『万葉集』四十八の訓み下し

 今回は、万葉集の読み方で説の分かれるものを紹介します。私の書いた卒業論文の中の一部を掲載いたします。

○東野炎立所見而反見為者月西渡(『万葉集』・四八)の訓み下し
 賀茂真淵はこの歌を
  ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ(万葉集・四  八)
(東の野にかぎろひの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ)
と訓みくだした。
 この歌は、旧訓では、
  あづまののけぶりたてたるところみてかへりみすればつきかたぶきぬ
としてあったのを、賀茂真淵が江戸時代に新たに調子のよい響きに訓み下して以来、その訓読にしたがっており、教材に収録されるときにもこの読み方で採用されている。そして、与謝蕪村
  菜の花や月は東に日は西に
という絵画的な俳諧を連想させる歌として、鑑賞されることが一般的である。しかし、賀茂真淵の訓み下しには、語法上の面から欠点が指摘されている。その語法上の欠点を補うように訓み下したものとして、伊藤博氏と佐佐木隆氏の訓み下しを比較検討してみることにする。
 賀茂真淵の訓み下しの語法上の欠点を整理すると、
①「見ゆ」が活用語を受ける場合には、「終止形+見ゆ」でないといけないのに、「野にかぎろひのの」の「の」を読み添えているために佐伯梅友(一九三八)『万葉語研究』(文学社)の説からすると、「―の―連体形」となり、「連体形+見ゆ」で、「立つ(連体形)見えて」になってしまっている。
②「炎」を「かぎろひ」と訓んでいるが、「けぶり」ともよめる。
③「月西渡」を「月傾きぬ」「月傾けり」「月は傾く」と訓んだり、あるいは表記をそのまま生かして、「月西渡る」ともよめる。
となる。その点を考慮して、伊藤博氏と佐佐木隆氏は、それぞれ

伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社
  ひむがしののにはかぎろひたつみえてかへりみすればつきにしわたる
  東の野にはかぎろひ立つ見えて返り見すれば月西渡る

○佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)

  ひむがしののらにけぶりはたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ
  東の野らに煙は立つ見えて返り見すれば月傾きぬ

と訓み下した。ただし、「月西渡」を、伊藤博(一九八三)『万葉集全注』(有斐閣)では、
「万葉では西空の月には必ず傾くというのを尊重してカタブキヌの訓を採る」
として「月傾きぬ」としてあったものを、伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社)では、
「『東の野にはかぎろひ立つ』に対しては、原文『月西渡』の文字にそのまま則してツキニシワタルと訓ずる方が適切であろう。『西渡る』は、月や日の移る表現として漢詩文に多用される『西○』(西流・西傾・西帰など)を意識したものらしい」
として、「月西渡る」としている。
 伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社)の訓みは、語法を重視しながらも、用例調査を行っておらず、『万葉集』の言い回しや民俗性をも重視したものであるといえる。逆にいえば、思いつきや発想に頼ってしまっているために迷いが生じて訓みを変えることにもなったともいえる。それに対して、佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)
は語法を重視した上で、綿密な用例調査を施しており、たいへん説得力がある訓み下しになっている。用例調査を綿密に行っている点で、佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)
の方がすぐれているといえるであろう。