日本語受け身表現の研究(要旨)

私がこの四年ほど、研究してきたことの要旨をまとめてみました。あまり知られていませんが、私の専門は、日本語学・国語教育・日本語教育です。


第1章 古典語の構文における受身表現
○助動詞相互承接の表は、橋本進吉(1929)か橋本進吉(1931)が先行研究として使われているが、同じではなく、修正が施されている。
○古典の非情の受身に比べて、用例は少ないが、非情の使役といってもよい例も存在する。
○和歌の場合には、擬人法や情景描写が多いため、受身文の扱いには注意が必要である。
○動詞の自他、意志動詞・無意志動詞もヴォイスを考察する際には欠かせない。
○『徒然草』は漢文訓読体と和文体から成るためそれほどでもないが、『方丈記』は漢文訓読体が色濃く出てくるため、「ヲ格−しむ」という構造が成立している。

第2章 古代における非情の受身について
◇和歌における「非情の受身」は、非情・有情の同一視である擬人法が多いため、純粋な「非情の受身」の例とすることはできない。
◇人物関係を主として、話の展開が早い作品では、「非情の受身」が使われにくい。
◇自然を描写する場面での「非情の受身」が多い。◇文章の性質によって、「非情の受身」の使用状況は、異なりが出てくる。例えば、非情の受身の例としてよく使われる、『枕草子』『方丈記』『徒然草』などの随筆は頻度が高い。
◇全体的な割合は高くはないが、古典の非情の受身だけでなく、有情の受身でも状態性の表出になるものがある。
◇非情の受身では、「非情−なし」が7割以上あるが、完全に情景描写と言い切るのは割合から言って難しい。一方で、古典文の場合には、現代語の非情の受身のように多様なものとは質が異なっていることがわかる。
◇形として、主語が有情ならば、ニ格は有情もしくは表出しない、また逆に主語が非情ならば、ニ格は非情もしくは表出しない。つまり、「有情−なし」「有情−有情」「非情−なし」「非情−非情」というのが、それぞれ、有情の受身・非情の受身の9割以上である。したがって、「有情−非情」や「非情−有情」は好まれなかったことがわかる。
◇狭義の非情の受身か広義の非情の受身かで、異なってくるので、論を進める際に、どちらの立場かを明示する必要がある。

第3章 近代文法学史における受身と状態性−山田文法を中心に−
近代文法学史の面から山田孝雄の受身の論をみると、日本語の受身の本質は「状態性」にあり、欧米文直訳の中立的・客観的に描く受身は、話し手は主体の側に立たないとし、「る・らる」の原義を受身であると指摘したことに特徴がある。その後の研究は、この状態性の解釈と森重敏による受身からの格助詞の分出という論理性の発展に継承されていったと言える。受身の状態性をめぐっては、堀重彰は状態的陳述を指摘し、橋本進吉・宮地幸一・時枝誠記は日本語本来の非情の受身の本質は状態性にあることに気付いていた記述がある。佐伯梅友は状態性を持ち込まずに非固有とし、松下大三郎は山田孝雄とは異なる立場で、漢文との整合性で研究を進め、受身文を分類し、現代の受身文の分類の理論的基礎になった。また、橋本進吉の示した助動詞相互承接を渡辺実北原保雄が構造的に再考した。
近藤泰弘は時枝誠記の論を継承・発展させ、状態性を話し手が主体の側に立って経験を描き、主体に視点を置いている視点と主観性に着目し、主観性の一種とし、従来のモダリティとを区別した。この研究を踏襲し、益岡隆志は、視点に関わるものを非構成的主観性、従来のモダリティを構成的主観性と呼び、非構成的主観性をモダリティの研究対象から外した。このようにして、日本語本来の非情の受身の状態性が説明できることとなった。
それに対して状態性を持ち込まずに尾上圭介は説明したが、日本語本来の非情の受身を情景描写の受身とし、西欧文直訳の影響による非情の受身とを分けた点で、山田孝雄の論を継承している。近藤泰弘は時枝記誠の流れで、言語の場を発話者と聞き手の存在を意識したが、尾上圭介は発話者と聞き手を除いた、物理的な場として考えている。このことは、言語の場が、発話者と聞き手を前提とするか否かの違いによるといえる。
このように、山田孝雄の受身の論は先行研究として、非情の受身固有説・非固有説の箇所で引用されているが、近代文法史の上から山田孝雄は受身について本質に関わる重要な指摘を行い、後の受身の研究に大きな影響を与えたことがわかる。受身の論を展開する上で、山田孝雄は近代文法学史の上でも重要な指摘を行い、欠かすことのできない論を展開したと言える。

