岡倉由三郎と細江逸記の日本語学

2017.9.16(土)
第71回現代日本語研究会・講演資料
(於東京学芸大学

岡倉由三郎と細江逸記の日本語学
國學院大學兼任講師
大東文化大学非常勤講師
岡田 誠

はじめに

岡倉由三郎と細江逸記は師弟関係にあり、ともに英文学・英語学の泰斗として知られているが、日本語学にも多大な影響を与え、日本語学の論文等でも先行研究としてしばしば引用されている。そこで、岡倉由三郎と細江逸記の日本語学について述べてみることにする。


第一部 岡倉由三郎の日本語学

1.国語と英語−二つの顔の岡倉由三郎−

岡倉由三郎(1868−1936)は、「岡倉天心(1863−1913)の弟」「英語教育」「東京放送局(現在のNHK)初代英語講座講師」、「『新英和大辞典』(研究社)」「『英文学叢書』全100巻(市河三喜と共編)」として知られているが、上田万年とともに仙台で日本で初めての方言調査を実施し、東京帝国大学選科修了の後は、『日本語学一斑』を著し、ジャパンヘラルド社の記者、京城日本語学校國學院、府立四中、府立一中、鹿児島造士館などを経て、1896年に東京師範学校に落ち着いたという経歴がある。その間は、国語・英語の兼務であった。岡倉由三郎門下の福原麟太郎(1946)は、岡倉由三郎について以下のように述べている。

チェームバレンの弟子で有名な人々は岡倉由三郎、この人は英文学としてはディクソンに学んだが、言語学者国語学者としてはチェーンバレンの弟子である。それから上田万年チェームバレンの『日本語学』の序文には、岡倉、上田両氏を日本言語学の花(注1)と呼んでゐる。それから芳賀矢一、佐々木信綱などある。即ち英学がチェームバレンに於て国語国文学者を育てたこの明治中期から活動を始めてゐることになる。(pp.16−17)

清水恵美子(2017)は言語学・英語教育に生きた岡倉由三郎と岡倉天心(覚三)とを比較して対照的に記述している。それに対して、博言学者・国語学者としての岡倉由三郎と、英語学者としての岡倉由三郎と別に論じるのではなく、国語と英語を二つの知として同時に論じたのは山口誠(2001)である。山口誠(2001)は、岡倉由三郎は上田万年とともにチェンバレンの高弟として学んだ「博言学」に注目している。つまり、上田万年と岡倉由三郎がチェンバレンから教わったものは、「博言学」であったが、後に上田万年がドイツ留学で「言語学」を学び、「国語学」を創出していく、「博言学」から「言語学」へという言語研究の移行を「ことば」のマイナーチェンジに留まらず、「前近代的帝国主義から近代的な帝国主義への移行と同調した知のアップグレードであり、国民国家システムに基づく地勢学的再編の潮流の一部として理解されるべき転換である」(p.70)と主張している(注2)。それと同時に、ドイツ青年文法学派の洗礼を受けた理論志向の上田万年と比較して、博言学の方言調査を行う岡倉由三郎のほうをチェンバレンのよき弟子とし、上田万年の欧州留学を境に上田万年と岡倉由三郎との決定的な差と位置付けている。岡倉由三郎(1935a)では、国語と外国語との両方を極めたいという気持ちが幼少時から強く、チェンバレンに惹かれて入学したときの様子を記している。

高等学校即ち当時の大学予備門から大学侵入を正式にやれば、いくら早くても更に五ケ年の廻り路をする必要があった。選科生として入学すれば、その面倒のない上に、本科生には許されない、学科の選択授業が、和文学科と博言学科との両科に跨いで出来るのである。僕はもう何の躊躇もなかつた。学びたい学科が学べればそれで善かつたのである」と述べている。ここからも、日本語と外国語への連携意識の強さが感じられる。

1899年に上田万年と岡倉由三郎は、保科孝一新村出藤岡勝二白鳥庫吉とともに言語学会(上田万年の創設)の機関紙である『言語学雑誌』を発刊した。ここまでは明らかに、博言学者・国語学者としての岡倉由三郎である。この後、上田万年に送り出されて3年間の官費留学を経て、「国語」から「英語」へと転身することになるのであるが、山口誠(2001)は、この時にロンドンで夏目金之助と出会っていることに注目している。つまり、夏目金之助はイギリスで「英文学」を学ぶことを選択したため、岡倉由三郎は上田万年から「英語」と「英語教授法」を学ぶことと限定された点である。帰国後に「国語学」グループにいた岡倉由三郎は英語教育の指導者として転身することになったのである。夏目漱石と岡倉由三郎とは、ともにディクソンの弟子でもあるが、山口誠(2001)は留学後はきれいな対照となっている点を指摘している。つまり、留学中もロンドンで神経症になりながら下宿先で英文学の書籍類を読みふけった夏目漱石に対して、ロンドンに馴染み多くの言語学者と交流し、ロンドン大学での社会学講座でのちに『日本精神(The Japanese Spirit)』にまとめられる講演まで行っている。さらにロンドンで二人の眼を捉えた共通項として、「英文学」を指摘している。つまり、夏目金之助は帰国後にラフカディオ・ハーンの後任として「英文学」を講義したが、岡倉由三郎が目的とした「英語」と「英語教育教授法」ではなく「英文学」を教える「英語教育」であったと指摘している。この「英文学」は、「ヴィクトリア朝の社会規範を体現する特殊な知」(p.77)と述べている。
特に指摘されていないが、夏目金之助は当初、二松学舍で漢詩・漢文を学び、晩年再び漢詩創作を行っていた点も注目してよいであろう。岡倉由三郎は当初、「国語学」のグループ所属した国語・英語の教員であるが、後に英語教育に転身したが、そのまま「国語学」グループに戻ることはなかったことも対照的であることを指摘しておきたいと思う。また、清水恵美子(2017)は、岡倉由三郎が1902(明治35)年に34歳での欧州留学の年は兄の岡倉天心(覚三)はインドにおり人生の転機を迎えていた点(ここでタゴールと交流して「The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan」『東洋の理想』1903年を執筆)、また岡倉天心(覚三)が1886年に23歳で留学したのと比較して遅い点や、岡倉由三郎は最初の1年はロンドンにいて音声学の資料を収集していたが、1904年6月24日から7月13日までジェノヴァに滞在した際にキヨッソーネ美術館の日本コレクションを整理している点に注目している。そして巡歴を終えて、1905年にロンドンで「The Japanese Spirit」と題する講演を行ったと述べている(pp.15−24)。そして、岡倉天心(覚三)の二度に渡る挫折(東京美術学校職の辞職と日本美術院の経営破綻)と、岡倉由三郎は東京高等師範学校に就職してからの安定性とを描いている。「兄は美術、弟は言語という異なる領域を拠点としたが、二人とも『日本』の源流を『アジア』に位置づけ、それを拠り所に『日本』の文化・思想を世界に発信していった。由三郎は、『日本』文化の特徴を『東洋』の精神的価値、特に禅とのつながりの中で記述しようとした。覚三は、古来日本人が異文化の衝撃に出会うたび、古きものを犠牲にせず、新しいものを採択することを繰り返し行ってきた歴史の連続性と精神性から『日本』の近代を捉え直した」(p.240)と述べている。
このように岡倉由三郎は、兄の岡倉天心(覚三)との対照、夏目漱石との対照、上田万年との対照、さらには岡倉由三郎の博言学・国語学の顔と英語・英語教育の顔という、多様な比較ができる点で興味深い人物であると言える。英語力という面では、太田雄三(1995)が以下のように述べている。

1861年から前に2、3年、後に4、5年くらいのびる合計10年ぐらいの期間に生まれて、高等教育を受ける機会に恵まれた人々が、実は近代日本で最も英語(または他の欧語)を深く身につけたグループであったと思われるのだ。彼らを本書では仮に、「英語名人世代」と名づけることにする。「英語名人世代」は高等教育を受けた時期を基準にして、「明治8(1875)年ごろからのほぼ10年間の期間に高等教育を受けた人々」というように言い直してもよいかも知れない」(p.74)

この太田雄三(1995)のいう「英語名人世代」に、岡倉覚三、岡倉由三郎は該当し、岡倉由三郎はその最後の世代に属するのである(注3)。

2.国語教育と英語教育との連携

1905(明治38)年に帰国後の岡倉由三郎は、精力的に発表していた国語学の分野の発表は行わずに、「英文学」と「英語教育」に専念するようになった。惣郷正明(1990)は、岡倉由三郎が変則英語について批判していることを述べている。岡倉由三郎以前には、英語名人の時代として、ディクソンに学んだ辞書で知られている斎藤秀三郎と、留学して英会話に堪能であった神田乃武がいるが、文法教科書や辞書などを編纂しているが、教授法については記していない。岡倉由三郎には、英語教授法として代表的な著作物として以下のものがある。

