追求さ れるようになる。そうなると、そこには「国語」や「和音」が浮上する。
契沖が考えたことは、そこだった。契沖は悉曇学からこそ歌学と国学冬虫夏草のごとくその主柱をのばしたのである。あえていうのなら密教が歌学と国学を準備した。このように五十音図の歴史においても、契沖のところがひとつの大きな分水嶺だったのである。 五十音図の発生は従来から『金光明最勝王経音義』と『孔雀経音義』の二つにルーツがあると言われてきた。山田孝雄の名著『五十音図の歴史』(1938)が最初にあきらかにしたことだ。いまのところこれ以上古い五十音図は見つかっていないので、たしかにここにルーツがある。15年ほど前は、それでもこの表図を夢中になって眺め回していた。けれども、その後にいろいろのことを知ってみると、醍醐寺所蔵の『孔雀経音義』の巻末図は40字しか並んでいない音図で、母音の順も「キコカケク」「シソサセス」というふうになっているし、『金光明最勝王経音義』は漢字に和訓をあてはめたもので、五十音図の原型ではあるけれど、五十音図ではない。もっぱら濁音借字に重心がおかれているところも、かなり不完全である。実際にも当時は「五音図」とよばれた。またその一方で「いろは表」の原型も提示されていた。これらを声字音義システムとしての五十音図に一挙に引き上げたのは、明覚である。1056年(天喜4)の生まれで1101年(康和3)に没しているから、ちょうど『源氏物語』が書かれて読まれ出したころにあたる。天台僧だった。明覚には『反音作法』『梵字形音義』『悉曇大底』『悉曇要訣』『悉曇秘』『梵語抄』というふうに、著作がかなりある。そうとうの大学者だったとみてよいだろう。しかし、明覚にはどこか"かぶせ音素"とでもいうべき処理があって、いまひとつ五十音図は確定しきれないままのところがあった。
明覚を批判し、発展させたのが興福寺の兼朝と高野山東禅院の心蓮である。とくに心蓮は『悉曇口伝』『悉曇相伝』で新たな一歩を踏み出した。心蓮でおもしろいのは、日本語の音の発生のしくみを順生次第・ 逆生次第・超越次第などに分け、これをさらに本・末に組み合わせているところ、さらに発音には口・舌・脣の3つがあると説いているところで(これを「三内」と名付ける)、こういう発想は世界の言語学を見てもない。密教的というか、日本的というか。心蓮は梵語の発音を漢字や日本語の発音と結びつけようとして、新たな五十音図に挑戦したのだが、そこにはまだオとヲの発音のちがいなどを明確にする方法が出きっていない。こうして五十音図の完成はまた先にもちこされることになった
そもそもひるがえってみると、日本にはずっとボーカリゼーションの悩みというか、文字と音(声)をめぐる多様な選択というものがあった。ひとつは倭人(先住日本人)が古来からもってきた発音の仕方である。次に中国朝鮮から渡ってきた発音法があった。これは文字をまったくもっていなかった日本人にとっては青天の霹靂のようなもので、ともかく文字というものの組み合わせで自分のオーラルな言葉を表示できることに心底驚いたのだが、その渡来の文字がほかでもない漢字であったことで悩むことになる。漢字にはもともと中国人の発音(読み方)が備わっていた。
しかし日本人の言葉とその発音は、当然のことだが、ぴったり合いそうもない。おまけに中国人の漢字の発音にも大きくいっても二つの流れがあった。それを漢音と呉音というのだが(さらに唐音がある)、その二つが仏教とともにどっと入ってきた。「正」をセイと読むのが漢音(北方系)、ショウと読むのが呉音(南方系)である。これは紛らわしい。そこで日本人はいろいろのことを決める。工夫する。 まず、中国の発音法(読み方)のうちの漢音を「正音」とし、呉音を「和音」とした。ついで、それまでの日本語(倭語あるいは大和言葉)の発音に近い漢字の読みを探して、たとえばアには麻や安や阿を、ソには素や曽や蘇をあてることにした。万葉仮名の登場である。