岡倉由三郎の再評価

2017.12.9(土)
二松學舍大學人文学会第116回大会
発表資料(於二松学舍大學)

日本語学史・国語教育史における岡倉由三郎の再評価

國學院大學兼任講師
大東文化大学非常勤講師
岡田 誠

はじめに

岡倉由三郎は、英語教育の世界では著名な人物である。しかし、そのスタートは日本語教師・国語教師である点は重要である。その師にあたるチェンバレンから受けた影響と、日本語教師・国語教師・英語教師を経ている経験からくる連携意識という側面が強く出ており、その日本語学の著作にも個性が表れている。現代の英語教育でも話題となる国語力について多くの発言をしており、日本語学史・国語教育史の上でも再評価される人物であると考え、以下にその再評価を試みる。


1.国語と英語−二つの顔の岡倉由三郎−

1.1岡倉由三郎と国語・英語

岡倉由三郎(1868−1936)は、「岡倉覚三(天心)(1863−1913)の弟」「英語教育」「東京放送局(現在のNHK)初代英語講座講師」、「『新英和大辞典』(研究社)」「『英文学叢書』全100巻(市河三喜と共編)」として知られているが、上田萬年とともに仙台で日本で初めての方言調査を実施し、東京帝国大学選科修了の後は、『日本語学一斑』を著し、ジャパンヘラルド社の記者、京城日本語学校國學院、府立四中、府立一中、鹿児島造士館などを経て、1896年に東京師範学校に落ち着き、立教大学では没年まで教鞭をとっていたという経歴がある。その間は、国語・英語の兼務であった。高等師範学校を持してからは58歳以降はラジオ講座や社会人講座を担当している。岡倉由三郎門下の福原麟太郎(1946)は、岡倉由三郎について以下のように述べている。

チェームバレンの弟子で有名な人々は岡倉由三郎、この人は英文学としてはディクソンに学んだが、言語学者国語学者としてはチェーンバレンの弟子である。それから上田万年チェームバレンの『日本語学』の序文には、岡倉、上田両氏を日本言語学の花(注1)と呼んでゐる。それから芳賀矢一、佐々木信綱などある。即ち英学がチェームバレンに於て国語国文学者を育てたこの明治中期から活動を始めてゐることになる。(pp.16−17)

清水恵美子(2017)は言語学・英語教育に生きた岡倉由三郎と岡倉覚三(天心)とを比較して対照的に記述している。それに対して、博言学者・国語学者としての岡倉由三郎と、英語学者としての岡倉由三郎と別に論じるのではなく、国語と英語を二つの知として同時に論じたのは山口誠(2001)である。山口誠(2001)は、岡倉由三郎は上田萬年とともにチェンバレンの高弟として学んだ「博言学」に注目している。つまり、上田萬年と岡倉由三郎がチェンバレンから教わったものは、「博言学」であったが、後に上田萬年がドイツ留学で「言語学」を学び、「国語学」を創出していく、「博言学」から「言語学」へという言語研究の移行を「ことば」のマイナーチェンジに留まらず、「前近代的帝国主義から近代的な帝国主義への移行と同調した知のアップグレードであり、国民国家システムに基づく地勢学的再編の潮流の一部として理解されるべき転換である」(p.70)と主張している(注2)。それと同時に、ドイツ青年文法学派の洗礼を受けた理論志向の上田萬年と比較して、博言学の方言調査を行う岡倉由三郎のほうをチェンバレンのよき弟子とし、上田萬年の欧州留学を境に上田万年と岡倉由三郎との決定的な差と位置付けている。岡倉由三郎(1935a)では、国語と外国語との両方を極めたいという気持ちが幼少時から強く、チェンバレンに惹かれて入学し、日本語と外国語との連携意識の気持ちの強さが以下の記述から読み取れる。

高等学校即ち当時の大学予備門から大学侵入を正式にやれば、いくら早くても更に五ケ年の廻り路をする必要があった。選科生として入学すれば、その面倒のない上に、本科生には許されない、学科の選択授業が、和文学科と博言学科との両科に跨いで出来るのである。僕はもう何の躊躇もなかつた。学びたい学科が学べればそれで善かつたのである。

1899年に上田萬年と岡倉由三郎は、保科孝一新村出藤岡勝二白鳥庫吉とともに言語学会(上田万年の創設)の機関紙である『言語学雑誌』を発刊した。ここまでは明らかに、博言学者・国語学者としての岡倉由三郎である。この後、上田萬年に送り出されて3年間の官費留学を経て、「国語」から「英語」へと転身することになるのであるが、山口誠(2001)は、この時にロンドンで夏目金之助漱石)と出会っていることに注目している。つまり、夏目金之助はイギリスで「英文学」を学ぶことを選択したため、岡倉由三郎は上田萬年から「英語」と「英語教授法」を学ぶことと限定された点である。帰国後に「国語学」グループにいた岡倉由三郎は英語教育の指導者として転身することになったのである。夏目漱石と岡倉由三郎とは、ともにディクソンの弟子でもあるが、山口誠(2001)は留学後は対照的となっている点を指摘している。つまり、留学中もロンドンで神経症になりながら下宿先で英文学の書籍類を読みふけった夏目漱石に対して、ロンドンに馴染み多くの言語学者と交流し、ロンドン大学での社会学講座でのちに『日本精神(The Japanese Spirit)』にまとめられる講演まで行い、さらにロンドンで二人の眼を捉えた共通項として、「英文学」を指摘している。つまり、夏目金之助は帰国後にラフカディオ・ハーンの後任として「英文学」を講義したが、岡倉由三郎が目的とした「英語」と「英語教育教授法」ではなく「英文学」を教える「英語教育」であったと指摘している。この「英文学」は、「ヴィクトリア朝の社会規範を体現する特殊な知」(p.77)と述べている。
山口誠(2001)では指摘されていないが、岡倉由三郎(1936)では、文部省からの電報の文面に「夏目、精神に異状あり、藤代同道帰国せしむべし」を受け取ったが、文人にありがちなハルシネーション(統合失調症の一種)であり、特に問題ないため、夏目金之助の知らないことろで処理しておき、夏目金之助は何も知らずに任期を終えて帰国したことが記されている。他に、夏目金之助は当初、二松学舍で漢詩・漢文を学び、晩年再び漢詩創作を行っていた点も注目してよいであろう。岡倉由三郎は当初、「国語学」のグループ所属した国語・英語の教員であるが、後に英語教育に転身したが、そのまま「国語学」グループに戻ることはなかったが、晩年の岡倉由三郎(1933a・1933b・1933c・1934a・1935d)に見られるように、国語修養の重要性と日本語・日本文学を意識しており、夏目漱石漢詩文と同様に、その出発点である国語教師に回帰していたことを指摘しておきたいと思う。
また、清水恵美子(2017)は、岡倉由三郎が1902(明治35)年に34歳での欧州留学の年は兄の岡倉覚三(天心)はインドにおり人生の転機を迎えていた点(ここでタゴールと交流してThe Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan『東洋の理想』1903年を執筆)、また岡倉覚三が1886年に23歳で留学したのと比較して遅い点や、岡倉由三郎は最初の1年はロンドンにいて音声学の資料を収集していたが、1904年6月24日から7月13日までジェノヴァに滞在した際にキヨッソーネ美術館の日本コレクションを整理している点に注目している。そして巡歴を終えて、1905年にロンドンで“The Japanese Spirit”と題する講演を行ったと述べている(pp.15−24)。そして、岡倉覚三の二度に渡る挫折(東京美術学校職の辞職と日本美術院の経営破綻)と、岡倉由三郎の東京高等師範学校に就職してからの安定性とを描いている。「兄は美術、弟は言語という異なる領域を拠点としたが、二人とも『日本』の源流を『アジア』に位置づけ、それを拠り所に『日本』の文化・思想を世界に発信していった。由三郎は、『日本』文化の特徴を『東洋』の精神的価値、特に禅とのつながりの中で記述しようとした。覚三は、古来日本人が異文化の衝撃に出会うたび、古きものを犠牲にせず、新しいものを採択することを繰り返し行ってきた歴史の連続性と精神性から『日本』の近代を捉え直した」(p.240)と述べている。
このように岡倉由三郎は、兄の岡倉天心(覚三)との対照、夏目漱石との対照、上田萬年との対照、さらには岡倉由三郎の博言学・国語学の顔と英語・英語教育の顔という、多様な比較ができる点で興味深い人物であると言える。英語力という面では、太田雄三(1995)が以下のように述べている。

1861年から前に2、3年、後に4、5年くらいのびる合計10年ぐらいの期間に生まれて、高等教育を受ける機会に恵まれた人々が、実は近代日本で最も英語(または他の欧語)を深く身につけたグループであったと思われるのだ。彼らを本書では仮に、「英語名人世代」と名づけることにする。「英語名人世代」は高等教育を受けた時期を基準にして、「明治8(1875)年ごろからのほぼ10年間の期間に高等教育を受けた人々」というように言い直してもよいかも知れない。(p.74)