岡倉由三郎(1894)「外国語教授新論 附国語漢文の教授要項」『教育時論』第338号―340号
岡倉由三郎(1910)「英語教授法一斑」『中等教育教授法』(槇山栄次扁)中等教科研究会
岡倉由三郎(1911)『英語教育』博文館

特に岡倉由三郎の『英語教育』は、英語教育の世界では必読とされ、先行研究では必ず引用されるものである。高梨健吉(1975)は、以下のように『英語教育』を評価している。

題名を「英語教授法」ではなくて「英語教育」としたところも、その抱負がうかがわれる。この本は久しく英語教育者の必読書であり、今読んでも教えられるところが多い。『英語教育』の中で特に英語教師の胸を強く打つのは、英語教師はいかにあるべきか、を説いた一章である。外国語教師は、学力の修養や教授法の訓練を積むことはもちろん必要であるが、個人的な修養も欠かしてはならない。(p.151)

斎藤浩一(2012)は、「英語教授法」と「英語教育」との違いを岡倉由三郎は認識しており、「英語を使った教育」と解釈し、『英語教育』を「人間教育・教養」宣言書と捉えている。また、内丸公平(2014)は、岡倉由三郎がハウスクネヒトの講義を聞いていたことから、ヘルバルト教育学との接点を論じている。

また、中村捷(2016)が英語教授法の名著として取り上げた以下の4冊の中にも『英語教育』は入っている。

外山正一(1897)『英語教授法 附正則文部省英語読本』大日本図書株式会社
岡倉由三郎(1911)『英語教育』博文館
イェスペルセン(1904)『外国語教授法』
スウィート(1899)『言語の実際的研究』

留学以前に執筆された『外国語教授新論』では、国語に力を入れていたこともあり、国語との連携という側面が強く出ている。『英語教育』の中でも母国語の重要性(第3章)、国語のアクセントの特徴についての記述(第4章)が見られるのが特徴的である。

なお、一言述べておきたいことは、外国語の教授は、母国語の知識の堅固にできて居ない者には、甚だ困難を感ずると云ふことである。是は中等学校の英語教授に経験ある諸君が、切に感ぜられる所と思ふが、英語を教授しても、充分に了解し得ない生徒は、多くは母国語の知識が不正確なものである。若し彼等が母国語の書方、綴方、読方及び構造等に一通り熟して居たなら、外国語の呑み込みも、余程容易だらうと思はれる。実際母国語の知識が、精密豊富でなるものは、語学の進歩が著しいと云ふことは、学者の間では定説である。されば現今の小学校では、専ら国語の知識を正確にし、其運用に熟せしむる様、力を注ぐが妥当であつて、それがやがて他日外国語を修得する根底となるのだから、間接に外国教授の効果を大ならしむ所以である。況んや今日の如く、小学校の国語教授の不充分なる事が、屡、非難せられる時代では、一層いっそう努力すべきであつて、其他を顧みるべき時期では、固よりない。(pp.15−16「第3章 英語教授を始むる時期」)

アクセントには二種類ある。一は、支那の四声の如き、主に音の高低を意味する、音楽アクセント、又た今一つは力の強弱を主とする、即ち、英語のアクセントの如きものである。此の両者は勿論画然分離すべき性質のもので無く、高低を主としても強弱が伴ひ、強弱を主としても高低が矢張伴ふのである。我国語の如きも、精微なる器械で測れば、アクセントの有無によつて、高低の差と強弱の差とが生じ、アクセントの有る節と無き節とは、高低が、音楽にて云ふ半音だけの差がある。しかし、高低強弱のどちらかと言ふと、我国語は、英語と同じく、アクセントの強弱を主とする側に属するのである。(p.98「第9章 発音及び読方」)

現在の小学校の英語教育を想起させる記述であり、国語力の重要性を説いている。また、ロンドンで音声学の資料を集め、『英語発音カード』なども出版するほど発音を重視したことも反映されている。『英語教育』の「第14章 教師に対する要求」でも教師は発音学と言語学の知識を備えていることの重要性を説いている。この記述からは、岡倉由三郎は、日本語のアクセントをピッチ(高低)アクセントではなく、ストレス(強弱)アクセントに所属させているのが特徴的である。これに対して、杉藤美代子(2012)は、先行研究として日本語も外国語の場合と同様に、高さだけではなく、強さも考慮しなければならない指摘を行ったものとして、千葉勉(1935)、ネウストプニー(1967)のものをあげている。しかし、すでに岡倉由三郎(1911)が、それ以前に24年も早く指摘している点は注目してよいであろう(注4)。
英語教育の分野では非常に有名な『英語教育』であるが、『外国語教授新論』は引用されることが少ない。国語教育の分野では石井庄司(1958)、国語教育と英語教育との連携の分野では柾木貴之(2010)が、それぞれ岡倉由三郎の『外国語教授新論』をとりあげている。1905年の留学前の著作で英語と国語との兼務の時期でもあり、国語についての論が多く見られるのが特徴的である(注5)。この論文は「解題」「本論 外国語の教授法を論ず」「余論 国語漢文の教授法を論ず」の三つから構成されている。柾木貴之(2010)は岡倉由三郎の英語と国語との連携の継承者は石橋幸太郎、英語教育の継承者は福原麟太郎と位置づけている。この『外国語教授新論』には、以下のように国語教育との連携の記述が多く見られる。

今の外国語教授法に於ける欠点は固より一にして足らずと雖も要するに国情に由りて定めたる一定の方法なく徒に旧来の手段を墨守して殆ど之が是非をだも考ふる事をせず且つは国語漢文の如き必ずや之が基礎とし用ゐらるべき者と更に連絡連携の道を設けざるが故に孤力振ふに由なきに起因せずんばあらざるべからざるなり(p.6)

今日の如く二者孤立し甚だしきに至りては相敵視するの傾きあるは生徒の不利益云ふべからざれば一日も早くかかる障壁を徹し去り最初の外国語は専ら国語を基礎とし進むべく第二の外国語の授くるの必要ある時は国語は勿論既に学びたる外国語を基礎とし進むべししかする時は学業進むに連れ修学の労次第に減じかくて得たる智識能く其処を得るを以て之が運用益自由なるを得んとは是れ余が力を極めて読者の首肯を得んと努むる所たりとす(p.22)

小学校に於ける国語科は雅文の初歩を含むべしと雖も重に俗語使用法を規則正しく教へ込み卒業に至るまでには規則に由り之を運用せしむる様仕組むべし言ひ換ふれば無味ならぬ方法を用ゐて俗語の語法を授けよとなり(p.45)

中学に於ける国語科は成るべく実用を旨とし漫りに高尚に流れぬ様にすべし読本の如き其材料を探るに古文または擬古文の如き語句の耳遠きものよりせんとするは今日の弊風なり(p.47)

学校は決して生徒の素修を予想すべからず全くこれなきものとして初めより漢文を教ふべきなりこれを成すには生徒が兼て小学に得たる漢字の知識を基礎とし短く易きより長く難きに及ぶの順を取るべし(p.49)

漢文科は成るべく国語科及び外国科と連絡し互に提携を努むべし其教師たる者は教師養成所の卒業生若しくは之と同資格たるべき事論を俟たず(p.49)

このように、漢文も外国語としてみなし、外国語・漢文・国語との連携を説いているのが特徴的である。『外国語教授新論』には、1905年の留学前の岡倉由三郎の英語・漢文・国語との連携の思想がよく示されていると言えよう。それに比べて『英語教育』では英語に専念したこともあり、国語の記述が大幅に減少しているが、国語力の重要性は時折示している点は変わらない。
石井庄司(1958)は、国語教育を以下の六区分に分け、「基本計画期」に岡倉由三郎『日本語学一班』『外国語教授新論』、上田万年『国文学』、落合直文『日本文典』を取り上げている。

1創始期
2基本計画期
3整備期
4発展期
5拡充期
6成熟期

岡倉由三郎の『外国語教授新論』には国語教育観が出ているが、石井庄司(1958)は、「本書は、外国語の教授を本論として、国語漢文については、やや側面的な感じがなかったわけではないが、当時における国語教育の傾向をうかがうことができると思う。それは、ひじょうに国語的であろうということである」と評している。

3.朝鮮での日本語教育

日本語教育史の中では、岡倉由三郎は1891年から1893年にかけて、「日語学堂」で初めて朝鮮での本格的な日本語教育を行ったことでも知られている。岡倉由三郎の行った日本語教育の具体的な教材やカリキュラムなどの実態は不明であるが(注6)、教師が学習者の母語を十分に理解していることが前提となっているオレンドルフ教授法を使用し、朝鮮語を用いた間接法であったことが、岡倉由三郎(1894a)「朝鮮国民教育新案」の以下の記述から垣間見える。