第4章 受身文の理論と分類−日本語記述文法の流れ−
松下大三郎を嚆矢とした日本語記述文法の流れを中心に、現代の受身文の理論の流れをとらえてみると、山田孝雄の受身文と状態性についての提示に対して、松下大三郎は「ヴォイスの定義づけ」「受身文の分類」「受身文の理論」の三つの受身文の根幹に関わる重要な研究を提示し、その発展が行われてきたととらえることができる。松下大三郎の研究は、受身の理論を考える際に、多くのことを暗示しており、示唆に富んでいるといえる。

第5章 日本国憲法の受身文
○日本語版日本国憲法では、第三章「国民の権利及び義務」(10から40条)に頻出している。日本語版日本国憲法の受身全体(52例中)での受身の出現率は57.7%である。これは、国民の権利や義務は与えられているものであるということを明示する内容と符合するといえる。
○一文の中に受身の用例が次のように2例以上使われている文が目立つのも特徴的で、これは漢文訓読の影響を受けた対句的表現であるといえる。

第6章 「受身動詞」と「使役動詞」の定義について
本稿では、日本語学の「れる・られる・せる・させる」の助動詞説と接尾語説との流れが、日本語教育にも流れていることで、「受身動詞」「使役動詞」の定義付けが揺れていることを示した。そのため、日本語学・日本語教育・国語教育を包括する視点から、「受身動詞」「使役動詞」という用語を取り扱う際の注意点について述べた。「受身動詞」「使役動詞」という用語は、その由来や状況や学説などを考慮し、日本語学・国語教育で考えると、「れる・られる・せる・させる」は、助動詞説に立つことがよく、本来的には「受身動詞」「使役動詞」という用語は、受身性・使役性を持つ一語の動詞として認定できる場合に適用することが望ましいが、日本語教育では伝統的な日本語学や学校文法に拘泥せずに、理解を容易にすることが目的であり、格関係を変えるという特殊な役割を果たす「れる・られる・せる・させる」を動詞の一部とみなし、TSUKUBA LANGUAGE GROUP(1991・1992a・1992b)『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE』とスリーエーネットワーク編(2001)『みんなの日本語・初級Ⅱ・教え方の手引き』(スリーエーネットワーク)の示した、接尾語説の流れを汲む説明も、日本語教育の方向性を示すものとして必要である。

第7章 文法教育としての受身−学校文法と日本語教育文法−
○「る」を省くと命令形として意味が通るか否かで「可能動詞」か「ら抜けことば」なのかを判定するという、井上史雄(1998)の方法はたいへん有効である。
○間接受身の中に、迷惑の受身・持ち主の受身・自動詞の受身を入れたほうが、理解しやすい。
○接続については、「ア音+る(れる)」「イ・エ・オ音+らる(られる)」というのも説明すると理解が早い。
○自発の多様な解釈で日本語を味わうのもよい。
○「る・らる(れる・られる)」の多義性の処理として、受身を中心に据えるのが適切である。
○助動詞を立体的にとらえられる効果のある助動詞相互承接は、導入するのがよい。
○漢文の使役表現の導入の意味でも「しむ」を扱うほうがよい。
○軍記物語特有の使役表現は、受身と解釈せずに、使役のまま解釈するのが自然である。

第8章 国語教科書における受身文−日本語教科書との比較−
○受身文から国語教科書と日本語教科書を考察すると、国語教科書は語法よりもジャンル別の編集のため、受身という語法の面では段階的な学習には向いていないことがわかる。 ○日本語教科書は語法を重視した編集であり、読解教材のために、語法の習得という点において、段階的に学習しやすいといえる。
○共通点としては、非情の受身と自然可能的受身を積極的に取り入れているため、実用的な要素も目指していることが感じられる。