この太田雄三(1995)のいう「英語名人世代」に、岡倉覚三、岡倉由三郎は該当し、岡倉由三郎はその最後の世代に属するのである(注3)。
福原麟太郎(1969)を参考に岡倉由三郎の著作をもとに、その活動をまとめると、以下の四期に分類できる。

第一期 音声学・国語学の時期  明治23(1890)年−明治35(1902)年
第二期 英語教育の時期     明治38(1905)年−大正11(1922)年
第三期 英文学の時期      大正11(1922)年−昭和7(1932)年
第四期 基礎英語の時期     大正14(1925)年−昭和11(1936)年

この中で、明確に分けることができるのは、第一期と第二期との間に留学、第四期は東京高等師範学校を退職である。第二期と第三期、第三期と第四期との移行期間の間に、明治42年に渡米、昭和6年に渡英しているため、3回の外遊は、そのたびにごとに新たな展開をしていることがわかる。外遊のたびに新たな視野を獲得していったことも感じ取れそうである。

1.2岡倉由三郎の「日本語学」「博言学」「言語学」の意識

岡倉由三郎の日本語学関連の著作は、外国語との比較を意識しているため、以下のように「日本語」となっている。

岡倉由三郎(1890)『日本語学一斑−一名比較博言学−』明治義会
岡倉由三郎(1891)『日本新文典』冨山房
岡倉由三郎(1897)『日本文典大綱』冨山房
岡倉由三郎(1901)『発音学講話』宝永館書店
岡倉由三郎(1901)『新撰日本文典 文及び文の解剖』宝永館書店
岡倉由三郎(1905)『発音学講話』友朋堂書店
岡倉由三郎(1905)『新撰日本文典 文及び文の解剖』有朋堂書店

現在では「国語学」を「日本語学」と呼ぶことが一般化しているが、すでにその意識があると考えることができる。山口誠(2001)は、チェンバレンと岡倉由三郎を「博言学」、上田萬年のものを「言語学」としているが、岡倉由三郎の著作で『応用言語学十回講話』があるように、後には「博言学」ではなく「言語学」という名称を使用している。引用されることのない文献として、國學院大學蔵(出版社不明)で岡倉由三郎の手になる『言語学』という著作がある。この著作もまた、音声学が中心となっているものであるが、その「はしがき」には、どのように「言語学」と「博言学」を考えているのかがわかる記述がなされている。以下のその記述を引用してみる。

言語の発生、成熟、衰亡、等ことばに就いて所謂、生老病死の一切の有様を調べ、其成立ちに関しての主義法則を定めるのが、言語学即ち比較博言学の主要の務めである。この任務を尽す為には、勿論、成るべく多くの国語を取り調べて、充分固陋の見解に陥らない様に努めなければならぬが、・・〈中略〉・・言語学者の目的は人が思想を包むに用ゐる言語其ものの性質を調べるのが主眼で、中に包んである思想の尊卑や醜美には一更に眼を掛けぬ。・・〈中略〉・・自身では其境遇に応じて一つなり二つなり三つなりの国語を学んで、其国語の上に就いて発達変遷等の跡を能く気を止めて調べると同時に、言語の発達変遷等の様を一般の国語に徴して概論した書物を読み、・・。
(「はしがき」)

この記述からわかるように、岡倉由三郎の意識の中では、「博言学」と「言語学」とは同じものであると考えられる。岡倉由三郎はイギリス、フランス、ドイツで、リップマン、ルスロー、ブランドルなどから学び、主に音声学を資料を収集したのに対して、上田萬年はドイツ・フランスで学んでいるということも「言語学」の捉え方の違いになっているようにも見える。実際、上田萬年の行った講義ノート(『上田万年 言語学新村出による筆録)を見ると、その構成は大きく異なる。その点については、柴田武(1975)が、ベルリン大学で学んだガベレンツの著作の影響を指摘している。齊藤一(2006)も、岡倉由三郎が無批判に西洋の言語学を受け入れることはしない点を指摘している。そのため、山口誠(2001)の指摘するチェンバレンと岡倉由三郎が「博言学」で、留学を経た上田萬年が「言語学」であるという二項対立的な見解ではなく、むしろ、学んだ環境と思索の違いではないだろうか。京極興一(1993)は、岡倉由三郎の『応用言語学十回講話』を引用し、「関根正直上田万年の説いた国語・国家・国民の三位一体観に対して、「国語」の概念を問い直し、注意を喚起しているのである。」(p.73)と述べてが、すでに『言語学』で論じられている。また、岡倉由三郎の著作の「まえがき」には上田萬年の著作を参考文献として紹介している。上田萬年の「言語学」は体系的であり、論文は専門的であるが、岡倉由三郎は「話しことば」「音声学」「標準語」を根底に据え、国語教育を意識しながら論じるという違いが出ている点も注目してよいと考える。


2.国語教育と英語教育との連携

1905(明治38)年に帰国後の岡倉由三郎は、精力的に発表していた国語学の分野の発表は行わずに、「英文学」と「英語教育」に専念するようになった。東京高等師範を退職したのちは、ラジオ講座でも知られるようになり、芳賀綏(1977)では、ラジオのマイク時代の名手として、語学派、修養派、時事解説派に分類し、語学派の代表として岡倉由三郎をあげている。
惣郷正明(1990)は、岡倉由三郎が変則英語について批判していることを述べている。岡倉由三郎以前には、英語名人の時代として、ディクソンに学んだ辞書で知られている斎藤秀三郎と、留学して英会話に堪能であった神田乃武がいるが、文法教科書や辞書などを編纂しているが、教授法については記していない。岡倉由三郎には、英語教授法として代表的な著作物として以下のものがある。

岡倉由三郎(1894)「外国語教授新論 附国語漢文の教授要項」『教育時論』第338号―340号
岡倉由三郎(1910)「英語教授法一斑」『中等教育教授法』(槇山栄次扁)中等教科研究会
岡倉由三郎(1911)『英語教育』博文館

特に岡倉由三郎の『英語教育』は、「英語教授法一斑」を修正・発展させたもので、英語教育の世界では必読とされ、英学史や英語教育の先行研究では必ず引用されるものである。高梨健吉(1975)は、以下のように『英語教育』を評価している。

題名を「英語教授法」ではなくて「英語教育」としたところも、その抱負がうかがわれる。この本は久しく英語教育者の必読書であり、今読んでも教えられるところが多い。『英語教育』の中で特に英語教師の胸を強く打つのは、英語教師はいかにあるべきか、を説いた一章である。外国語教師は、学力の修養や教授法の訓練を積むことはもちろん必要であるが、個人的な修養も欠かしてはならない。(p.151)

斎藤浩一(2012)は、「英語教授法」と「英語教育」との違いを岡倉由三郎は認識しており、「英語を使った教育」と解釈し、『英語教育』を「人間教育・教養」宣言書と捉えている。

また、中村捷(2016)が英語教授法の名著として取り上げた以下の4冊の中にも『英語教育』は入っている。

外山正一(1897)『英語教授法 附正則文部省英語読本』大日本図書株式会社
スウィート(1899)『言語の実際的研究』
イェスペルセン(1904)『外国語教授法』
岡倉由三郎(1911)『英語教育』博文館

留学以前に執筆された『外国語教授新論』では、国語に力を入れていたこともあり、国語との連携という側面が強く出ている。『英語教育』の中でも母国語の重要性(第3章)、国語のアクセントの特徴についての記述(第4章)に見られる記述が特徴的である。

なお、一言述べておきたいことは、外国語の教授は、母国語の知識の堅固にできて居ない者には、甚だ困難を感ずると云ふことである。是は中等学校の英語教授に経験ある諸君が、切に感ぜられる所と思ふが、英語を教授しても、充分に了解し得ない生徒は、多くは母国語の知識が不正確なものである。若し彼等が母国語の書方、綴方、読方及び構造等に一通り熟して居たなら、外国語の呑み込みも、余程容易だらうと思はれる。実際母国語の知識が、精密豊富でなるものは、語学の進歩が著しいと云ふことは、学者の間では定説である。されば現今の小学校では、専ら国語の知識を正確にし、其運用に熟せしむる様、力を注ぐが妥当であつて、それがやがて他日外国語を修得する根底となるのだから、間接に外国教授の効果を大ならしむ所以である。況んや今日の如く、小学校の国語教授の不充分なる事が、屡、非難せられる時代では、一層いっそう努力すべきであつて、其他を顧みるべき時期では、固よりない。(pp.15−16「第3章 英語教授を始むる時期」)

アクセントには二種類ある。一は、支那の四声の如き、主に音の高低を意味する、音楽アクセント、又た今一つは力の強弱を主とする、即ち、英語のアクセントの如きものである。此の両者は勿論画然分離すべき性質のもので無く、高低を主としても強弱が伴ひ、強弱を主としても高低が矢張伴ふのである。我国語の如きも、精微なる器械で測れば、アクセントの有無によつて、高低の差と強弱の差とが生じ、アクセントの有る節と無き節とは、高低が、音楽にて云ふ半音だけの差がある。しかし、高低強弱のどちらかと言ふと、我国語は、英語と同じく、アクセントの強弱を主とする側に属するのである。(p.98「第9章 発音及び読方」)