もうひとつ、中国の漢字による漢文の読み方にも工夫した。漢文を中国人のように読むには中国語を使う以外はない。これはできないので、漢文を「反切」という方法によって和風に読めるようにした。ある漢字の音を比較的やさしい別の2文字に分解して示せるようにしたのである。こうして日本人は、漢字から二つの読み方を引き出すことに成功する。ひとつは、漢字を中国の発音にちょっとは近いけれどあくまで日本的な読み方をする「音読」と、もうひとつは従来からの倭語の読み方をその漢字にあてはめて読む「訓読」である。こうして「音」はオンともネとも、オトとも読めるようになった。 こうした工夫をどうするか、とくに仏教界にとって大きな課題だった。なにしろ僧侶は日々読経をしなければならず、そのたびに漢字の読みには苦労する。仏教界はボーカリゼーションの規則と例外をつくることに躍起になっていく。朝廷にとってもそれは見過ごせない。なぜなら当時の仏教は鎮護国家のための仏教であったからだった。そこへ空海最澄が入唐して、新たな密教体系とともに文字と発音のしくみを持ち帰ってきた。それが空海が将来した中天音(中央インド系の発音)と最澄が将来した南天音(南インド系の発音)である。これを漢音・呉音にうまく適合させなければならない。が、そうそううまくはあてはまらない。たとえば今日の真言密教で『理趣経』を読経するときに、たとえば「一切如来」のところを「イッセイジョライ」と読むのは、真言では珍しい漢音読みなのだが、そういう個別的な工夫もいろいろ組み立てられた。密教僧はこうして漢字の読み方を工夫精通しつつ、新たな「真言」とは何か「真音」とはなにかということに取り組んでいく。このときに梵語が浮上した。 もともと仏教(とりわけ新しい密教)はインドのどこかで次々に発祥したもので、そこにはサンスクリット語パーリ語が君臨していた。それを仏教が中国に入るにつれて漢訳されたわけで、日本ではその漢字だけによる漢訳経典をテキストにした。けれども、そこにはインド伝来の「奥のボーカリゼーション」もある。実際にも玄奘の漢訳では、「ギャーティ・ギャーティ」などのダラニの部分は漢訳しないでそのまま音写した。こういうことに最初に気づいたのが空海である。空海はすぐさま梵語梵字の研究に入っていく。この密教的な梵字梵語研究がやがて「悉曇学」というものになるのだが、その悉曇学が充実していったころに、他方で日本語の文字と発音の確立が時代的なテーマになってきたわけである。そこには日本人が初めて"発明"した日本文字である平仮名と片仮名の定着が待っていた。 いささか話がややこしくなったかもしれないが、空海以降、こういうことが一斉に、かつ同時におこったとみればよい。一方では仮名の登場が、他方では梵語の研究が、また別のところでは条例や官職に使用する漢字の意味の把握などが、さらに別のところでは和歌と漢詩の比較が一挙に進んでいったのだった。おそらく日本語の将来にとって、こんなにすごい時代はほかにない。明治維新にも森有礼が日本を英語やローマ字の国にしようという動きがあったけれど、これは外国語にあわせて日本語や日本をつくるようなもので、比較にならない。さいわいにも、潰された。それを言い出したのはアメリカのホイットニーという言語学者で、彼は森のその提案を聞いて、ほとほと呆れて次のように言った、「とんでもない。一国の文化というものはその国の国語でつくらなければなりません!」。こんな体たらくの明治初期にくらべると、三十六歌仙菅原道真紀貫之小野道風の時代は、まさに言葉と文字と発音(声)と書に関するすべての多様な事情を睨みつつ、新たな日本語の文字システムと発音システムを起爆させる必要があった時代なのだった。このとき、密教僧たちの、とりわけ真言僧たちの独特の研究が次々に芽吹いたわけなのである。兼朝から心蓮への、そのあとの寛海から承澄への、さらには承澄から信範への、その弟子の了尊への五十音図の精緻化の努力は、そういう時代背景の波動のなかに位置づけられる。