第9章 近代における日本語教科書の受身文1−西洋人の日本語研究−
○ロドリゲスからチェンバレンまで、先行研究を積み上げる形で記述されていることがわかる。共通項として、動詞を接尾語として扱い「受動動詞(受身動詞)」とし、可能動詞とつながるものととらえ、自動詞から受身が作られ、対格(直接目的語)の存在に注意していることがわかる。これらの発想は、伝統的な国語学の流れも考慮しながら、長沼直兄の日本語の受身記述にも生かされている。
○日本の国学者と西洋人の日本語研究との共通点として、「る・らる」「れる・られる」を接尾語として扱い、動詞の一部に組み入れて考えることがあげられる。一方、日本の洋学者は「る・らる」「れる・られる」を助動詞として扱ったり、扱わなかったりとさまざまなであり、大槻文彦が学校文法で助動詞とする流れを作ったが、諸説あり、議論の残るところである。むしろ、日本語教育の場合には、『SFJ』のように、積極的に「受動動詞」「使役動詞」として一語化で扱った日本語教科書も学習の上では効果的であるといえる。

第10章 近代における日本語教科書の受身文2−松本亀次郎と松下大三郎の受身の論− 
松本亀次郎と松下大三郎との接点があり、両者とも『日本語教科書』の後の日本語教科書や日本語文法書の受身の記述の箇所に大きな変化が見られ、互いの影響を受けたことがわかる。その意味で、『日本語教科書』の与えた影響は大きいと考えられる。また、非情の受身の例文が『日本語教科書』には採用されているが、非情の受身についての記述の嚆矢は三矢重松とされている。その観点でみると、『日本語教科書』には三矢重松も加わっていることから、三矢重松において非情の受身の指摘を行う以前に、三矢重松が『日本語教科書』に非情の受身の例文の採用に影響を与えていた可能性もある。
以上、松本亀次郎と松下大三郎の受身の論と例文から、その特徴を調査してみた。その結果、松本亀次郎編集代表(1906)『日本語教科書』が、松本亀次郎と松下大三郎との大きな接点となっており、この年以降、受身文から見た場合、松本亀次郎は日本語テキストの例文の種類を整理していき、松下大三郎は文法三部作につながる基本的な考えを日本語教科書の中で示していることがわかる。その意味でこの年が、その後の両者の文法論の深化に大きな影響を与えていると推測できる。さらには、三矢重松などの多くの研究者の影響も加わり、その影響を両者に与えたとも言える。
『日本語教科書』以降の、両者のそれぞれの深化の歩みをみると、松本亀次郎は、日本語教科書として受身文の用例を増補したり、削除したりすることで、日本語教育という立場で、テキストにこだわって記述し、深化させていったことがわかる。一方、松下大三郎は、日本語教育の著作の中で、「る」「らる」に関しては、「受身」の用法を中心に据えて記述し、文法三部作につながる考えが記されていることがわかる。その意味で、『日本俗語文典』から文法三部作につながる日本語教育の時期は、日本語教科書として多くの例文を示し、深化させ、松下文法成立に大きな役割を果たした時期であることがわかる。

第11章 近代における日本語教科書の受身文3−長沼直兄の日本語教科書−
○「れる・られる」で受身を作ると述べる。
○受身はニ格で動作主を示すとする。
○受身表現と会話の「です・ます」表現、依頼表現、推量表現、意志表現を重視する。
○会話を扱っているので、受身文の主語を省略する。
○いずれも会話に多い迷惑の受身の例である。
○非情の受身や動作主が非情物は、日本語本来の表現ではないとする。
○『FLN』では、可能動詞の課で「自動詞の受身」「迷惑の受身」、使役動詞の課で「使役受身」を扱っている。しかし、Naoe NAGANUMA(1959)『NAGANUMA’S PRACTICAL JAPANESE(Basic Course)』を見ると、受身の動作主に「ヲ格」「ニ格」「カラ格」などの例文もあげられている。さらにその第3版に当たる、Naoe NAGANUMA(1962)『NAGANUMA’S PRACTICAL JAPANESE(Basic Course)with 3 LP records』になると、それまで、可能の箇所で説明していた「迷惑の受身」「自動詞の受身」を「受身」の箇所で説明するように変更している。このことは、受身を軸に考え方を改めたとみてよいであろう。
○受身動詞には可能動詞の意味を含むとしている。
○巻1から巻5は一つの完結したものと考えられ、文章のレベル別の意識が十分にあらわれている。
○受身の多様な形があらわれており、十分に学習することができる。
○近代文語文による漢文訓読調の文では、受身の用例が頻出し、主語の表出率及び非情の受身の比率が高く、一種の翻訳日本語であることを反映していると考えてよい。