余は、去る明治二十四年より朝鮮政府に聘せられて、日本語の教師と為り、同二十六年に至るまで、該国に在て、語学の教授に従事したりき。初め余の学生に接するや、自ら一言一動きを慎み、専ら感情上より彼等を感発せしめんと務めたり。而るに、彼等は鞭撻を加へらるるに慣れたるにや、余の用意は無効に属せしのみならず、反て余を以て彼等を崇敬するものの如く誤想するの傾向を生ぜしめたり。因て方針を改め、余は彼等に対して、一も忌憚する所なく、叱正励戒したりければ、彼等、始て余に順従せり。亦以て学生の一斑を観るに足る可き歟。・・〈中略〉・・朝鮮の仮名文字は、今より四百五十年前世祖皇帝の著作と称するものあり、其何人の作に係るかは今保証し難しと雖も、人若し文字の可否を問ふものあらば、之を以て世界第一の文字と為すに躊躇せず。・・〈中略〉・・余の担任せる日本語学校に徴するに、三ヶ月目にして通弁を廃するを得たり。一年半にして日本新聞などを読むもの数人を出せり。(日本の卑近なる俗語は未だ解せざるものも多かりき)三年にして通弁、差備官等数人を出すに至れり。(余はオレンドルフの巨樹法を用ひたり)依て朝鮮の為に計るに、外国語は日本語を以て最も利ありと為す。

吉岡英幸(1997)や黄雲(2011)は、岡倉由三郎に朝鮮語を教えたチェンバレンとの出会いが、日本語教育者としての岡倉由三郎を生み出したことを論じ、朝鮮から帰国した翌年1894(明治27)年に書かれた岡倉由三郎の『外国語教授新論』を引用している。吉岡英幸(1997)は、福井久蔵(1953)の上田万年と岡倉由三郎とがアストンの『日本文典』の翻訳担当者として名前があがっている点や、岡倉由三郎からアストンへの寄贈の『日本文典大綱』の書き込みなどから、チェンバレンとアストンとの影響、台湾で山口喜一郎が行ったよりも8年はやく伝統的な訳読方式を脱した日本語教育を実践した人物である点を論じている。
岡倉由三郎は東京帝国大学のあとは、朝鮮語琉球語を研究し、国語学から音声学、教授法に入り、英語教育に移り、英文学を手掛けたが、その初期のころは朝鮮語の研究及び朝鮮での日本語教育を行っていた。そのためか、その時機の岡倉由三郎(1893a・1893b・1893c・1894)は連続して朝鮮語に関する著作を発表し、その朝鮮語の研究及び「諺文」、吏道、諺文、音韻、文法まで幅広く研究していたことに、黄雲(2011)は、高い評価を与えている。國學院大學図書館蔵の「吏道・諺文考」「字音考」は岡倉由三郎からの寄贈の抜刷があり、岡倉由三郎の書き込みと思われる朱筆と鉛筆書きが加えられている。
帰国後の岡倉由三郎(1897・1900)は、精力的に日本語学に関連する事柄を発表しているが、岡倉由三郎(1935a)から、東京外国語学校教授の時期も朝鮮語を担当していたこともわかる(例えば岡倉由三郎1900には垣間見える)。そのため、日本語教育期、日本語学期、英語教育・英文学期の三つの時期に区分することも可能であろう。

4.教授法−オレンドルフとパーマー−

岡倉由三郎の教授法は、日本語教育・英語教育ともにオレンドルフのものを用いていることが、その論文や著作物などに記されている。はやいものとしては、岡倉由三郎(1894)『外国語教授新論』の以下の記述などがある。

尚今一つこれに勝りたる策は文法と云ふ別の科目を廃して会話の時間に於て一方より材料を授くると共に他の一方より其中に存する法則を与へ両々相携へて相互の進歩を促さしむるにありこは彼のオルレンドルフの外国語教授式の如きを本邦語の性質に由り大に斟酌を加へて実行するに於ては仮令へば食餌に混ずるに薬を以てするに其苦きを知らずして其効を享くるが如く知らず識らず無味の規則を学ばしむの益あり・・〈中略〉・・初学者には嚮に云へるオルレンドルフ、又はコンフォートの如き式を以てことばの組織上似寄りたる語句文章の使用に慣れしめ生徒をして其学びたる一定のことばづかひに拠り之になづらへて自らこれと同類のことばづかひを為す事を得せしむる様努むべきなり(pp.34−36)

この記述をみると、会話の中で文法を入れておくことを示しており、実用と文法とを考慮していることがわかる。オレンドルフのものはドイツを中心に広まったものであり、平高史也(1992a)によると、コミュニケーションは考慮されず、音声言語には配慮していなかったため、19世紀以降の往来の活発化に伴って実用性が高まってきた中で登場したものがオルレンドルフであるという。特徴としては、文法訳読方式の色彩は感じられるが、会話にも配慮してある点が特徴的である。金沢朱美(2006)は、井上勤(紅林員方)訳(1888)『六月卒業英学自在』が出版され、この本がオレンドルフの普及に役立ったことを指摘し考察している。また、金沢朱美(2007)では以下のように述べている。

オレンドルフ教授法は明治の時代において、学習者の言語を知悉し、翻訳や文法と会話に含まれた四技能の総合力の促進のために教授法を研究し、工夫していた学者であり、かつ実践者であった岡倉には、斬新な教授法であったと結論できる。また、旧韓末における、オレンドルフの文法訳読教授法が尊重されたのは象徴的でもあるといえる。

これに対して、平賀優子(2008)は、「訳読法」「G-TM(Grammar-Translation Method)」「文法・訳読教授法」という区分を明確にしていない状態を批判し、『六月卒業英学自在』の翻訳は、日本流にアレンジされたものであることを述べている(注7)。
平高史也(1992b)は、岡倉由三郎の指摘の外に、外山正一(1897)『外国語教授法』の「如何なる教課書をヲ用フルカト云フニ。極ハメテ訓練法ヲ旨トスル一種特別ノ教課書ヲ使用スルナリ。即チ“Ollendorff’s New Method”ノ如キ」(p.7)の指摘を正しい理解として紹介している。
また、岡倉由三郎は、パーマー(1877−1949)とは対立関係にあったことは知られている。伊村元道(1994)によると、パーマーは沢柳政太郎の招聘でロンドン大学の音声学の講師であったパーマーを英語教育研究所所長(のち語学教育研究所)として招聘したが、1923年にパーマーが来日した際、岡倉由三郎が出迎えた際に「You are teaching the wrong thing in the right way」(寺西武夫『英語教師の手記』)と語ったという。伊村元道(1994)はパーマーが嫌われた理由を以下の5点にまとめているが、岡倉由三郎の門下は福原麟太郎教養主義でパーマーと対立したが、小川芳男のようにパーマーのオーラルメソッドに好意的な研究もいたそうである。

1英語敵視の時代性
2音声言語の押し付け
3日本の英語教育の伝統を十分に評価しない。自分で系統立てて新しい用語で呼びたがる傾向。
4英語を能率的に学ばせるかに関心事がある。目的論や教育論には興味がない。
5実践的なエネルギッシュなタイプで模範授業などで率直に批判する人柄(戸川秋骨「ラジオの声は不快な声」・鈴木博「レコードの声は気骨・味わいもったいぶったおかしい生真面目な紳士」)

日本語教育では、長沼直兄はパーマーの影響を受け、鈴木忍はフリーズの影響を受けたことで知られている。長沼直兄(1955)は、パーマーの影響を受けたとされているが、以下の記述から、実際にはオレンドルフも評価していることがわかる。

発達の歴史から言うと従来の翻訳法ばかりでいったものが、アーンやオレンドルフにより多少日常の言葉をできるだけ反復し練習させることにより熟達させるようになってきた。(p.131)

5.標準語についての意識

上田万年と岡倉由三郎とは、同じチェンバレンの門下であり、標準語についての論を発表している。上田万年の論は引用されることが多いが、真田信治(2001)によると、standard lamguageの訳語としての「標準語」という名称を最初に用いたのは、岡倉由三郎であるという。岡倉由三郎(1890)『日本語学一斑』の以下の記述を引用し、標準語は外的な社会的要因によって客観的に決まる点に注目している(pp.89−90)。

社会の変動の模様により、他を悉く凌ぐに至らんには、その用ゐ来れるもの、直に標準語の位置を占め、爾余は皆、方言となり果つるの外なし。故に標準語となり、方言となるは、其思想交換の具として優劣あるが為ならず、常に、之を用ゐる者全体が、政治上の都合により、上下するにつれ、定まるものなり。

これに対して、山口誠(2001)は、上田万年より二年早い1893年に標準語についての論「方言ノ性質及ビ調査法」を『東京人類学会雑誌』に発表している点に注目している。また、その後の岡倉由三郎の『国語陶冶とラヂオ』『ことばの講座』などにも頻繁に「標準語」についてが説かれているのも特徴的である。方言調査や存続の必要性とともに、標準語による統一されることによる文化向上を説いている点では共通している。