本書はこうした五十音図の歴史を倒叙法的に簡潔にのべたものであるが、著者が専門とする韻学史の視点がぞんぶんに生かされていて、そこがおもしろい。しかも問題を五十音図だけに絞っている。五十音図は、ぼくも試みに学生や知人たちに尋ねてみてショックをうけたことがあるのだが、多くの日本人が"明治以降の産物"だとおもっている。ひどいときには、欧米の言語システムに合わせて作成されたものとさえおもわれている。そうではない。五十音図は奈良平安の苦闘を通過した日本人がつくりあげた文字発音同時表示システムなのである。つまりは空海の声字システムのひとつの到着点なのだ。その道程には冒頭にあげた契沖をへて本居宣長にまで及ぶ国学の発生も含まれる。また、その後は大槻文彦や吉田東伍や山田孝雄の考究も含まれる。五十音図とは日本を考えるための歴史上最初のソフト・プログラムだったのである。ついでにもう一言言っておくが、このようなプログラムを日本人は五十音図以外にもうひとつ用意した。それが「いろは歌」というものである。「五十音図」と「いろは歌」、その奥に何重もの対比と相克と離別を繰り返した「真名」と「仮名」。このことを語らないで、どうして日本を問題にできるだろうか。

姓名判断の流派の概略
【 根本派 】
古い姓名学派で近年では根本圓通氏が有名。天格、地格、総格の三格で見るもので、天16地16総32は全て吉数だが、このような天地同数は「天地衝突」として凶名と判断する。日本心霊科学協会では、根本式を推奨している。
【 熊崎派 】
熊崎健翁氏(明治14−昭和36年)が創始したもので、旧来の根本派に人格と外格を加えた五格と、天人地の三才(三元)の五行の相生相剋も重視するといった特徴がある。根本派などの旧来学派と明治、大正、昭和に渡り激しい論争が展開されたが熊崎派は的中率が高いために他派は衰退していったのだといわれている。現代でも巷に溢れる総格のみや五格の吉凶数だけで判断する簡略化された姓名判断のほとんどはこの熊崎派を基にアレンジしたものである。
【 桑野派 】
熊崎派を基に桑野嘉都郎氏が創始したもので、熊崎派の五格以外に四格を加えて九格で判断するもの。姓二文字、名二文字の四文字姓名の場合、姓と名の頭一文字を足したものと姓と名の二文字目の足したもの、人格と姓の頭一文字を足した「社会運」と人格と名の最後の一文字を足した「家庭運」を出す。さらに例えば、天16人16地16総32画の場合、1+6=7というように天人地総格をそれぞれ単数変換し、新たな姓名の並び 7・7・7・5 から再び天人地総格を算出して判断する「内画法」や漢字を旧字と新字の両方で見するなどと複雑な姓名学派。近年では、桑野式と熊崎式の混然一体型の幼稚な姓名判断が横行している。
【 真木原派 】
根本派や熊崎派などの従来の姓名学を無視し、易理を基に真木原照暁氏が創始したもの。天格を上卦、地格を下卦としてこれを主運とし、同じ方法で人格から初年運、地格から中年運、外格から晩年運を割り出す。どれも2つの数字をそれぞれ八払いし易卦を算出してその総数を六払いして爻変を出していく。昭和10年ごろに真木原照暁氏が槇原玉葉という著者名で出版された『姓名で結婚運がわかる』や『正名学大典』などは「とても良く当る」「改名して幸福になった」と大評判になり40回以上も増版したという。
【 梅花心易派(梅花心数派) 】
約千年ほど前、日本でいえば平安中期ごろに中国で発祥した梅花易派の一部門。天格を上卦、地格を下卦としてこれを「本卦」と称し、次に本卦から「互卦」と総画の六払いで爻変した「之卦」の3つの大成卦を出す。爻変した小成卦を「用」もう一方を「体」(自分自身)として、体が互卦、之卦、用の卦からの相生相剋で運勢を読んでいく。尚、「口」という字は通常3画であるが、4つの辺から成り立っているので口を4画と数えるなど全ての文字の一辺を一画と数える派と一般的な旧字の画数で数える派がある。真木原派と同じく数の吉凶を無視して易理で見るところが特徴。