現在の小学校の英語教育を想起させる記述であり、国語力の重要性を説いている。また、ロンドンで音声学の資料を集め、『英語発音カード』なども出版するほど発音を重視したことも反映されている。『英語教育』の「第14章 教師に対する要求」でも教師は発音学と言語学の知識を備えていることの重要性を説いている。この記述からは、岡倉由三郎は、日本語のアクセントをピッチ(高低)アクセントではなく、ストレス(強弱)アクセントに所属させている。これについて、杉藤美代子(2012)は、先行研究として日本語も外国語の場合と同様に、高さだけではなく、強さも考慮しなければならない指摘を行ったものとして、千葉勉(1935)、ネウストプニー(1967)のものをあげている。しかし、すでに岡倉由三郎(1911)が、それ以前に24年も早く指摘している点は注目してよいであろう(注4)。
英語教育の分野では非常に有名な『英語教育』であるが、『外国語教授新論』は引用されることが少ない。国語教育の分野では石井庄司(1958)、国語教育と英語教育との連携の分野では柾木貴之(2010)が、それぞれ岡倉由三郎の『外国語教授新論』をとりあげている。1905年の留学前の著作で英語と国語との兼務の時期でもあり、国語についての論が多く見られるのが特徴的である(注5)。この論文は「解題」「本論 外国語の教授法を論ず」「余論 国語漢文の教授法を論ず」の三つから構成されている。柾木貴之(2010)は岡倉由三郎の英語と国語との連携の継承者は石橋幸太郎、英語教育の継承者は福原麟太郎と位置づけている。この『外国語教授新論』には、以下のように国語教育との連携の記述が多く見られる。

今の外国語教授法に於ける欠点は固より一にして足らずと雖も要するに国情に由りて定めたる一定の方法なく徒に旧来の手段を墨守して殆ど之が是非をだも考ふる事をせず且つは国語漢文の如き必ずや之が基礎とし用ゐらるべき者と更に連絡連携の道を設けざるが故に孤力振ふに由なきに起因せずんばあらざるべからざるなり(p.6)

今日の如く二者孤立し甚だしきに至りては相敵視するの傾きあるは生徒の不利益云ふべからざれば一日も早くかかる障壁を徹し去り最初の外国語は専ら国語を基礎とし進むべく第二の外国語の授くるの必要ある時は国語は勿論既に学びたる外国語を基礎とし進むべししかする時は学業進むに連れ修学の労次第に減じかくて得たる智識能く其処を得るを以て之が運用益自由なるを得んとは是れ余が力を極めて読者の首肯を得んと努むる所たりとす(p.22)

小学校に於ける国語科は雅文の初歩を含むべしと雖も重に俗語使用法を規則正しく教へ込み卒業に至るまでには規則に由り之を運用せしむる様仕組むべし言ひ換ふれば無味ならぬ方法を用ゐて俗語の語法を授けよとなり(p.45)

中学に於ける国語科は成るべく実用を旨とし漫りに高尚に流れぬ様にすべし読本の如き其材料を探るに古文または擬古文の如き語句の耳遠きものよりせんとするは今日の弊風なり(p.47)

学校は決して生徒の素修を予想すべからず全くこれなきものとして初めより漢文を教ふべきなりこれを成すには生徒が兼て小学に得たる漢字の知識を基礎とし短く易きより長く難きに及ぶの順を取るべし(p.49)

漢文科は成るべく国語科及び外国科と連絡し互に提携を努むべし其教師たる者は教師養成所の卒業生若しくは之と同資格たるべき事論を俟たず(p.49)

このように、漢文も外国語としてみなし、外国語・漢文・国語との連携を説いているのが特徴的である。『外国語教授新論』には、1905年の留学前の岡倉由三郎の英語・漢文・国語との連携の思想がよく示されていると言えよう。それに比べて『英語教育』では英語に専念したこともあり、国語の記述が大幅に減少しているが、国語力の重要性は時折示している点は変わらない。
石井庄司(1958)は、国語教育を以下の六区分に分け、「基本計画期」に岡倉由三郎『日本語学一班』『外国語教授新論』、上田萬年『国文学』、落合直文『日本文典』を取り上げている。

1創始期
2基本計画期
3整備期
4発展期
5拡充期
6成熟期

岡倉由三郎の『外国語教授新論』には国語教育観が出ているが、石井庄司(1958)は、「本書は、外国語の教授を本論として、国語漢文については、やや側面的な感じがなかったわけではないが、当時における国語教育の傾向をうかがうことができると思う。それは、ひじょうに国語的であろうということである」と評している。
岡倉由三郎の場合、留学前後で国語教育から英語教育へと路線を変更はしているものの、国語教育では『外国語教授新論』、英語教育では『英語教育』という分け方が行われているが、国語と英語との連携意識が強いため、『外国語教授新論』と『英語教育』との両方の記述を見ておくことが必要であろう。  
小森陽一(2000)の報告にあるように、作文指導の過程で英語を学び始めたために、文章や国語力が落ちる現象が起きる事例も多くみられることから、日本語と英語との特徴を説明する必要性を強調している(pp.96−100)。岡倉由三郎の国語と英語との連携意識は、重要であるとともにその嚆矢として国語教育学史の上でも重要ではないだろうか。


3.朝鮮での日本語教育

日本語教育史の中では、岡倉由三郎は1891年から1893年にかけて、「日語学堂」で初めて朝鮮での本格的な日本語教育を行ったことでも知られている。岡倉由三郎の行った日本語教育の具体的な教材やカリキュラムなどの実態は不明であるが(注6)、教師が学習者の母語を十分に理解していることが前提となっているオレンドルフ教授法を使用し、朝鮮語を用いた間接法であったことが、岡倉由三郎(1894a)「朝鮮国民教育新案」の以下の記述から垣間見える。

余は、去る明治二十四年より朝鮮政府に聘せられて、日本語の教師と為り、同二十六年に至るまで、該国に在て、語学の教授に従事したりき。初め余の学生に接するや、自ら一言一動きを慎み、専ら感情上より彼等を感発せしめんと務めたり。而るに、彼等は鞭撻を加へらるるに慣れたるにや、余の用意は無効に属せしのみならず、反て余を以て彼等を崇敬するものの如く誤想するの傾向を生ぜしめたり。因て方針を改め、余は彼等に対して、一も忌憚する所なく、叱正励戒したりければ、彼等、始て余に順従せり。亦以て学生の一斑を観るに足る可き歟。・・〈中略〉・・朝鮮の仮名文字は、今より四百五十年前世祖皇帝の著作と称するものあり、其何人の作に係るかは今保証し難しと雖も、人若し文字の可否を問ふものあらば、之を以て世界第一の文字と為すに躊躇せず。・・〈中略〉・・余の担任せる日本語学校に徴するに、三ヶ月目にして通弁を廃するを得たり。一年半にして日本新聞などを読むもの数人を出せり。(日本の卑近なる俗語は未だ解せざるものも多かりき)三年にして通弁、差備官等数人を出すに至れり。(余はオレンドルフの教授法を用ひたり)依て朝鮮の為に計るに、外国語は日本語を以て最も利ありと為す。

吉岡英幸(1997)や黄雲(2011)は、岡倉由三郎に朝鮮語を教えたチェンバレンとの出会いが、日本語教育者としての岡倉由三郎を生み出したことを論じ、朝鮮から帰国した翌年1894(明治27)年に書かれた岡倉由三郎の『外国語教授新論』を引用している。吉岡英幸(1997)は、福井久蔵(1953)の上田万年と岡倉由三郎とがアストンの『日本文典』の翻訳担当者として名前があがっている点や、岡倉由三郎からアストンへの寄贈の『日本文典大綱』の書き込みなどから、チェンバレンとアストンとの影響、台湾で山口喜一郎が行ったよりも8年はやく伝統的な訳読方式を脱した日本語教育を実践した人物である点を論じている。
岡倉由三郎は東京帝国大学のあとは、朝鮮語琉球語を研究し、国語学から音声学、教授法に入り、英語教育に移り、英文学を手掛けたが、その初期のころは朝鮮語の研究及び朝鮮での日本語教育を行っていた。そのためか、その時機の岡倉由三郎(1893a・1893b・1893c・1894)は連続して朝鮮語に関する著作を発表し、その朝鮮語の研究及び「諺文」、吏道、諺文、音韻、文法まで幅広く研究していたことに、黄雲(2011)は、高い評価を与えている。國學院大學図書館蔵の「吏道・諺文考」「字音考」は岡倉由三郎からの寄贈の抜刷があり、岡倉由三郎の書き込みと思われる朱筆と鉛筆書きが加えられている。
帰国後の岡倉由三郎(1897・1900)は、精力的に日本語学に関連する事柄を発表しているが、岡倉由三郎(1935a)から、東京外国語学校教授の時期も朝鮮語を担当していたこともわかる(例えば岡倉由三郎1900には垣間見える)。そのため、日本語教育期、日本語学期、英語教育・英文学期の三つの時期に区分することも可能であろう。また、日本語教育の経験もあるためか、岡倉由三郎(1933)では、日本語教育史では知られている土居光知(1933c)『基礎日本語』を取り上げている。『基礎日本語』は、朝鮮、台湾、満州、ヨーロッパ、アメリカで日本語を教える上で必要最低限の日本語基礎語彙を1000語に選択したものであり、そのことを絶賛して「Basic English」に資するものがあると述べている。日本語教育と英語教育との連携の発想への関心の表れであるとみてよいと考えられる。