6.日本語学の著作の特徴

山東功(2002)は、明治期の転換期を明治5(1872)年の学制頒布を分岐点として措定し、『明治以降教育制度発達史』(教育史編纂会編)に修正を施し、以下のような三期に区分している。

第1期 明治元(1868)年−明治4(1871)年  太政官期    国学者主導の言語研究
第2期 明治4(1871)年−明治19(1886)年  学制頒布・教育令期 洋学者主導の文法研
第3期 明治19(1886)年以降  学校令期    近代言語学の直接移入
(p.96)

この中で岡倉由三郎が日本語学の著作を発表したのは、第3期の近代言語学の直接移入の時期にあたる。山東功(2002)は、以下のように述べている。

この時期は大槻の他にも落合直文関根正直、岡倉由三郎など、数多くの学者達が文典を著しているが、それらの多くは初等教育を目的とするよりも、文法を教えるものを対象とした師範学校教授用のものである。(p.102)

岡倉由三郎の日本語学の著作としては、日本語学史の中では、以下のものがあげられる。

岡倉由三郎(1890)『日本語学一斑』明治義会
岡倉由三郎(1891)『日本新文典』冨山房
岡倉由三郎(1897)『日本文典大綱』冨山房
岡倉由三郎(1901)『発音学講話』宝永館書店
岡倉由三郎(1901)『新撰日本文典 文及び文の解剖』宝永館書店
岡倉由三郎(1905)『発音学講話』友朋堂書店
岡倉由三郎(1905)『新撰日本文典 文及び文の解剖』有朋堂書店

日本語学の分野において、岡倉由三郎について高く評価し、多くの記述を行ったのは、福井久蔵(1953)である(pp.239−243・pp.301−305)。福井久蔵(1953)は、岡倉由三郎の『日本語学一斑』『日本新文典』『日本文典大綱』『文及び文の解剖』を取り上げている。


『日本語学一斑』

チェンバレンから日本語を外国語としてみることを教わった岡倉由三郎の書籍である。福井久蔵(1953)は、『日本語学一班』については「発音言語学方面に関する我が国最初の出版物といふべきである」(p.239)と評価した。内容は、言語学・音声学といった内容である。

日本新文典』

山東功(2002)は、この中で岡倉由三郎の『日本新文典』を、以下のように「折衷文典」(注8)として取り上げている。

物集高見『日本文典』以外には、那珂通世『国語学』(明治22年)、大槻文彦『語法指南』・落合直文/小中村義象『中等教育日本文典』・手島春治『日本文法教科書』(明治23年)、大和田建樹『和文典』・関根正直国語学』・岡倉由三郎『日本新文典』・高津鍬三郎『日本中文典』(明治24年)などが挙げられよう。(p.265)

福井久蔵(1953)は、『日本新文典』については「斯界の新智識である氏の著として看過してはならぬものがある。主格を示す後置詞『の』『が』は領格を示すものから転じたと説く如き創設がある。動詞の語尾を特に、従来の型を破って羅馬字を使用した。語尾変化の五階の名称を段また言の称を改め、終止形・連体形の如く形の字に改めた。チェンバレン氏の部別数詞といつたのを媒助数詞(後に助数詞)と改め、加行佐行変格動詞を田中氏と同じく三段活用と改めた」(pp.239−240)と評価した。

『日本文典大綱』

「はしがき」には、「本書を著すに際し、参考に資せし書どもの中に、アストン氏の(A Grammar of the Japanese Written Language)、大槻氏の広日本文典などに、おふ所極めておほし。また友人文学士芳賀矢一氏は、著述の方法其他に関し、大切なるあまたの注意を与へられたり」(p.1)と書かれている。
吉岡英幸(1997)の調査によると、英国ケンブリッジ大学の中央図書館には、アストンが日本滞在中に収取した資料があり、見返しに「余が常に敬慕しまつれるアストン先生の御手許に謹み手て此書を呈じ候 明治三十年十二月五日 著者」とあり、ところどころ朱筆で訂正した箇所や、鉛筆の英語の書き込み見られるとのことである。
福井久蔵(1953)は、『日本文典大綱』について、「音韻門には新説がある。父音は十八箇ありといひ、その中にはngの音をも加へてある。・・〈中略〉・・単語門には各品詞を構造より単純・複合に、本原より相伝借用に、由来より本来伝来に分かち、動詞は富樫広蔭に倣ひ四韻三韻に分類し、語尾変化の名称中、已然形を実在連助形、将然形を仮定連助形と改め、敬称の上から尊敬対等謙遜語の別を立て、また叙述の上から平叙法・想察法・断定法・願望法・思惟法の姿があることをいひ、助辞を助体詞・助用詞・通助詞に分ち、詞章門には独立の詞章・隷属の詞章があることをいひ、詞章の排列に関し八則を立て、音韻分析・詞章分析・単韻分析を試みた。・・〈中略〉・・従来の係結といふ字句を避けて新しい説明を試みたり、旧い型を破って新たに文章法を樹立しようとした著者の意図は十分に買ふべきである。」(pp.240−241)とその独創性を評価している。

『発音学講話』

先行研究でもほとんど取り上げられることのないものであるが、日本語の発音について解剖学的な見地から詳細に論じており、『日本語一斑』の発音の部の続編のような形になっている。なお、友朋堂書店版には附言として参考文献が記されている。

『新撰日本文典 文及び文の解剖』

『新撰日本文典』は出版社を変えて(1901年宝永館書店・1905年友朋堂書店)いるが、目次及び内容の変更はない。
凡例では「本書の大体の結構は、之をガウ氏の英語教授書第一篇に採れる所少なからず」と記されており、英語教授と国語との連携が垣間見える。英語教授法では、オレンドルフの影響を受けていることが知られ、朝鮮での日本語教育もオレンドルフで行っているが、日本語文典ではガウの影響を受けていることがわかる記述である。また、附記には以下のように記されている。

金井保三氏は、本書の編成につき種々注意を与えられしのみならず、余がために校合の労をさへ取られたり。依りてその由を茲に特書し、同氏に対する余が深き謝意を陳ぶ。(附記)

金井保三は、日本語文法としては口語の『俗語文典』、日本語教科書としては『日語指南』の著作があることで知られている。岡倉由三郎と同様に日本語教育にも携わった人物があげられているのは、興味深い。
福井久蔵(1953)は、『文及び文の解剖』について、「著者は一とほり単文の説明を了へた後、独逸文法に於けるが如き分類法により、連体文(名詞を修飾せる節をいふ)成体文(同上の如くにして被修飾語である名詞を略するもの)連用文(副詞の如き節をなすもの)三種の附属文を説き、叙述と時相とが同一の詞で終はつてゐる独立文を連続的に連結することを述べ、次第に複雑な解文の法を以てした。・・〈中略〉・・三土氏の文典のやうに広くは行はれなかつたが、文の構造を旨とする教科用のものとしては特記に値するものである」(pp.303−305)と評価した。

7.岡倉由三郎の日本語学

岡倉由三郎の日本語学は、朝鮮に赴任し日本語教育に従事した時期から欧州に留学するまでの時期に多くの著作を示している。その後、英語教育・英語学などに従事するが、絶えず、その根底には日本語を基盤とした教養としての英語という意識が強く反映されている。また、英語発音カードも開発するほど、音声を重要視しているが、それは日本語にも伺うことができる。また、普及のためには標準語は必要であるという主張を早くから述べている。岡倉由三郎の高弟として、福原麟太郎がいるが、あれほど多くの日本語のエッセイを多く書いたのは、岡倉由三郎の日本語と英語の連携意識も継承していると考えられる。