【 鮑黎明派 】
鮑黎明氏が発表したもので、易理を基に見るので上述の真木原派と梅花易派と同じ姓名易断派。但し大きく異なるところは総画を上卦、地格を下卦とするところと、一字姓や一字名の場合は熊崎派の特許ともいえる霊数を加えて判断するところ。これは鮑氏が熊崎派から導入したものか元々中国にあった手法なのかは不明である。的中率も不明だが興味ある方は鮑氏の書で研究することをお勧めします。
奇門遁甲派 】
紀元前の秦の始皇帝の時代に伝わった奇門遁甲の理論に基いた一派で、画数、字体、発音などを十干や八門などに当てて吉凶を読んでいく。現在はいくつかの分派に分かれているようだが、天格11画、地格13画の場合は一の位が1・3なのでこれを十干に当てると甲丙で「青龍返首格」(大吉)になるといった簡単な見方もある。
【 樹門派(霊遺伝姓名学) 】
樹門幸宰氏が30年の年月をかけて完成させた姓名学で、親によってその名前を授かったのは偶然ではなく先祖の因縁などによって必然的にその名前になったという宿命論的な姓名学。天・人・地・外格の4格を単数変換する占法なのでこの点では桑野派の「内画法」に似ているが、この派独特の見方があって一見して簡単そうだが慣れないと複雑に感じてしまう。沢山の実例が示すように姓名鑑定で人物像を読む的中率は高いのだろうが運命を変える力があるのかは不明である。
【 河本派(発音式姓名判断) 】
河本静一朗という人が有名。画数を使わず名前の音で占う姓名判断で、この占術は既に4百年前の日本に存在していたのだという。音読みで見るので、例えば信長は「しんちょう」秀吉は「しゅうきち」と変換して鑑定する。全て音読みの姓名の人ならばともかく音読みに変換するということは発音通りではないのに何故「発音式姓名判断」と称するのか不明。画数と合わせて姓名の音でも見る姓名学派は熊崎派をはじめ少なくないが、小峰一翁氏など姓名学の第一人者の方々は姓名の音そのもので見るのが正しいと主張している。確かに音読みに変換しないほうがよく当るし、なぜ音読みにしなければならないのか、その理屈は分からない。
〔その他〕
ジョーティッシュ派(インド占星術派)、アルファベットで見るゲマトリア派、佐藤六龍の四柱推命派等の姓名学もある。
(付記)
1
旧字で篆書派の中で、熊崎式と根本式がありますが、熊崎健翁は暴漢に刺されて死亡したこともあり、日本心霊科学協会の会員の中には根本派を支持する方も多くいます。また、高橋信次によると、名前のよしあしは、多少はあるということですが、気にしすぎる必要はないということです。姓名判断が悪すぎるのも何かの暗示です。姓名判断が最悪でも、四柱推命がすばらしい方もいます。その場合、四柱推命の方があたることが多いものです。姓名判断にせよ、四柱推命にせよ、悪すぎるのは「陰きわまりて陽」で、大きなことを成し遂げる方が多いものです。逆に「陽きわまりて陰」で、よすぎると平凡で終わる事や、短命で終わることも多いものです。画数姓名判断の源流は、易と推命学なので、そちらを極めた方がよいでしょう。姓名判断や気学などは、伝統のないおまけに過ぎないものです。
2
筆跡心理学というジャンルの方は、姓名判断の画数を気にしない傾向があります。なぜなら、開運筆跡で書けば大丈夫だと思っているからです。姓名判断では、名前が変わらないなら、接点の数を足した印相体の印鑑で補うことが推奨されますが、これからは姓名判断と筆跡心理学とを組み合わせる時代であるような気がしています。つまり、先天運が姓名判断であるとするならば、後天運が筆跡心理学であると考えられるからです。先天的なものは姓名判断でみて、後天的な変化の部分を筆跡心理学でみるというスタイルがよいのではないかと思います。このように多面的にとらえる時代に入ってきているような気がします。姓名判断の参考文献としては熊崎健翁『姓名の神秘』、筆跡心理学の参考文献としては森岡恒舟『筆跡の科学』が名著です。