4.教授法−オレンドルフとパーマー−

岡倉由三郎の教授法は、日本語教育・英語教育ともにオレンドルフのものを用いていることが、その論文や著作物などに記されている。はやいものとしては、岡倉由三郎(1894)『外国語教授新論』の以下の記述などがある。

尚今一つこれに勝りたる策は文法と云ふ別の科目を廃して会話の時間に於て一方より材料を授くると共に他の一方より其中に存する法則を与へ両々相携へて相互の進歩を促さしむるにありこは彼のオルレンドルフの外国語教授式の如きを本邦語の性質に由り大に斟酌を加へて実行するに於ては仮令へば食餌に混ずるに薬を以てするに其苦きを知らずして其効を享くるが如く知らず識らず無味の規則を学ばしむの益あり・・〈中略〉・・初学者には嚮に云へるオルレンドルフ、又はコンフォートの如き式を以てことばの組織上似寄りたる語句文章の使用に慣れしめ生徒をして其学びたる一定のことばづかひに拠り之になづらへて自らこれと同類のことばづかひを為す事を得せしむる様努むべきなり(pp.34−36)

この記述をみると、会話の中で文法を入れておくことを示しており、実用と文法とを考慮していることがわかる。オレンドルフのものはドイツを中心に広まったものであり、平高史也(1992a)によると、コミュニケーションは考慮されず、音声言語には配慮していなかったため、19世紀以降の往来の活発化に伴って実用性が高まってきた中で登場したものがオルレンドルフであるという。特徴としては、文法訳読方式の色彩は感じられるが、会話にも配慮してある点が特徴的である。金沢朱美(2006)は、井上勤(紅林員方)訳(1888)『六月卒業英学自在』が出版され、この本がオレンドルフの普及に役立ったことを指摘し考察している。また、金沢朱美(2007)では以下のように述べている。

オレンドルフ教授法は明治の時代において、学習者の言語を知悉し、翻訳や文法と会話に含まれた四技能の総合力の促進のために教授法を研究し、工夫していた学者であり、かつ実践者であった岡倉には、斬新な教授法であったと結論できる。また、旧韓末における、オレンドルフの文法訳読教授法が尊重されたのは象徴的でもあるといえる。

これに対して、平賀優子(2008)は、「訳読法」「G-TM(Grammar-Translation Method)」「文法・訳読教授法」という区分を明確にしていない状態を批判し、『六月卒業英学自在』の翻訳は、日本流にアレンジされたものであることを述べている(注7)。
平高史也(1992b)は、岡倉由三郎の指摘の外に、外山正一(1897)『外国語教授法』の「如何なる教課書をヲ用フルカト云フニ。極ハメテ訓練法ヲ旨トスル一種特別ノ教課書ヲ使用スルナリ。即チ“Ollendorff’s New Method”ノ如キ」(p.7)の指摘を正しい理解として紹介している。
また、岡倉由三郎は、パーマー(1877−1949)とは対立関係にあったことは知られている。伊村元道(1994)によると、パーマーは沢柳政太郎の招聘でロンドン大学の音声学の講師であったパーマーを英語教育研究所所長(のち語学教育研究所)として招聘したが、1923年にパーマーが来日した際、岡倉由三郎が出迎えた際に“You are teaching the wrong thing in the right way.”(寺西武夫『英語教師の手記』)と語ったという。伊村元道(1994)はパーマーが嫌われた理由を以下の5点にまとめているが、岡倉由三郎の門下の福原麟太郎によると、教養主義の点ではでパーマーと対立したが、小川芳男のようにパーマーのオーラルメソッドに好意的な研究者もいたそうである。

1英語敵視の時代性
2音声言語の押し付け
3日本の英語教育の伝統を十分に評価しない。自分で系統立てて新しい用語で呼びたがる傾向。
4英語を能率的に学ばせるかに関心事がある。目的論や教育論には興味がない。
5実践的なエネルギッシュなタイプで模範授業などで率直に批判する人柄(戸川秋骨「ラジオの声は不快な声」・鈴木博「レコードの声は気骨・味わいもったいぶったおかしい生真面目な紳士」)

日本語教育では、長沼直兄はパーマーの影響を受け、鈴木忍はフリーズの影響を受けたことで知られている。長沼直兄(1955)は、パーマーの影響を受けたとされているが、以下の記述から、実際にはオレンドルフも評価していることがわかる。

発達の歴史から言うと従来の翻訳法ばかりでいったものが、アーンやオレンドルフにより多少日常の言葉をできるだけ反復し練習させることにより熟達させるようになってきた。(p.131)

教育学では岡倉由三郎(1936)に、ハウスクネヒトの教育学を受講していたことが記されている。ハウスクネヒトは、ヘルバルト教育学を日本で定着させた人物として知られている。村井実(1976)は、ヘルバルト教育は近代科学的なものを持ち込もうとし、心理学を活用しようした点では評価できるが、当時の科学的なものは成熟していなかった点を指摘している。また、内丸公平(2014)は、岡倉由三郎がヘルバルト教育学をハウスクネヒトから学んだ点に注目し、ヘルバルト教育学との接点を論じている。寺崎昌男・竹中輝雄・榑松かほる(1991)によると、ハウスクネヒトは厳格主義の教育であったとのことであるから、福原麟太郎が岡倉由三郎の講義の厳格さを指摘しているが、ハウスクネヒトの影響の可能性もある。むしろ、ハウスクネヒトの眼を通したヘルバルト教育であるため、ハウスクネヒトの影響と考えたほうが自然ではないだろうか。


5.標準語についての意識

上田萬年と岡倉由三郎とは、同じチェンバレンの門下であり、標準語についての論を発表している。上田萬年の「標準語に就きて」の論は引用されることが多いが、古田東朔(2000)、真田信治(2001)によると、standard lamguageの訳語としての「標準語」という名称を最初に用いたのは、岡倉由三郎であるという。岡倉由三郎(1890)『日本語学一斑』の以下の記述を引用し、標準語は外的な社会的要因によって客観的に決まる点に注目している(pp.89−90)。

社会の変動の模様により、他を悉く凌ぐに至らんには、その用ゐ来れるもの、直に標準語の位置を占め、爾余は皆、方言となり果つるの外なし。故に標準語となり、方言となるは、其思想交換の具として優劣あるが為ならず、常に、之を用ゐる者全体が、政治上の都合により、上下するにつれ、定まるものなり。

これに対して、山口誠(2001)は、上田萬年より二年早い1893年に標準語についての論「方言ノ性質及ビ調査法」を『東京人類学会雑誌』に発表している点に注目している。安田敏朗(1999)では、上田萬年と岡倉由三郎がともに、チェンバレンの講義でホイットニーのテキストで学んでいるため、ホイットニーの言語観を受けていることを論じている。
晩年の岡倉由三郎の『国語陶冶とラヂオ』『ことばの講座』などでも頻繁に「話しことばと音声」「標準語」「国語修養の必要性」についてが説いているのも特徴的である。方言調査や存続の必要性とともに、標準語による統一されることによる文化向上を説いている点では共通している。
標準語の流れの延長線上には、言文一致という問題もある。言文一致運動が知られているが、学術論文における言文一致という視点から、山本正秀(1965・1977)は上田萬年・岡倉由三郎・藤岡勝二新村出保科孝一白鳥庫吉などが主要会員である「言語学会」が中心となり、1900年2月から1902年9月まで刊行された『言語学雑誌』の重要性を指摘している。その重要性として、1901年4月号からすべての記事で口語体を採用し、「である調」「であります調」で書かれ、論文の言文一致史上先駆的であることや、「言文一致を正しく導こうとしての声援や指導の文章が多く掲載され、近代口語文体形成史上大きな役割を果たしたこと」などをあげている。


6.日本語学の著作の特徴

6.0岡倉由三郎の日本語学の著作の時代

山東功(2002)は、明治期の転換期を明治5(1872)年の学制頒布を分岐点として措定し、『明治以降教育制度発達史』(教育史編纂会編)に修正を施し、以下のような三期に区分している。