(注)
1
久保恵子訳ではp.11に序文で示されている。
2
山口誠(2001)は「博言学」と「言語学」について以下のように述べている。
岡倉がチェンバレンから学んだ博言学とは、こうした博物学的知による「ことば」の蒐集と分類を目的とする学問であり、それは大英博物館チェルシー植物園に象徴される西洋へ報告されるためにつくられた知だった、他方、国民国家システムを基盤として、国民主義と近代科学進歩主義が密接に接合しつつあった19世紀末のヨーロッパから上田万年が持ち帰った言語学(LinguistikまたはLinguistics)とは、一つの「国家」を形成し保証する一つの「標準の言語」を構築するための、いわば自「国民」のための近代知だった。おなじ「ことば」を対象とする学問であっても、博言学と言語学では、それを実践する主体も、それによって目指されることも、大きく異なるのである。(p.71)
3
斎藤兆史(2000・2003a・2003b・2007)では、この「英語名人世代」についての解説と彼らの英語学習法から学べることについて考察をしている。
4
杉藤美代子(2012)は、日本語のアクセントに強さを考慮する先行研究として、千葉勉(1932)、千葉勉・梶山正登(1942)、ネウストプニー(1966)、藤村靖(1967)をあげているが、そのどれよりも岡倉由三郎(1911)の指摘のほうが早い。また、同様に杉藤美代子(2012)は、Fry(1955)の英語サクセントをストレスアクセントとする説、Bolinger(1958)の英語アクセントを高さアクセントの顕著さ、そこへ余分な持続時間と余分な強さを加えたものであるとする説を紹介した上で、「『高さ以外の他の条件』は一切必要でない。明らかに『日本語も英語も高低アクセント』である。これは筆者が長年かけて音響音声学的、心理学的、音声医学的実験等によって確かめることができた実験の結果であった」(p.92)と述べている。この結論は岡倉由三郎(1911)の私的とは異なる。
5
村岡博(1928)、征木貴之(2010)によると、1894年8月に執筆した岡倉由三郎は、9月から鹿児島県造士館に赴任し、国語(国語は『徒然草』、『太平記』、『源氏物語』など)と英語(ディンダルの『ベルファスト・アドレス』など)を担当したとのことである。
6
吉岡英幸(1997)は、岡倉由三郎『外国語教授新論』から以下のように、その日本語教授法を推測している。
こうした岡倉の外国語教授法観を日本語教育の立場に置き換えれば、発音は舌の位置などを図解して日本語と学習者の母語との相違点を指摘し指導する。作文は題を与える場合、その題に必要な表現や書式などを事前に教えてから書かせる。そして、文法という科目をおかず、会話で身近な語彙を使用し、構文や語句を軸にした問答形式の例文を多く与え、その学習項目でもある文法規則を帰納的に理解させると同時に発話を促し、練習させて定着させるというものであろうか。資料がなく詳細はわからないが、従来の文法訳読法に対し新しい外国語教授法を日本語教育に応用し実践したという点で、岡倉は貴重な存在である。
7
平賀優子(2008)は、「G-TM」と「文法・訳読方式」とでは、文法綱目ごとに課を配列した教本である点では同じだが、文法規則のあとの翻訳練習では、G-TMは意味的なつながりのない短文(叙述文あるいは問答式の会話文)であるが、文法訳読式教授法では読み物の翻訳練習を課す点で異なることを述べ、オレンドルフを文法会話教授と理解し、G-TMであるという理解がなされていないことを述べている。さらに、以下のように、日本におけるオレンドルフの理解は誤りであることを述べている。
当時(20世紀前後)の日本人にとっては、これまでの漢学の伝統を受け継いだ英学の方法−まとまった分量の(意味的なつながりのある)テキストの訳読−からすれば、短文の例文を挙げたOllendorffを代表とするG-TMのやり方は、意味より形式を重視し、言わば構造言語学的(Krlly,1964)なアプローチとして非常に目新しいものとして写ったために、Ollendorffの教授法を伝統的な方法として位置づけるよりも、会話教授が中心の新教授法として受容したということも考えられるということである。
8
山東功(2003)の「折衷文典」の定義は以下の五項目である。
編纂の筆者において国学や洋学の知見に接し得る人物のもの
編纂の意図において「文典」を明確に意識しているもの
品詞分類法において洋文典の品詞分類の影響が見られるもの
品詞の措定において活用の処理に整合性が見られるもの
文典の構成において文章法が歌作修辞法の段階に留まっていないもの  (p.265)







第二部 細江逸記の日本語学

1 細江逸記の国語学での業績

1.1 細江逸記(1928)「我が国語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形式の分岐するに至りし原理に及ぶ」『岡倉先生記念論文集』研究社

1.1.1 序言
細江逸記(1928)は、英語学の師にあたる岡倉由三郎(注1)を日本文法学の先達としても意識しているため、その影響が以下の記述からうかがわれる。

予の研究の一端として此芽出度き機会に於て、啻に英語学者英文学者たるのみならず日本文法学の先達でもあられた我が岡倉先生に深厚たる敬意と共に捧ぐることを許され度い。」(序言九六頁)

岡倉由三郎(1897)は、まえがきに以下のように述べている。

本書を著すに際し、参考に資せし書どもの中に、アストン氏の(A Grammar of Japanese Written Language)、大槻氏の廣日本文典などにおふ所極めておほし。また友人文学士芳賀矢一氏は、著述の方法其他に關し、大切なるあまたの注意を與へられたり。その由ここに記し、以て著者が厚き感謝の念の一端を發表する事しかり。(112頁)

このように岡倉由三郎(1891)の段階では、金井保三の校閲について付記で記されている程度であるから、大槻文彦芳賀矢一、アストンの影響を受けた形で、大きく深化したものとみてよいであろう。

1.1.2 「中相」の概念
日本語のヴォイスの研究のさきがけをなすものとして、細江逸記(1928)の「中相」という概念がある。つまり、能動態・受動態・使役態のほかに、中相態という概念を設定したのである。中相態は、インド・ヨーロッパ語で、受動態が発達する以前の形として知られ、受動的な意味を持つ自動詞である。「ゆ・らゆ・る・らる」の原義として、この中相という概念が上代で発達し、それが一面では自動詞を作り、もう一面では所相を作るとした。この「中相説」は、今泉忠義(1931)、菊地信夫(1940)、永田吉太郎(1956)、金田一春彦(1957)によって評価された。その評価の仕方は、今泉忠義(1931b)は「る・らる」の「意義分化の困難な例」をあげて受身・自発以前の「中相」の設定を評価し、菊地信夫(1940)、永田吉太郎(1956)、金田一春彦(1957)は自動詞・他動詞以外の「中相動詞」の設定を評価した。「見ゆ」「絶ゆ」「聞ゆ」などの文語に加え、「煮える」「売れる」「くずれる」という受動的な意味を持つ自動詞だけではなく、「決まる」「授かる」「教わる」「預かる」などの他動詞にも適用し、こうした動詞を中相動詞とした。先行研究として、金沢庄三郎の説を批判し(105―106頁)、やや類似した説として三矢重松(1908)をあげている(107―108頁)。
細江逸記(1928)は、日本語は英語やドイツ語とは異なることが一般に論じられているが、比較研究の立場からすると、印欧語族内でも異なって用いられていることを指摘し、「所相」は西欧諸国でも日常会話で用いられており、心理的に用いられる条件を以下の三点にまとめている(96―130頁)。

(1)行為者が知られざるか又は言者の心中に的確ならざる時
(2)行為者は的確に知られて居ても受動者の方が重要視せらるる時
(3)文に変化あらしむる為                   (130頁)

この中で「所相」として用いられる条件としては、(2)と(3)の場合を指摘し、「反照、受動、自動の法則」の存在を指摘している。
古代サンスクリット語には、能相(Active Voice)の中に「Parasmai-Pada」と「Atmane-Pada」とがあり、「Atmane-Pada」が転じて「自動詞」と「所相」となることを述べている。Atmane-Padaが受動を示しており、それを(A)「真性受動のもの」、(B)「無人称のもの」、(C)「反照受動」の三つに分類し、(B)(C)から(A)が発達したものとしている。そして、ギリジア語のActive、Middle、Passiveの三つの相があり、Middle Voiceから発達したものであるとし、ギリシア語のMiddle Voiceと古代サンスクリット語のAtmane-Padaと酷似したものであるとしている。
Passive Voiceが印欧祖語に近いギリシア語のMiddle Voiceや古代サンスクリット語のAtmane-Padaの反照性から来たと推測できるのと同様に、日本語でもギリシア語のMiddle Voiceや古代サンスクリット語のAtmane-Padaにあたる、「中相」というものがあり、それは上代の「ゆ」を語尾とするものであり、「中相」を一種の原始的な相の在り方とし、「所相(受身)」、「一部の自動詞」、「勢力」に三つの方向に分岐し、「勢力」から「自然勢」、「能力」、「敬語」の順番に発展したと考えた(111頁)。これを以下のようにまとめている。

原始中相(1)自動詞
(2)勢力
(a)自然勢→(b)能力→(c)敬語
(3)所相 (112頁)