第12章 近代における日本語教科書の受身文4−基本文型中心の日本語教科書−
基本文型中心の日本語教科書は、青年文化協会のように、できるだけはやく日本語を教えるという要求から生まれたものであり、そのことは受身文からも指摘できる。また、岡本千万太郎のように、「る・らる(れる・られる)」の多義性もできるだけ効率的に処理しようとする試みも、日本語をはやく理解させたいという要求から生まれたものであろう。
その一方で、日本語学的な視点を生かした、国際文化振興会を始めとする湯澤幸吉郎の日本語教科書・日本語学の著作も注目されるところである。中国人留学生を対象として日本語教育を行い独創的な文法を作り上げた松下大三郎と同様、その後の著作に日本語教育での論攷が通時的に生かされていると言える。松下大三郎が共時的日本語教育を生かしたとするならば、湯澤幸吉郎は通時的に日本語教育を生かしたと位置づけることもできる。
これら基本文型の流れを引き継いだ鈴木忍の日本語教科書は、Kokusai Gakuyuu Kai(1954)『NIHONGO NO HANASIKATA』とその改訂版である、Kokusai Gakuyuu Kai(1959)『NIHONGO NO HANASIKATA』では、それまでの流れの日本語教科書の長所を生かしながら記述されており、日常会話で使われる形の表現文型を用いて、わかりやすく配列されている。その際、1954年と改訂版の1959年のものとでは大きく異なり、1959年の日常生活で使用される自然な例文で構成されている。この1959年のテキストの流れで、鈴木忍(1972)「文型・文法事項の指導」『日本語教授法の諸問題』を解説として読むことができるが、その受身記述の解説は、教科研東京国語部会のものを採用しているが、それを修正して書いた鈴木重幸(1972)『日本語文法・形態論』の論が日本語教育や日本語学では影響を与えることになっていったことを考え合わせると、1972年は受身の分類の分岐点に当たる年であるといえる。

第13章 現代における日本語教科書の受身文
○『みんなの日本語』は、初級と中級とで、受身文をバランスよく扱っている。
○『みんなの日本語』、『初級日本語』は、非情の受身を扱っている。また、『みんなの日本語』は海外技術者研修協会系の実用会話という性質を反映し、『初級日本語』は大学で学ぶための力の養成を目指しているために、書き言葉や説明文への対応も考慮していることから、非情の受身を扱っていることがわかる。
○初級で使役受身を扱っているのは『げんき』だけである。他の日本語教科書の初級では、使役受身は扱っていない。つまり、『げんき』以外の他の日本語教科書では、使役受身の学習項目は初級では扱わない方針であることがわかる。
○初級では『みんなの日本語』と『げんき』は自動詞の受身を扱っていない。日本語は、自動詞でも受身文を作ることができるが、日英の対照で会話を重視するテキストの性質を考えた場合、初級では共通事項である他動詞から受身を作ることを優先したほうがよいという配慮が感じられる。
○『日本語初歩』は場面に応じた表現文型を目指し、『SFJ』はコミュニケーション志向のテキストであるため、扱う種類が一致したと考えられる。
○『日本語初歩』『SFJ』『げんき』は、ニヨッテ格、非情の受身といった日本語非固有とされている例はあげていないため、日本語固有の言い方も考慮していることがわかる。一方、『みんなの日本語』は、日本語非固有とされている非情の受身、ニヨッテ格、カラ格をあげており、海外技術者研修協会系の実用会話を目指したテキストであることがわかる。
○自然可能的な受身は、読解テキストの使用例として、多く見られるので、非情の受身とともに初級または中級の受身の文法事項で扱ってもよいと考えられる。