第1期 明治元(1868)年−明治4(1871)年  太政官期    国学者主導の言語研究
第2期 明治4(1871)年−明治19(1886)年  学制頒布・教育令期 洋学者主導の文法研
第3期 明治19(1886)年以降  学校令期    近代言語学の直接移入
(p.96)

この中で岡倉由三郎が日本語学の著作を発表したのは、第3期の近代言語学の直接移入の時期にあたる。山東功(2002)は、以下のように述べている。

この時期は大槻の他にも落合直文関根正直、岡倉由三郎など、数多くの学者達が文典を著しているが、それらの多くは初等教育を目的とするよりも、文法を教えるものを対象とした師範学校教授用のものである。(p.102)

岡倉由三郎の日本語学の著作としては、日本語学史の中では、以下のものがあげられる。

岡倉由三郎(1890)『日本語学一斑』明治義会
岡倉由三郎(1891)『日本新文典』冨山房
岡倉由三郎(1897)『日本文典大綱』冨山房
岡倉由三郎(1901)『発音学講話』宝永館書店
岡倉由三郎(1901)『新撰日本文典 文及び文の解剖』宝永館書店
岡倉由三郎(1905)『発音学講話』友朋堂書店
岡倉由三郎(1905)『新撰日本文典 文及び文の解剖』有朋堂書店

日本語学の分野において、岡倉由三郎について高く評価し、多くの記述を行ったのは、福井久蔵(1953)である(pp.239−243・pp.301−305)。福井久蔵(1953)は、岡倉由三郎の『日本語学一斑』『日本新文典』『日本文典大綱』『文及び文の解剖』を取り上げている。以下に福井久蔵による岡倉由三郎の著作の評価と、岡倉由三郎の序文などから、それぞれの著作の意義を考察することとする。

6.1『日本語学一斑』(1890・明治義会)

チェンバレンから日本語を外国語としてみることを教わった岡倉由三郎の書籍である。福井久蔵(1953)は、『日本語学一班』については「発音言語学方面に関する我が国最初の出版物といふべきである」(p.239)と評価した。内容は、言語学・音声学といった内容である。のちに、岡倉由三郎(1922)『英語小発音学』では以下のように振り返っている。

自分が他人の前に立つて発音の事を説いたのは今から三十二年前の昔、明治二十三年の夏の明治義会の夏期講習会の教壇の上からであつた。・・〈中略〉・・その時の主としてGeorg von Meyerの“Organs of Speech”に基づいて述べた音韻発生の理法の説明が、その年の暮れに「日本語学一斑」の第一巻「総釈の部」として出た自分の初めての著作の一要素を成し二百八頁中の四十頁を占めてゐる。今にして之を顧れば、寔に不完全なものであるにも係らず、それが本邦語で書いた最初のやや詳しい発音学上の説述として公にされたことは、当時の我国の学会がそんなものに対してすら出版の必要を認める程幼稚なものであつたことを証する好個の資料である。(序言)

6.2『日本新文典』(1891・冨山房

山東功(2002)は、岡倉由三郎の『日本新文典』を、以下のように「折衷文典」(注8)として取り上げて同列に名称を列挙している。

物集高見『日本文典』以外には、那珂通世『国語学』(明治22年)、大槻文彦『語法指南』・落合直文/小中村義象『中等教育日本文典』・手島春治『日本文法教科書』(明治23年)、大和田建樹『和文典』・関根正直国語学』・岡倉由三郎『日本新文典』・高津鍬三郎『日本中文典』(明治24年)などが挙げられよう。(p.265)

福井久蔵(1953)は、『日本新文典』については「斯界の新智識である氏の著として看過してはならぬものがある。主格を示す後置詞『の』『が』は領格を示すものから転じたと説く如き創設がある。動詞の語尾を特に、従来の型を破って羅馬字を使用した。語尾変化の五階の名称を段また言の称を改め、終止形・連体形の如く形の字に改めた。チェンバレン氏の部別数詞といつたのを媒助数詞(後に助数詞)と改め、加行佐行変格動詞を田中氏と同じく三段活用と改めた」(pp.239−240)と評価した。ローマ字については、岡倉由三郎はたいへん興味を持っていた事柄の一つであり、その反映とも考えられる。
岡倉由三郎は『日本新文典』の「読者に一言す」において、以下のように述べており、『日本語学一斑』は第一巻が音声編で第二巻が文法編であるが、第二巻が出版できずにいて、大幅に改稿したことがわかる。そのため、『日本新文典』は、改稿した『日本語学一斑』第二巻の文法編にあたることがわかる。

日本語学一斑と題したる書二巻を著し、其第一巻を明治義会より出版して、聊か比較博言学中に日本語の研究に必要なる部分を講明せしが、日本の文法に宛てたる第二巻は、ゆゑありて未だ之を世に公にするに至らず。・・〈中略〉・・蓋し此書は学校用のものとして、宗と教課の便利を計りて選述したるなれば、・・〈中略〉・・日本語学一斑第二巻の原稿の、わが手許にあるものより、多少其体裁を異にしたれど、尚其大体に於ては、おほいに従来の文法書と違ふ所あると信ず。
(「読者に一言す」)

学校用ということも視野に入れて書かれたことも反映しているため、後の『日本文法大綱』に比べると、文法などで使用されている術語は比較的理解しやすいものである。後の独創的な術語で示されている『日本文典大綱』のほうが、『日本語学一斑』の第二巻に近いのではないだろうと推測する。

6.3『日本文典大綱』(1897・冨山房

岡倉由三郎は、「はしがき」には以下のように記しており、アストン、大槻文彦芳賀矢一の名前が見える。芳賀矢一は、ドイツ文献学を学んだが、日本語文法の著作もある。文法書の著作もある。岡倉由三郎(1935c・1936)は、芳賀矢一と留学先で一緒になったときの思い出を綴っており、そのときに夏目金之助もいたことを述べている。

本書を著すに際し、参考に資せし書どもの中に、アストン氏の(A Grammar of the Japanese Written Language)、大槻氏の広日本文典などに、おふ所極めておほし。また友人文学士芳賀矢一氏は、著述の方法其他に関し、大切なるあまたの注意を与へられたり。(p.1)

吉岡英幸(1997)の調査によると、英国ケンブリッジ大学の中央図書館には、アストンが日本滞在中に収取した資料があり、見返しに「余が常に敬慕しまつれるアストン先生の御手許に謹み手て此書を呈じ候 明治三十年十二月五日 著者」とあり、ところどころ朱筆で訂正した箇所や、鉛筆の英語の書き込み見られるとのことである。
福井久蔵(1953)は、『日本文典大綱』について、「音韻門には新説がある。父音は十八箇ありといひ、その中にはngの音をも加へてある。・・〈中略〉・・単語門には各品詞を構造より単純・複合に、本原より相伝借用に、由来より本来伝来に分かち、動詞は富樫広蔭に倣ひ四韻三韻に分類し、語尾変化の名称中、已然形を実在連助形、将然形を仮定連助形と改め、敬称の上から尊敬対等謙遜語の別を立て、また叙述の上から平叙法・想察法・断定法・願望法・思惟法の姿があることをいひ、助辞を助体詞・助用詞・通助詞に分ち、詞章門には独立の詞章・隷属の詞章があることをいひ、詞章の排列に関し八則を立て、音韻分析・詞章分析・単韻分析を試みた。・・〈中略〉・・従来の係結といふ字句を避けて新しい説明を試みたり、旧い型を破って新たに文章法を樹立しようとした著者の意図は十分に買ふべきである。」(pp.240−241)とその独創性を評価している。
先行研究では、触れられていないが、文の骨格を構成する重要な要素として、受身と使役の問題がある。受身・使役については助動詞説ではなく、一語化して扱っている点も注目してよいであろう。江戸期の国学者及びアストン、チェンバレンなどは「る・らる」「す・さす・しむ」を動詞の語尾として一語化して扱うが、幕末から明治期の日本人の手になる洋式文典は、「る・らる」「す・さす・しむ」を助動詞として分離する傾向がある。これは、岡倉由三郎がチェンバレンの教えを受けただけではなく、英語と国語の教師の両方を経験したことを反映するものではないだろうか。また、朝鮮での日本語教育の経験も生かされている可能性もある。

6.4『発音学講話』(1901・宝永館/1905・友朋堂書店)

日本語学の先行研究は、管見に入るかぎり、取り上げられることのないものであるが、日本語の発音について解剖学的な見地から詳細に論じており、『日本語一斑』の発音の部の続編のような形になっている点で重要である。なお、1901年の宝永館書店のものにはついていなかったが、1905年の友朋堂書店版には附言として参考文献が記されている。この「はしがき」で岡倉由三郎は以下の記述を行っている。ここでは、近世以来の国学者流を批判し、「話しことば」と「発音」についての重要性を述べて発音の重要性を力説している。