現代の「る・らる(れる・られる)」の多義性において、尾上圭介(1998a・1998b・1999・2003)、柴谷方良(2000)が「受身」「尊敬」「可能」「自発」以前の根源的な概念を設定したことで知られているが、それ以前に細江逸記がいたことは注目してよいと考える。
ヴォイスに関して述べた細江逸記(1928)の論文の中では、山田孝雄(1908)を頻繁に引用し、山田孝雄が動詞の自他を否定し、受身根源であるのに対して、細江逸記は便宜上としながらも、動詞の自他を用い、山田孝雄の受身根源説に疑問を呈し、「中相」を設定し、その「中相」が上代に発達したもので、受身・自発・自動詞の前の段階のものを設定している。つまり、受身根源説にも自発根源説にも立たないことが大きな特徴と言える。そうして、「中相」からの発達法則として、以下の(1)(2)(3)の法則で発達し、この法則方向に活動した結果、「中相」としての純粋な心持は間もなく忘れられたように見えると述べている。
(1)反照、受動、自動の法則
(2)反照、使役、他動の法則
(3)受動、使役の法則
また、非情の受身についても、山田孝雄(1908)を引用しながら論を展開し、非情の受身固有説には立ちながらも、挙げている用例は情景描写の用例をあげている。受身の本質にも触れ、チェンバレンの説を引用し、「日本語の受身は純粋な所相ではない」とし、中相を考えれば、自動詞の受身の存在も理解できると述べている。
このように、細江逸記のヴォイスの論は、「中相」という概念を用いた独特のものであるが、その背後には比較言語学山田孝雄の影響をみることができるのである。

1.1.3 「アスペクト
アスペクトについては、後の金田一春彦(1950)によって提唱される(注2)以前に、次のような指摘を109頁の脚注で述べている。

予の見る所では真淵翁以来「大日本国語辞典」に至るまで「延言」又は「伸言」などの説のあるのは此〝Aspect〟の認められないからでもあり、又此重要なる“Aspect”認識の妨げをもなして居る。けれども、予は信ずる、学会はやがて“Aspect”の存在を認めるであろう。  (109頁)

この記述から、細江逸記はアスペクトの存在を日本語でも認めることを、金田一春彦以前に指摘していたことは重要である。

1.1.4 細江逸記の本文及び脚注での引用文献
この細江逸記の論文では、多くの出典と国学者国語学者・西洋人の日本語研究者の説の引用が見られる。その主なものを整理すると、以下のようになる。なお、細江逸記(1932)の先哲先覚高名一覧・文献索引にもあげられている国語学者は、太字で示した。

(細江逸記の本文及び脚注で引用されている用例の出典)
古事記日本書紀萬葉集古今集・貫之集・竹取物語土佐日記伊勢物語拾遺集・後拾遺集蜻蛉日記枕草子・宇津保物語・源氏物語十六夜日記・徒然草新古今集住吉物語・新勅撰集・与謝蕪村・千代女・坪内逍遥落合直文土井晩翠・大和田建樹

(細江逸記の本文及び脚注で引用されている人名と著作)
賀茂真淵全集』巻三 本居春庭 詞やちまた 大槻文彦『廣日本文典』『別記』
今泉定介『竹取物語講義』 岡倉由三郎 金澤庄三郎『日本文法論』『日本文法新論』
山田孝雄萬葉集講義』『奈良朝文法史』『日本文法論』 三矢重松『高等日本文法』
草野清民『日本文法』 藤岡作太郎『国文学全史 平安朝編』 宮良当壮八重山語彙』
大島正健 ホフマン アストン チェンバレン「The Japanese Language」
サンソム イェスペルセン カーム スウィート

なお、晩年の細江逸記(1944)は引用されることはないものであるが、これは細江逸記(1928)と同内容のものを整理し、わかりやすく書き改めたものであり、引用している国語学者の数も少なくなっているが、新たに鹿持雅澄、折口信夫今泉忠義山田孝雄『日本文法学概論』が加えられている点で新しい知見を取り入れる精神が感じられる。

1.2 細江逸記(1932)『動詞時制の研究』泰文堂

1.2.1 序文と先哲先覚高名索引・文献索引
細江逸記(1932)の「序」には、以下のように細江逸記(1928)のころにまとめた論であることも示されている。

こうして明治年間に基礎を得た私の考えが、不完全ながら一個の体系を整えるに近くなったのは大正の年もなお若いころで、この論の骨子は、私が昭和三年七月に岡倉先生還暦祝賀の記念論文集に寄せた『我が国語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形式の分岐するに至りし原理に及ぶ』と題した小論文とともに、私が昭和七年にまとめた『動詞職能論』の一部を成すものである。・・〈中略〉・・なお、私はこの小論文で、ずいぶん東西の学者の説に対して遠慮のない批評を加えたが、それは決して私のこれらの学者に対する敬意が薄いためではないことを了とされたい。私はこれらの熱心な先輩諸学者に対し絶大な敬意を表するとともに、これらの先覚がふびんな私の目に光明を授け、進むべき道を示して下さった大恩に対して無限の感謝をささげるものである。そして真理の忠実な使徒であるこれらの先達は必ずやあの鈴の屋翁が玉勝間の中に書いているような明朗な心で後進を待つものであると信じて、あえて敬虔な態度で自分の考えを述べる私である。(213頁)

この記述から、細江逸記(1928)の重要性、及び本居宣長の学問論の立場で記述していることがわかる。また、先哲先覚高名索引・文献索引をみると、以下のものがあげられ、細江逸記(1928)の中でも引用していた人物であることがわかる。
今泉定介『竹取物語講義』 金澤庄三郎『日本文法論』『日本文法新論』
山田孝雄『日本文法論』 宮良当壮八重山語彙』 草野清民『日本文法』
藤岡作太郎『国文学全史 平安朝編』

1.2.2 「つ」「つべし」
以下の古典の「つ」「つべし」の語形との比較を通じて(66頁―70頁)、これらはPresent Perfectで「確認確述」の語形であると定義づけている(69頁)。この点について木枝増一(1938)は、基本的に山田孝雄(1908)の説とほぼ同じものであると述べている(476頁)。

わが心春の山べにあくがれてながながし日をけふも暮らしつ(新古今集・巻1)
わが心慰めかねつ更科やをばすて山に照る月を見て(大和物語・151段)
万葉学のためにもまた光栄のきはみといひつべし(佐々木博士、『心の花』本年6月号)

1.2.3 「き」と「けり」
山田孝雄の学説での「けり」の扱い方「現実を基本として、これにより回想を起こすなりけり」に対して、「昔男ありけり」などの「けり」との関係性が説明できないことを指摘している(101―102頁)。
120―124頁では、『竹取物語』の例をあげ、「『き』は目睹回想で自分が親しく経験した事柄を語るもの、『けり』は伝承回想で他からの伝聞を告げるのに用いられたものである」としている。以下は取り上げている例文である。

(1)今は昔竹取物語の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、万の事につかひけり。名をば讃岐造麿となむいひける。その中に、本光る竹一すぢありけり。
(2)或時は風につけて知らぬ国に吹き寄せられて、鬼のやうなるもの出て来て殺さんとしき。ある時には来し方行末も知らず、海にまぎれんとしき。或時は糧尽きて、草の根を食物としき。ある時にはいはん方なくむくつげなるもの来て、食ひかからむとしき。
 (3)かしこき玉の枝を作らせ給ひて、官も賜はむと仰せ給ひき。これをこの比案ずるに、御使とおはしますべきかぐや姫の要じ給ふべきなりけりと承りて・・

「仰せ給ひき」を「おっしゃいました(確かに私どもがこの耳で聞きました)」、「要じ給ふべきなりけりと承りて」を「お求めあそばすはずのじゃげなと承りまして」とし、「き」「けり」の口語訳について以下のように述べている。

私見によれば草紙地(記録的)に「けり」のあるのは、それが作者の言葉であって『伝承』であるか、そうでなければ自己の作意から出る事柄を『伝承』として叙述するからで、いずれも非経験に属し、また対話(対談)に「き」とあるのは、記述する事柄がその言者の『経験』であるか、そうでなければ『経験』として陳述するからであって、・・〈中略〉・・人をたばかるためには経験として述べるのはもちろん、したがって言語学的にはいうまでもなく『目睹回想』の語形となっている。・・〈中略〉・・このゆえに私は『男ありき』ならば『男があった』のように現代語訳をなし、『男ありけり』ならば『男があったとさ』・『男があったげな』のように解すべきものと信ずる。そして「けり」は先述のとおり、これを英文法と比較対照すればExpanded Formに相当する。そしてExpanded Form は前二節で明らかにしたとおりImperfect の低回性を強調した語形で、それにしばしば情緒が伴い余韻嫋々の響きがある。ゆえにこの「けり」は一面『伝承回想』であると同時にまた多面では『詠嘆』を有する。・・〈中略〉・・とにかく上のような区別は平安朝初期まで明りょうにあったが、後漸次失われてついには区別のないものと考えられるようになったけれども私の考えによれば鎌倉時代まではある程度残存していたようである。(121頁―123頁)

このように、この区別は鎌倉時代までは残存していたと述べてもいるが、「けり」の二種類の意味についての考察も注目してよいであろう。また、回想については、以下のように脚注で述べ、「回想」と「追想」とを区別している。

私はただ「往時を回想する」というような場合のみならず、現在界の事柄についてでも、また時の区別を離れた判断事項についてでもわれわれが思いをめぐらすような場合をも含めて『回想』というつもりである。そしてこれに対して往時を思うという場合には必要があれば『追想』という語を用いる。  (115頁)。

