岡倉由三郎の二つの顔

国語と英語−二つの顔の岡倉由三郎−

岡倉由三郎は、「岡倉天心の弟」「英語教育」「NHK初代英語講座講師」として知られているが、上田万年とともに仙台で日本で初めての方言調査を実施し、東京帝国大学選科修了の後は、『日本語学一班』を著し、ジャパンヘラルド社の記者、京城日本語学校國學院、府立四中、府立一中、鹿児島造士館などを経て、1896年に東京師範学校に落ち着いたという経歴がある。その間は、国語・英語の兼務であった。岡倉由三郎門下の福原麟太郎(出版年代未詳)は、岡倉由三郎について以下のように述べている。

チェームバレンの弟子で有名な人々は岡倉由三郎、この人は英文学としてはディクソンに学んだが、言語学者国語学者としてはチェーンバレンの弟子である。それから上田万年チェームバレンの『日本語学』の序文には、岡倉、上田両氏を日本言語学の花と呼んでゐる。それから芳賀矢一、佐々木信綱などある。即ち英学がチェムバレンに於て国語国文学者を育てたこの明治中期から活動を始めてゐることになる。(pp.16−17)

博言学者・国語学者としての岡倉由三郎と、英語学者としての岡倉由三郎と別に論じるのではなく、国語と英語を二つの知として同時に論じたのは山口誠(2001)である。山口誠(2001)は、岡倉由三郎は上田万年とともにチェンバレンの高弟として学んだ「博言学」に注目している。つまり、上田万年と岡倉由三郎がチェンバレンから教わったものは、「博言学」であったが、後に上田万年がドイツ留学で「言語学」を学び、「国語学」を創出していく、「博言学」から「言語学」へという言語研究の移行を「ことば」のマイナーチェンジに留まらず、「前近代的帝国主義から近代的な帝国主義への移行と同調した知のアップグレードであり、国民国家システムに基づく地勢学的再編の潮流の一部として理解されるべき転換である」(p.70)と主張している(注)。それと同時に、ドイツ」青年文法学派の洗礼を受けた理論志向の上田万年と比較して、博言学の方言調査を行う岡倉由三郎のほうをチェンバレンのよき弟子とし、上田万年の欧州留学を境に上田万年と岡倉由三郎との決定的な差と位置付けている。
1899年に上田万年と岡倉由三郎は、保科孝一新村出藤岡勝二白鳥庫吉とともに言語学会(上田万年の創設)の機関紙である『言語学雑誌』を発刊した。ここまでは明らかに、博言学者・国語学者としての岡倉由三郎である。この後、上田万年に送り出されて3年間の官費留学を経て、「国語」から「英語」へと転身することになるのであるが、山口誠(2001)は、この時にロンドンで夏目金之助と出会っていることに注目している。つまり、夏目金之助はイギリスで「英文学」を学ぶことを選択したため、岡倉由三郎は上田万年から「英語」と「英語教授法」を学ぶことと限定された点である。帰国後に「国語学」グループにいた岡倉由三郎は英語教育の指導者として転身することになったのである。夏目漱石と岡倉由三郎とは、ともにディクソンの弟子でもあるが、山口誠(2001)は留学後はきれいな対照となっている点を指摘している。つまり、留学中もロンドンで神経症になりながら下宿先で英文学の書籍類を読みふけった夏目漱石に対して、ロンドンに馴染み多くの言語学者と交流し、ロンドン大学での社会学講座でのちに『日本精神(The Japanese Spirit)』にまとめられる講演まで行っている。さらにロンドンで二人の眼を捉えた共通項として、「英文学」を指摘している。つまり、夏目金之助は帰国後にラフカディオ・ハーンの後任として「英文学」を講義したが、岡倉由三郎が目的とした「英語」と「英語教育教授法」ではなく「英文学」を教える「英語教育」であったと指摘している。この「英文学」は、「ヴィクトリア朝の社会規範を体現する特殊な知」(p.77)と述べている。
特に指摘されていないが、夏目金之助は当初、二松学舍で漢詩・漢文を学び、晩年再び漢詩創作を行っていた点も注目してよいであろう。岡倉由三郎は当初、「国語学」のグループ所属した国語・英語の教員であるが、後に英語教育に転身したが、そのまま「国語学」グループに戻ることはなかったことも対照的であることを指摘しておきたいと思う。