国語の教授をば、上古文、中古文、さては近世の擬古文の読み書きの練習とばかり、狭く思ひちがへた、極めて不健康な、所謂国学者流の考は、嬉しい事に、ちかごろ日にまし衰へ、その上、言語の本体は、口ことば、特に現行の口ことばに在る事も知れわたるにつけて、其教課の根底を、発音の教練に据ゑようとする今日、この大事業に伴っておこる、大小各種の問題に対して、正確な智識を与える、発音学上の書物の、本邦語で綴ったものは、新作ものに限らず、編纂ものに限らず、また翻訳書に限らず、近く板に成つた伊澤氏の視話法の外は、未だ一部として、纏まつて世に出てをらぬとは、何と嘆かはしく、遺憾至極の始末ではござらぬか。(はしがき)

『発音学講話』について、岡倉由三郎(1906)『英語発音学大綱』において以下のように述べている。

本書の読者に嗚呼がましいが強ひても一読を薦めたく思ふは、拙著の『発音学講話』である。同書は一般の音声学の立脚点から話音の成りたちの全般を、稍細密に論じたもので、本書と併せて読めば互に相啓発するところが必ず多いと信ずる。(はしがき)

この記述から、岡倉由三郎の著作の中でも音声学の軸となるものであることがわかるため、日本語と英語にわたる音声学として重要であり、音声学に対する熱意が感じ取れる。

6.5『新撰日本文典 文及び文の解剖』(1901・宝永館/1905・友朋堂書店)

『新撰日本文典』は出版社を変えて(1901年宝永館書店・1905年友朋堂書店)いるが、目次及び内容の変更はない。
凡例では「本書の大体の結構は、之をガウ氏の英語教授書第一篇に採れる所少なからず」と記されており、英語教授と国語との連携が垣間見える。英語教授法では、オレンドルフの影響を受けていることが知られ、朝鮮での日本語教育もオレンドルフで行っているが、日本語文典ではガウの影響を受けていることがわかる記述である。また、附記には以下のように記されている。

金井保三氏は、本書の編成につき種々注意を与えられしのみならず、余がために校合の労をさへ取られたり。依りてその由を茲に特書し、同氏に対する余が深き謝意を陳ぶ。(附記)

金井保三は、日本語文法としては口語の『俗語文典』、日本語教科書としては『日語指南』の著作があることで知られている。岡倉由三郎と同様に日本語教育にも携わった人物があげられているのは、興味深い。
福井久蔵(1953)は、『文及び文の解剖』について、「著者は一とほり単文の説明を了へた後、独逸文法に於けるが如き分類法により、連体文(名詞を修飾せる節をいふ)成体文(同上の如くにして被修飾語である名詞を略するもの)連用文(副詞の如き節をなすもの)三種の附属文を説き、叙述と時相とが同一の詞で終はつてゐる独立文を連続的に連結することを述べ、次第に複雑な解文の法を以てした。・・〈中略〉・・三土氏の文典のやうに広くは行はれなかつたが、文の構造を旨とする教科用のものとしては特記に値するものである」(pp.303−305)と評価した。
特に先行研究では指摘されていないが、日本語教育での重要な要素である基本文型の意識に注目してみたいと思う。朝鮮での日本語教育の経験のあるある岡倉由三郎が、中国人留学生の日本語教育に従事した金井保三の協力を得て、基本文型として日本語を意識した可能性がある。

6.6岡倉由三郎の日本語学史での再評価

このように岡倉由三郎の日本語学の特徴を日本語学史の上で概観してみると、「標準語」「話しことば」論を推進した人物にふさわしく、音声学に熱意を持って取り組んでいたことがわかる。岡倉由三郎の音声学の基礎となる著作は『発音学講話』であることを指摘したい。日本語と英語との連携意識がよく出ているからである。
また、文法論については、師のチェンバレンの影響だけではなく、日本語教師、国語教師、英語教師の経験が盛り込まれた内容であることがわかる。いわば、日本語教育、国語教育、英語教育の連携意識が強く感じられる日本語学の著作であると言え、その3つの連携意識の嚆矢として、日本語学史の上で再評価したいと思う。


7.岡倉由三郎の日本語と英語との継承−細江逸記と福原麟太郎

岡倉由三郎の日本語学は、朝鮮に赴任し日本語教育に従事した時期から欧州に留学するまでの時期に多くの著作を示している。その後、英語教育・英語学などに従事するが、絶えず、その根底には日本語を基盤とした教養としての英語という意識が強く反映されている。また、絶えず音声学を第一としており、英語発音カードも開発するほど、音声を重要視しているが、それは日本語の音声にも伺うことができる。
岡倉由三郎の高等師範学校での高弟として福原麟太郎がいる。福原麟太郎が多くの日本語のエッセイを多く書いたのは、晩年の岡倉由三郎(1934b)『呉岸越勢集』にまとめられているように多くのエッセイを書いた影響だけではなく、岡倉由三郎(1933b・1935d)に見られるような、岡倉由三郎の日本文学と英文学の連携意識も継承していると考えられる。
「東の市河三喜、西の細江逸記」と呼ばれた細江逸記は、東京外国語学校で岡倉由三郎の教えを受けている。細江逸記は、病弱であるために多くの著作を残さなかったが、五文型の普及に貢献する著作を残しただけでなく、日本の古典との比較も論じた結果、日本語学で「ヴォイス」「き」「けり」などの業績を残した点は、日本語と英語との連携としての岡倉由三郎の影響が感じられる(注9)。岡倉由三郎の国語と英語との連携意識の流れの中に福原麟太郎と細江逸記を位置づけることができそうである。ただし、日本語教育福原麟太郎も細江逸記も経験していないためか、日本語教育の面での要素は感じられない。


結−日本語学史・国語教育史における岡倉由三郎の再評価−

岡倉由三郎は、日本語教育・日本語学・英語教育・英文学など多岐にわたる業績を残している。朝鮮に赴任し日本語教育に従事した時期から欧州に留学するまでの時期に多くの著作を示している。その後、英語教育・英語学などに従事するが、絶えず、その根底には日本語を基盤とした教養としての英語という意識が強く反映されている。また、英語発音カードも開発するほど、音声を重要視しているが、それは日本語にも伺うことができ、日本語と英語との音声学ととらえ、日本語も英語もストレス(強弱)アクセントと考えている点など先見性がある。また、普及のためには標準語は必要であるという主張を早くから述べている。岡倉由三郎の高弟として、福原麟太郎がいるが、あれほど多くの日本語のエッセイを多く書いたのは、岡倉由三郎が晩年多くのエッセイを書くようになったことだけではなく、日本語と英語の連携意識も継承していると考えられる。一方で、細江逸記のように、病弱であるために多くの著作を残さなかったが、五文型の普及に貢献する著作を残しただけでなく、日本の古典との比較も論じた結果、日本語学での業績も残した点は、日本語と英語との連携としての岡倉由三郎の影響が感じられる。また、英語教育史に残る、「英語大論争」という、実用主義平泉渉教養主義で佐藤順太という岡倉由三郎の門下に教わった渡部昇一の論争にも連なるのも、教養としての外国語という岡倉由三郎の系譜とパーマーとの対立を彷彿とさせるものがある。
日本語学史や国語教育史の中では触れられることが少ないが、「標準語」のアクセントで「音声学」を基盤にしながら「日本語文法」を説いた点、日本語教育、国語教育、英語教育を経験し、日本語教育・国語教育・英語教育の連携意識を説いた点で、日本語学史・国語教育史での岡倉由三郎を再評価したいと思う。