この説は、第二次世界大戦後に広まり、その後、文法教科書にも採用されるようになった(注3)。このことは、国語学者が気付かなかったことに英語学者が気付いたことの典型的な例であるとともに、細江逸記の言語感覚を示すものであろう。
脚注では、岡倉由三郎の自宅での座談のときに「き」と「けり」の話題が出て、そのときに着想を得たものであることが述べられている。

もっとも私がこの研究を進めるに至った動機は大正六年九月某日岡倉由三郎先生を雑司が谷のお宅にお訪ねしたとき、先生の座談に暗示を得たことにあるので、先生はつとに私の言うことに類した区別を「き」と「けり」との間に認めておられるように思う。ここに事の次第を明記して先生に対する感謝の意を表するとともに、もし私の説くところが先生のお考えと異なっているならば、それは私自身の一年間にわたる研究の結果であることを断っておく。  (120頁)

北原保雄(1995)は草野清民の『日本文法』の「き・けり」の「対談・記録」という区別と細江逸記の「き・けり」の「目睹回想・伝承回想」との関連性について、この脚注を引用し、岡倉由三郎の自宅には多くの日本語学関連の蔵書があったため、草野清民の『日本文法』から岡倉由三郎が知見を得ていた可能性を指摘している。細江逸記(1932)で、細江逸記が草野清民『日本文法』の重要性を指摘し、やや近い着想を得ているものとして、121頁で草野清民『日本文法』、藤岡作太郎『国文学全史 平安朝編』、123頁で今泉定介『竹取物語講義』をあげているため、岡倉由三郎のところで、草野清民『日本文法』の話題になった可能性や、岡倉由三郎に触発されて日本文法の書籍を読み、草野清民『日本文法』に及んだ可能性が高いといえる。また、福井久蔵(1953)は、「本来が英語に就いての議論であるが、その該博な語学上の智識を以て欧州各国の学者の説を破りて、併せて国文法の上にも及んだのである。管見によれば、山田博士の過去助動詞を回想の複語尾と立てた説にヒントを得て未来現在にも説き及ぼしたもので、その引例はP G.WilsonのThe students guide to modern Languagesから多分に借用してあり、且国文法に関する説明はただその主要点に触れただけであるが、比較文法として新しき意義を有してゐるものと思ふ」(p.557)と述べている。

1.2.4「む」「べし」
shall、willに相当するものとして、「む」「べし」を示している。この箇所では、『萬葉集』を引用し、「む」を「もふ」(=思う)の意味の古語から出たものと推定し、金沢庄三郎の「見る」説を注で紹介している。また、宮良当壮(1930)を引用し、琉球諸語および付近の言語から、「べし」は「はず」と同語であるとし、チェンバレンの説も引用している(141―142頁)。

居り明かし今宵は飲まむ郭公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ(萬葉集・巻18)
うつつにも夢にも我はもはざりき(萬葉集・巻一一)
万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし(萬葉集・巻5)

1.3 細江逸記(1933)『動詞叙法の研究』泰文堂

1.3.1 序
細江逸記(1933)は「序に代えて」では、以下のようにテンスとムードについて以下のように述べ、テンスとムードを別個のものとしては考えないことを述べている。現在のムード・モダリティ論争以前にその問題点を指摘している、その先見性は評価できるであろう。

昨年の小著にも言ったように、いわゆるTenseとMoodとを別個の存在のように見る考え方は大きな誤りで、この二つは俗言で言えば一平面の上に並べて、その相連なり相通ずるさまを達見するまではそのいずれをも適当に理解できないとは、私が十数年来抱懐する意見で、浅学惨たんたる私の論述には不十分の個所もあるであろうし、判断の妥当でない点も多々あるであろうことを恐れるが、この礎論にはまちがいのないことは確信するものである。  (3頁)

1.3.2 「き」「けり」
細江逸記(1932)で述べた「き」の「経験回想」「目睹回想」と「けり」の「非経験回想」「伝承回想」を示し、「叙述」の力ばかりでなく、強烈な「叙想」の力を有するものであることを示している。
 
 あるいはわが国語の
父上よけさはいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり(故落合直文先生)
などの「けり」の用法や、日常語の『ありがとうございました』・『困ったなあ』・『こりゃ驚いた』・
『今度の上りは何時でした』・『さあ、何時だっけ』などに引き比べて考えてみたならば、ここに初
めて〝Past Tense〟が、通常これまでの学者の考えていたように「叙実」の力を有するばかりでな
く、その反面で実に強烈な「叙想」の力を有するものであることが了解できるであろう。(四九頁)

1.3.3 「む」「べし」
「む」「べし」については、以下の「む」「べし」の例をあげている。

居り明かし今宵は飲まむ郭公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ(萬葉集、巻18)
万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし(萬葉集、巻5)
夜ふけ侍りぬべし(源氏物語、桐壺)
わがせこが来べき宵なりささがにのくものおこなひ今宵しるしも(日本書紀、巻13)

そして以下のように、「未然段」を「叙想段」と呼ぶことを提唱しており、現在の日本語教育に通じるものがあり、その先見性を感じる記述である。

わが国語で、もし動詞活用のこの段階を『未然段』と名づけることが妥当だとするならば、また同時に、これを『叙想段』と称してもいいように思われる。・・〈中略〉・・わが国語では否定の陳述がこの語形を基礎として作られるが、これまたその本質が叙想的のものであることを示すものと言わなければならない。・・〈中略〉・・それがいかにshall,shouleと近似関係にあるかがわかるであろう。それだから、今もしこの『む』・『べし』を通覧するのに明徹な洞察眼でしたならば、私が年来言うところの『叙想法』および『叙想法相当句』、ないし『仮装叙想法』というものが、決して空論でないことが、わが国語の投ずる側光によっていっそう明りょうにされると言ってさしつかえがないであろう。(52―53頁)。

「き」「けり」「む」「べし」については、細江逸記(1932)で示した例文を基本にして他の例文を加えながら、叙想法について述べている。この箇所を引用したはやい例として、木枝増一(1938)のものがある(478頁―479頁)。

1.4 細江逸記(一九四四)「我が国語の動詞の『諸相』(Voice)並びに動詞活用形式分岐の初期相に就いて」『大阪商科大学・同経済研究所 経済学雑誌』第14巻3号

細江逸記(1944)は、晩年に書かれ国語学に関する最後の論文であるが、経済学雑誌に掲載されたためもあり、ほとんど引用されることのない論文である。内容的には、細江逸記(1928)の論を整理したものであり基本的な「中相」の主張は同じである。しかし、その後の国語学の研究(折口信夫今泉忠義『国語発達史大要』・山田孝雄『日本文法学概論』)なども引用されている点が特徴的である。


2 細江逸記と国語学者との関係

2.1 細江逸記と草野清民・山田孝雄
細江逸記の論攷の中で、敬意を払いながら引用しているのは山田孝雄である。細江逸記(1932)の中でも、山田孝雄(1908)は日本文法の眼を開かせてくれたとまで述べ、草野清民(1901)の路線を発展継承していると位置付けている(注4)。山田孝雄は最後の国学者といわれており、細江逸記の言語観は、山田孝雄に近いものであることを示しているようである。

2.2 細江逸記と金沢庄三郎
細江逸記の論攷の中で、山田孝雄と並んで、引用でもっとも多く出てくるのは、金沢庄三郎である。金沢庄三郎は比較言語学者で知られるが、その説に対しては首肯できない箇所が多いと考えられ、ことごとく異を唱えているのが特徴的である。このことは、細江逸記の日本語の言語観が、山田孝雄の対照的な人物として金沢庄三郎をあげているようにも見えてくる。

2.3 細江逸記と国学者・国文学者・国語学者言語学者
細江逸記がもっとも多く国学者・国文学者・国語学者の引用が見られるのが、細江逸記(1928)である。ほぼ同内容を書き改めた細江逸記(1944)では人名の引用がやや減少し、鹿持雅澄、折口信夫今泉忠義山田孝雄『日本文法学概論』が加えられている。まとめてみると、以下のようになる。細江逸記(1932・1933)でも引用されている人名は太字にし、細江逸記(1928)で引用されている人名で、細江逸記(1944)でも引き続き残存したものには傍線を施した。

賀茂真淵 『賀茂真淵全集』巻三・本居春庭 詞やちまた・鹿持雅澄・大槻文彦『廣日本文典』『別記』・今泉定介『竹取物語講義』・岡倉由三郎・金澤庄三郎『日本文法論』『日本文法新論』・山田孝雄萬葉集講義』『奈良朝文法史』『日本文法論』・『日本文法学概論』・三矢重松『高等日本文法』・折口信夫・草野清民『日本文法』・藤岡作太郎『国文学全史 平安朝編』・今泉忠義『国語発達史大要』・宮良当壮八重山語彙』(注五)・大島正健・ホフマン・アストン・チェンバレン「The Japanese Language」・サンソム・イェスペルセン カーム スウィート

2.4 細江逸記の基本姿勢
細江逸記(1932・1933)の扉に国学者本居宣長と鹿持雅澄の言葉を引用している(注6)。そこには、学問の旧説にとらわれず、新説を入れていく箇所が引用されており、細江逸記の基本姿勢がうかがわれる。特にその姿勢は、同内容を整理・発展させた細江逸記(1928・1944)に見られる

3.細江逸記の日本語学

細江逸記の国語学との関わりは、『動詞時制の研究』が注目されているが、細江逸記の国語学の背景を知るには、『動詞時制の研究』の序文にも述べられている通り、「我が国語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形式の分岐するに至りし原理に及ぶ」にその原型があり重要である。その本文や脚注には参照した国語学者の説や参考文献が明瞭に示されている。晩年の「我が国語の動詞の『諸相』(Voice)並びに動詞活用形式分岐の初期相に就いて」も同様である。また、『動詞時制の研究』では、特に参照した国語学者についての索引も示している。その後の、『動詞叙法の研究』では論の展開が中心となるため、国語学者の説は紹介していない。
本稿では、「我が国語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形式の分岐するに至りし原理に及ぶ」が細江逸記の国語学をうかがう元型であり、ヴォイス、テンス、ムードと研究の進んでいく過程をうかがうことができることを指摘した。
また、細江逸記の師である岡倉由三郎(注7)から英語学・英文学・日本文法学の影響を受け、岡倉由三郎が参考にしていた国語学の参考文献を踏襲しているため、大槻文彦チェンバレン、サンソムなどの影響を受けていることがわかる。また、本居宣長・鹿持雅澄の国学の学問の精神を受け継ぎ、文法論としては、草野清民、山田孝雄の文法論を踏まえた上で、独自の日本文法論を打ち出していることも注目してよいであろう。その際、金沢庄三郎を自説の対照的なものとして引用していることも注目される。また、晩年の論文でも、同内容を整理・論述する際に国語学の新しい学説の引用もあることから、国学の精神が感じられる。


結−岡倉由三郎と細江逸記の日本語学−

岡倉由三郎は、日本語教育・日本語学・英語教育など大きな業績を残している。朝鮮に赴任し日本語教育に従事した時期から欧州に留学するまでの時期に多くの著作を示している。その後、英語教育・英語学などに従事するが、絶えず、その根底には日本語を基盤とした教養としての英語という意識が強く反映されている。また、英語発音カードも開発するほど、音声を重要視しているが、それは日本語にも伺うことができる。また、普及のためには標準語は必要であるという主張を早くから述べている。岡倉由三郎の高弟として、福原麟太郎がいるが、あれほど多くの日本語のエッセイを多く書いたのは、岡倉由三郎の日本語と英語の連携意識も継承していると考えられる。一方で、細江逸記のように、病弱であるために多くの著作を残さなかったが、五文型の普及に貢献する著作を残しただけでなく、日本の古典との比較も論じた結果、日本語学での業績も残した点は、やはり日本語と英語との連携としての岡倉由三郎の影響が感じられる。しかし、多くの著作を残した岡倉由三郎と細江逸記の手掛けた分野は異なる。その意味でも対照的である。
また、英語教育史に残る、「英語大論争」という、実用主義平泉渉教養主義で佐藤順太という岡倉由三郎の門下に教わった渡部昇一の論争にも連なるのも、教養としての外国語という岡倉由三郎の系譜とパーマーとの対立を彷彿とさせるものがある。


(注)
1
岡倉由三郎には、『日本語学一斑』『日本新文典』『日本文典大綱』『文及び文の解剖』など国語学の著作が数多くある。芳賀綏(1977)では、ラジオのマイク時代の名手として、語学派、修養派、時事解説派に分類し、語学派の代表として岡倉由三郎をあげている。
また、大槻文彦・三矢重松はヴォイスのことを「相」としており、「相」という用語で使用されていた。
細江逸記(1916)は、アニアンズの流れで日本に五文型を定着させたとされる著作であり、高く評価されてきたものである。國弘正雄(1970)はこれをテキストとして繰り返し音読したこと(109頁)を述べ、渡部昇一(1996)は上智大学の講義のテキストとして使用してきたこと(43頁・204頁―206頁)を述べている。その目次には日本語との比較などを立項しておらず、脚注で.細江逸記(1932)14頁、細江逸記(1933)422頁、「中相」の概念の84頁で示されている「由良の門を渡る舟人舵を絶え」(新古今集)の「絶え」で説明する程度である。細江逸記(1916)の流れで英語の例文に口語訳をつけた細江逸記(1942)も同様である。
2
宮田幸一(1948)の論はアスペクト研究の嚆矢であるとの大友信一先生からの御教示があった。川上蓁氏は、金田一春彦アスペクトの論文の清書を担当したことを話しておられた。両氏ともにアスペクトの研究を志していた時期があると直接うかがった。
3
加藤浩司(1997・1998)は細江説に依拠しながら「き・けり」の2000年以前の研究史を整理し、小田勝(2015)は2000年以降の主な諸説を紹介している。また、山口明穂(2000)は、「細江説が発表された一九三二年当時、どのような反響を呼んだか定かではないが、第二次世界大戦前に広く使用されたと伝えられる『新文典』や戦争中に刊行された『中等文法』などには取り入れられていないところを見ると、やはり戦後の、ある一時期からのことではなかったかと推測される。」(133頁)と述べている。この点については、加藤浩司(1997・1998)では、文法教科書に採用した早い例として佐伯梅友(1953)をあげている。また、徳田浄(1936)・木枝増一(1938)がその早い例であるとしている。徳田浄(1936)は191頁と199頁で山田孝雄・細江逸記を併記して述べている。同様に、木枝増一(1938)は、四七四頁―四七六頁及び四九二頁―四九三頁で取り上げ、時の論については「細江氏の説は英語の多くの実例に依つて根據づけられてゐるのであるが、せの説の根本義に於ては山田孝雄氏の論と同説であると思ふ」、「き・けり」については「細江氏の説はたしかに傾聴に値する説と思ふ。併し、従来は左の山田孝雄博士の『日本文法論』(410頁―411頁)のあたりにおちついてゐたのである」と述べている。木枝増一(1938)は、細江逸記(1933)からも引用しており(474頁―494頁)、細江逸記を本格的に引用した嚆矢ではないだろうか。この書は、当時の一通りの諸説を書き入れたものとして活用されており、利用者も多かったようであるので、細江逸記の説を広めることにつながったと推察できる。
4
細江逸記(1932)では、以下のように述べおり、草野清民、山田孝雄に触発されていることを述べている。ている。
ようやく名徹な見解を下そうとされた学者は草野清民氏であったが、不幸にも氏は早世されたので十分に氏の説を聞くことができないのは私の最も遺憾とするところである(遺著『日本文法』129―30ページ参照)。氏に次いで、さらに数歩を進めしっかりした立場を保持して名透な学説を立てられたのは今の東北帝国大学教授文学博士山田孝雄氏で、ほとんど暗中模索の状態にあった私の目に一条の光明を与えたものは実に私が明治四三年ごろに読んだ博士の名著『日本文法論』であったので、私は終生無限の感謝を未見の恩師山田孝雄博士にささげるであろう。博士の『文法上の時の論』(同書413―42ページ)には今日の私の首肯しかねる点もないではないが、しかもなお金玉の文字というべきである。」(35頁)
5
中本正智(1980)は、宮良当壮の講義で、本名の正式名は「ミヤラトーソー」ではなく「みやながまさもり」であることを述べている。
6
細江逸記(1932)序の前の扉の箇所には、国学者である本居宣長の『玉勝間』を引用して、学問の心得を示しているのが特徴的である。
「扉」表
なすべきことはみずからなせとおしえたまいしなきはうえのみたまにささぐ  いつき
「扉」裏
われにしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむがへのいできたらむにはかならずわが説にななづみそ。わがあしきゆゑをいひてよき考へをひろめよ。すべておのが人ををしふるは道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも道を明らかにせむぞわれを用ふるにはありける。道を思はでいたづらにわれをたふとまんはわが心にあらざるぞかし。(玉勝間)
細江逸記(1933)の扉の箇所には、国学者の鹿持雅澄のことばを引用している。これは、学問研究への基本的態度を示したものであると言える。
「扉」
すべて世にすぐれたる人の言ひたる事に委ねて強ひて心を用ひずして考へ正さずおきてはつひにそのひがめるすぢも直らずしてやみぬべきをいとほしみおもひてやむことなく言へるなり
                                 鹿持雅澄
7
細江逸記は東京外国語学校の出身であるから、岡倉由三郎が高等師範学校教授兼東京外国語学校教授の頃の学生であると思われる

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