(注)
引用本文の表記は旧字体新字体に改め、仮名遣いはそのままとした。
1
久保恵子訳ではp.11に序文で示されている。
2
山口誠(2001)は「博言学」と「言語学」について以下のように述べている。
岡倉がチェンバレンから学んだ博言学とは、こうした博物学的知による「ことば」の蒐集と分類を目的とする学問であり、それは大英博物館チェルシー植物園に象徴される西洋へ報告されるためにつくられた知だった、他方、国民国家システムを基盤として、国民主義と近代科学進歩主義が密接に接合しつつあった19世紀末のヨーロッパから上田萬年が持ち帰った言語学(LinguistikまたはLinguistics)とは、一つの「国家」を形成し保証する一つの「標準の言語」を構築するための、いわば自「国民」のための近代知だった。おなじ「ことば」を対象とする学問であっても、博言学と言語学では、それを実践する主体も、それによって目指されることも、大きく異なるのである。(p.71)
これに対してイ・ヨンスク(1996)は、「国語と国家」の視点で上田萬年を扱っており、上田萬年の言語学は科学的ではなく、疑似科学的であると否定的な見解で論じている。
3
斎藤兆史(2000・2003a・2003b・2007)では、この「英語名人世代」についての解説と彼らの英語学習法から学べることについて考察をしている。
4
杉藤美代子(2012)は、日本語のアクセントに強さを考慮する先行研究として、千葉勉(1932)、千葉勉・梶山正登(1942)、ネウストプニー(1966)、藤村靖(1967)をあげているが、そのどれよりも岡倉由三郎(1911)の指摘のほうが早い。また、同様に杉藤美代子(2012)は、Fry(1955)の英語サクセントをストレスアクセントとする説、Bolinger(1958)の英語アクセントを高さアクセントの顕著さ、そこへ余分な持続時間と余分な強さを加えたものであるとする説を紹介した上で、「『高さ以外の他の条件』は一切必要でない。明らかに『日本語も英語も高低アクセント』である。これは筆者が長年かけて音響音声学的、心理学的、音声医学的実験等によって確かめることができた実験の結果であった」(p.92)と述べている。この結論は岡倉由三郎(1911)の指摘とは異なる。
5
村岡博(1928)、征木貴之(2010)によると、1894年8月に執筆した岡倉由三郎は、9月から鹿児島県造士館に赴任し、国語(国語は『徒然草』、『太平記』、『源氏物語』など)と英語(ディンダルの『ベルファスト・アドレス』など)を担当したとのことである。
6
吉岡英幸(1997)は、岡倉由三郎『外国語教授新論』から以下のように、その日本語教授法を推測している。
こうした岡倉の外国語教授法観を日本語教育の立場に置き換えれば、発音は舌の位置などを図解して日本語と学習者の母語との相違点を指摘し指導する。作文は題を与える場合、その題に必要な表現や書式などを事前に教えてから書かせる。そして、文法という科目をおかず、会話で身近な語彙を使用し、構文や語句を軸にした問答形式の例文を多く与え、その学習項目でもある文法規則を帰納的に理解させると同時に発話を促し、練習させて定着させるというものであろうか。資料がなく詳細はわからないが、従来の文法訳読法に対し新しい外国語教授法を日本語教育に応用し実践したという点で、岡倉は貴重な存在である。
7
平賀優子(2008)は、「G-TM」と「文法・訳読方式」とでは、文法綱目ごとに課を配列した教本である点では同じだが、文法規則のあとの翻訳練習では、G-TMは意味的なつながりのない短文(叙述文あるいは問答式の会話文)であるが、文法訳読式教授法では読み物の翻訳練習を課す点で異なることを述べ、オレンドルフを文法会話教授と理解し、G-TMであるという理解がなされていないことを述べている。さらに、以下のように、日本におけるオレンドルフの理解は誤りであることを述べている。
当時(20世紀前後)の日本人にとっては、これまでの漢学の伝統を受け継いだ英学の方法−まとまった分量の(意味的なつながりのある)テキストの訳読−からすれば、短文の例文を挙げたOllendorffを代表とするG-TMのやり方は、意味より形式を重視し、言わば構造言語学的(Krlly,1964)なアプローチとして非常に目新しいものとして写ったために、Ollendorffの教授法を伝統的な方法として位置づけるよりも、会話教授が中心の新教授法として受容したということも考えられるということである。
8
山東功(2003)の「折衷文典」の定義は以下の五項目である。
編纂の筆者において国学や洋学の知見に接し得る人物のもの
編纂の意図において「文典」を明確に意識しているもの
品詞分類法において洋文典の品詞分類の影響が見られるもの
品詞の措定において活用の処理に整合性が見られるもの
文典の構成において文章法が歌作修辞法の段階に留まっていないもの  (p.265)
9
細江逸記は東京外国語学校の出身であるから、岡倉由三郎が高等師範学校教授兼東京外国語学校教授の頃の学生であると思われ、『旅日記』などのエッセイも書いている。細江逸記(1932)の脚注では、岡倉由三郎の自宅での座談のときに「き」と「けり」の話題が出て、そのときに着想を得たものであることが述べられている。
もっとも私がこの研究を進めるに至った動機は大正六年九月某日岡倉由三郎先生を雑司が谷のお宅にお訪ねしたとき、先生の座談に暗示を得たことにあるので、先生はつとに私の言うことに類した区別を「き」と「けり」との間に認めておられるように思う。ここに事の次第を明記して先生に対する感謝の意を表するとともに、もし私の説くところが先生のお考えと異なっているならば、それは私自身の一年間にわたる研究の結果であることを断っておく。  (120頁)
福原麒太郎(1968a・1968b)によると、岡倉由三郎は近世の国学者の古典の写本なども読んでいたようであり、国語関連の蔵書が多かったことがうかがえる。
また、細江逸記(1932)では、以下のように述べおり、草野清民、山田孝雄に触発されていることを述べている。
ようやく名徹な見解を下そうとされた学者は草野清民氏であったが、不幸にも氏は早世されたので十分に氏の説を聞くことができないのは私の最も遺憾とするところである(遺著『日本文法』129―30ページ参照)。氏に次いで、さらに数歩を進めしっかりした立場を保持して名透な学説を立てられたのは今の東北帝国大学教授文学博士山田孝雄氏で、ほとんど暗中模索の状態にあった私の目に一条の光明を与えたものは実に私が明治四三年ごろに読んだ博士の名著『日本文法論』であったので、私は終生無限の感謝を未見の恩師山田孝雄博士にささげるであろう。博士の『文法上の時の論』(同書413―42ページ)には今日の私の首肯しかねる点もないではないが、しかもなお金玉の文字というべきである。」(35頁)

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岡倉由三郎(1893c)「字音考」『東洋学芸雑誌』145号【テキストは國學院大學蔵の岡倉由三郎からの寄贈の抜刷版】
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岡倉由三郎(1935c)「かんながらの人芳賀君と語る」『国漢』13号
岡倉由三郎(1935d)「欧文になった日本文学」『日本文学講座 第15巻 特殊研究篇』改造社
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金澤庄三郎(1903)『日本文法論』早稲田大学出版
金澤庄三郎(1912)『日本文法新論』早稲田大学出版
金澤庄三郎(出版年未詳1928寄贈)『日本文法』早稲田大学出版
川島正士(2014)「『五文型成立事情―細江逸記の功罪』」『国際文化表現研究』10号
北原保雄(1995)「解説」『草野氏日本文法 全』勉誠社
京極興一(1993)『「国語」とは何か』東苑社
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草野清民(1901)『草野氏 日本文法 全』冨山房【テキストは勉誠社版】
國弘正雄(1970)『英語の話しかた』サイマル出版会
(財団法人)言語文化研究所(1981)『長沼直兄日本語教育』開拓社
黄雲(2011)「日本語教育者ならびに朝鮮語研究者としての岡倉由三郎−旧韓末「日語学堂」における日本語教授法をめぐって−」『言語と文明』9号(麗澤大学大学院言語研究所)
小林隆(1996)「現代方言の特質」『方言の現在』明治書院
小林敏弘・音在謙介(2009)「『英語教育』という思想−『英学』パラダイム転換期の国民的言語文化の形成−」『人文・自然・人間科学研究』No.21(拓殖大学論集)272号
小森陽一(2000)『小森陽一、ニホン語に出会う』大修館書店
三枝孝弘(1982)『ヘルバルト「一般教育学」入門』明治図書
斎藤浩一(2012)「岡倉由三郎再考−その英語教育目的論の背後にある原理−」『日本英語教育史研究』第27号(日本英語教育史学会)
齊藤一(2006)『帝国日本の英文学』人文書院
齊藤兆史(2000)『英語達人列伝』中央公論新社
齊藤兆史(2003a)『英語達人塾』中央公論新社
斎藤兆史(2003b)『日本人に一番合った英語学習法』祥伝社
斎藤兆史(2007)『日本人と英語』研究社
藤武義・前田富祺編(2014)『日本語大事典』朝倉書店
真田信治(2001)『標準語の成立事情』PHP研究所
山東功(2002)『明治前期日本文典の研究』和泉書院
柴田武校訂・新村出筆録(1975)『上田万年 言語学』教育出版
清水恵美子(2017)『洋々無限』里文出版
杉藤美代子・森山卓郎(2007)『音読・朗読入門』岩波書店
杉藤美代子(2017)『日本語のアクセント、英語のアクセントどこがちがうのか』ひつじ書房
惣郷正明(1990)『日本英学のあけぼの』創拓社
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高梨健吉・大村喜吉(1975)『日本の英語教育史』大修館書店
高見澤孟(1989)『新しい外国語教授法と日本語教育アルク
竹中暉雄(1987)『ヘルバルト主義教育学』勁草書房
田中章夫(1983)『東京語−その成立と展開−』明治書院
田中章夫(1991)『標準語《ことばの小径》』誠文堂新光社
チェンバレン(大久保恵子訳1999)『日本口語入門 第二版 翻訳』笠間書院
チェンバレン(1887)『日本小文典』文部省
谷千生(1888)『日本小文典批評』山岸商店
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福井久蔵(1953)『増訂 日本文法史』風間書房
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細江逸記(1933)『動詞叙法の研究』泰文堂【テキストは篠崎書林(1973)の新版】
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渡部昇一(1996)『英文法を撫でる』PHP研究所
(参考資料)岡倉由三郎の著作の構成


『日本語学一班』

自序
緒言
第一  思想交換の方法
第二  言語と文
第三  言語及ひ文の成分
第四  言語は伝習によりてのみ授受せらる
第五  言語の起原
第六  文字
第七  言語教育の必要
第八  言語の変遷
第九  語の発音変る事
第十  発音機の構造  其の一
第十一 発音機の構造  其の二
第十二 父音母韻及ひ潰音
第十三 語の意味変わる事
第十四 国語中に存ずる古き成分失する事
第十五 国語中に新しき成分発生する事
第十六 国語の分離
第十七 人種と言語の関係
第十八 言語の原質的分類法
第十九 言語の系統的分類法
結語













日本新文典』

緒言
単語を組織する音韻
片仮名及び平仮名
母韻
父音
清音
濁音附たり鼻音
子音の性質
子音の解剖図
母韻の重複及び其長短
父音の重複
拗音の性質
父音の分類表
雅語の発音
略韻の事
約韻の事
添韻の事
施韻の事
化韻の事
にごりの事
添音の事
省音の事
化音の事
子音の変転
単語個々の分類
日本語の分類
働かぬ主辞
名詞
名詞の意義上の区別
名詞の性質上の区別
名詞の格、性、及び数の事
指詞
対人指詞
人称の事
対物指詞
不定指詞
不定指詞に疑問の意を示さする事
不定指詞に一層不定の意を添ふる事
数詞
媒助数詞の事
日本及び支那の重なる媒助数詞
副詞
数量の副詞
時間の副詞
状態の副詞
程度の副詞
疑訝の副詞
接詞
文章の初めにある接続詞
文章の終りにある接詞
感詞
自己に対する感詞
他人に対する感詞
働く主辞
用言の意義上の区別
未来言
将然言
既然言
連体言
連用言
終止言
命令言
拒否言
用言の語体
動作詞
動作詞の語体附たり語基
動作詞の語基上の区別
四段の動作詞
良行変格の動作詞
奈行変格の動作詞
中二段の動作詞
加行変格の動作詞
下二段の動作詞
佐行変格の動作詞
上一段の動作詞
下一段の動作詞
語基の異同を示す表
自動詞
他動詞
他動詞に二種ある事
令動詞
起動詞及び受動詞
自動詞も受動詞となり得る事
能意を示す動作詞
敬意を示す動作詞
形状詞
働かぬ助辞
働かぬ主辞に着く働かぬ助辞
主格を示すもの
領格を示すもの
受格を示すもの
被格を示すもの
所格を示すもの
器格を示すもの
数を示すもの
其他各種の意を示すもの
働く主辞に着く働かぬ助辞
未然言に着くもの
已然現に着くもの
連体言に着くもの
連用言に着くもの
終止言に着くもの
働く主辞に着く働く助辞
未然言に着くもの
已然現に着くもの
連用言に着くもの
終止言に着くもの
動作と形状との時間
単語の配列
文章
主語
助語
客語
文章の三類
第三種の文章に起こる変転
第一種第二種及び第三種の文章の複合する
をりの注意
近代の文に多く見ゆる誤謬


































『日本文典大綱』

はしがき
例言
総釈
言語−語−詞章−の事
文字−意字−声字−音字−の事
国語−方言−古語古格−の事
国語の運用上の定則−の事
雅文−の事
音韻門−父音−濁気−清気−の事
清轢音−清破音−濁破音−鼻音−促音−の事
長韻−合韻−合音−子音−の事
体詞−用詞−助詞−副詞−接詞−感詞−の事
詞章の要素−の事
主語の形容−治定語の形容−の事
独立の詞章−隷属の詞章−の事
音部門
母韻−父音−促音−合韻−長韻−合音−の事
父音及び促音の分類−の事(第一表共)
神字−片仮名−平仮名−の事
鼻音と促音とを示す文字−の事
邦文に用ゐらるる符号−の事
漢字の使用上の区別−の事
和字−楷書−行書−草書−の事
かなづかひ−字音かなづかひ−の事
母韻上の変化−略韻−延韻−約韻−添韻−旋音
−化韻−の事
父音上の変化−連濁−添音−省音−化音−の事
音韻の互用−の事
子音上の変化−子音の同化−其省略−其旋化
−其合化−の事
単語門
語の構造−其本原−其由来−の事
単純語−複合語−本来語−伝来語−相伝
借用語−の事
本邦の分類−の事(第二表共)
名詞−其なりたち−の事(第三表共)
固有名詞−普通名詞−無形名詞−の事
名詞の性及び数−の事
指詞−其なりたち−の事
人指詞−其人称−の事
物指詞−所指詞−方指詞−時指詞
−其等の中の区別−の事
数詞−本邦数詞と支那数詞と−の事
本数詞と助数詞と−本邦及び支那の助数詞−の事
副詞−其分類−其構造−の事
接詞−其区分−の事
感詞−の事
形容詞−其構造−の事
形容詞の分類−の事(第四表共)
形容詞の勢及び時−助形詞−の事
動作詞−其構造−の事
動作詞の語体−其語尾の形−の事
動作詞の語基−の事
動作詞の分類−の事(第五表共)(第六表共)
動作詞の種類検知−の事
自性動詞−他性動詞−の事
動作詞の態−常態動詞−役態動詞−受態動詞
−能態動詞
礼譲態動詞−の事(第七表共)
動作詞の法−助動詞−の事
動作詞の時相−の事
動作の勢−の事
助動詞組みあはせ−の事
助体詞−其分類−の事
助用詞−其分類−の事
通助詞−其分類−の事
詞章門
本邦の詞章の分類−の事
詞章の順序−其転倒−の事
語の順序−の事
詞章に係かれる諸規則−の事
詞章中の省略−の事
言語分析−の事


『新撰日本文典 文及び文の解剖』

はしがき
凡例
附記
第一課  語−文−主部−叙述部
第二課  単文−主語−体言−助体言
第三課  叙述語−用言−助用言−助辞−句
−主詞−叙述詞
第四課  自用言−他用言−目的語−目的句
−目的詞
第五課  不完全自用言−不完全用言−不全用言
−補足語−補足句−補足詞
第六課  連体語−連体句−連体詞−兼体連体詞
第七課  連用語−連用の体言−連用句
第八課  文の成分
第九課  文の成分−語句の順序
第十課  文の解剖−口頭の解剖−解文図式
第十一課 独立文−連体文−成体文−連用文
第十二課 附属文−混合文−混合文の解剖
第十三課 叙述の語法−叙述の時相
−独立の複合文−緊約複合文
第十四課 附属の複合文−複合文−接続詞
第十五課 複合文の解剖
第十六課 独立語−独立句−呼びかけの独立語
−提示の独立語−独立詞−独立部
感動詞


(付記)
本発表にあたり、岡倉登志先生から参考文献を紹介していただきました。英学史・日本語学史について北澤尚先生、服部隆先生からご意見をいただきました。また、英語学・英語学史について林田忠雄先生、内室一毅氏からご意見をいただきました。ご教示くださった先生方に御礼申し上げます。
細江逸記(1928・1944)の比較

【西暦元号早見表(明治・大正・昭和・平成と西暦)】
年号    西暦 年号    西暦 年号    西暦 年号    西暦 年号    西暦
明治21年 1888年
大正2年 1913年
昭和13年 1938年
昭和39年 1964年
平成元年 1989年

明治22年 1889年
大正3年 1914年
昭和14年 1939年
昭和40年 1965年
平成2年 1990年

明治23年 1890年
大正4年 1915年
昭和15年 1940年
昭和41年 1966年
平成3年 1991年

明治24年 1891年
大正5年 1916年
昭和16年 1941年
昭和42年 1967年
平成4年 1992年

明治25年 1892年
大正6年 1917年
昭和17年 1942年
昭和43年 1968年
平成5年 1993年

明治26年 1893年
大正7年 1918年
昭和18年 1943年
昭和44年 1969年
平成6年 1994年

明治27年 1894年
大正8年 1919年
昭和19年 1944年
昭和45年 1970年
平成7年 1995年

明治28年 1895年
大正9年 1920年
昭和20年 1945年
昭和46年 1971年
平成8年 1996年

明治29年 1896年
大正10年 1921年
昭和21年 1946年
昭和47年 1972年
平成9年 1997年

明治30年 1897年
大正11年 1922年
昭和22年 1947年
昭和48年 1973年
平成10年 1998年

明治31年 1898年
大正12年 1923年
昭和23年 1948年
昭和49年 1974年
平成11年 1999年

明治32年 1899年
大正13年 1924年
昭和24年 1949年
昭和50年 1975年
平成12年 2000年

明治33年 1900年
大正14年 1925年
昭和25年 1950年
昭和51年 1976年
平成13年 2001年

明治34年 1901年
大正15年 1926年
昭和26年 1951年
昭和52年 1977年
平成14年 2002年

明治35年 1902年
昭和元年 1926年
昭和27年 1952年
昭和53年 1978年
平成15年 2003年

明治36年 1903年
昭和2年 1927年
昭和28年 1953年
昭和54年 1979年
平成16年 2004年

明治37年 1904年
昭和3年 1928年
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昭和3