陳述・モダリティ論争について

第22回國學院大學日本語教育研究会
発表資料 2017年7月15日(土)

陳述・モダリティ論争と日本語教育

國學院大學兼任講師
大東文化大学非常勤講師
岡田 誠

はじめに

言語学・日本語学・日本語教育において、文の成立に関わる重要な概念として、「モダリティ」という概念がある。しかし、その捉え方には研究者によって捉え方が異なり、諸説ある。英語の場合には、must・may・canなどの法助動詞の表す意味をモダリティとするが、日本語の場合には規定が定まっていない。そのため、諸家によって用語の定義が異なるだけではなく、陳述・ムード・モダリティを区別しないこともある。日本語文法史からみると、文の成立をめぐって陳述論争があり、陳述論争の終息のあと、ムードやモダリティ論争が行われ、陳述論争が再び形を変えたポスト陳述論争であるとされ、近藤泰弘(1989)は、「日本語研究における『陳述論』とは、定動詞の定義と広義のモダリティとに関わる言語学的問題に、言語心理学言語哲学的な論点が関係した複雑な問題であると考えられよう」と述べている。
本発表では陳述論争からモダリティ論争に至る経過をみていくなかで、日本語教育にはどのような影響を与えてきたか、そして、日本語教育ではどのように受容され、今後どのような方向性になるのかについて考察することとする。

1.陳述論争

文の成立に関わる陳述という概念は山田孝雄(1908・1936)にはじまり、時枝誠記(1937・1941)が持論を展開したところから開始された(注1)。陳述論争で問題となる陳述の解釈の違いについて、諸家の論文、特に芳賀綏(1954)、福田良輔(1958)、桑田明(1960)、大久保忠利(1968)の整理を参考にまとめると以下のようになる。

1.陳述を統覚作用であるとし、copulaあるいは判断の作用とし、その所在を用言とする。・・山田孝雄
2.陳述を言語主体者の判断・情意等の直接的表現である助動詞または零記号の辞にあるとする。・・時枝誠記
3.陳述を判断のみならず、主体の作用全部とし、その所在を用言の語尾・助動詞・終助詞・間投助詞・イントネーションとみる。・・三宅武郎
4.陳述を判断だけではなく、否定・意欲・推量・疑問・感動等言語主体のあらゆる判断・気持ちの表現であるとし、用言・助動詞・終助詞・陳述の副詞・係助詞にあるとする。・・大野晋阪倉篤義
5.叙述と陳述を区別し、言語者めあてとした主体的なはたらきかけを陳述とし、陳述が文を完結させる機能を持つとする。陳述の所在を終助詞・零記号の終助詞・間投助詞にあるとする。・・渡辺実
6.叙述と陳述との区別は渡辺実に従い、陳述は文を統括し完結する主体の作用とし、陳述に述定と伝達との二種を認める。陳述の所在はdictum(客体的表現)の助動詞にはなく、modus(主体的表現)の助動詞・終助詞・間投助詞・感動詞、及び以上に相当する零形式にあるとする。・・芳賀綏
7.陳述の中心は述語である用言にあると同時に、統一体である文全体にあり、言語形式においては陳述の能力を有する用言を第一とし、陳述性を有する助動詞・助詞及び陳述の副詞に表れるとする。・・福田良

これらの陳述論争(特に芳賀綏の論)を踏まえ、三上章・寺村秀夫の現代日本語研究を取り入れて仁田義雄(1991)がムード・モダリティ論を構築したと考えられている。特に、戦後の陳述論争では、金田一春彦(1953a)が時枝誠記の詞と辞の主体と客体について主観・客観という解釈を行って以来、主観表現・主体の態度表明の中に文成立の力を見ようとしたところに大きな特徴があり、そこからムード、モダリティといったものと結びついていったと考えられている。
次に、大久保忠利(1968)のように、陳述論争を戦前と戦後にわけてみる。戦前の陳述論争で注目したいのは、三宅武郎(1937)と三尾砂(1939)が述べていることである。三尾砂は日本語教育学会にも影響力があり、現在の日本語教育文法にも、その論が取り入れられている人物である(注2)。その三尾砂(1942)は、山田孝雄橋本進吉、佐久間鼎を参考にし、特に三宅武郎の影響を受けたことが序に示されている。
三宅武郎(1937)は山田孝雄(1935)の用言に陳述を認めているが、用言の連体形について、山田孝雄(1936)が用言には不十分ながらも陳述があるとした(p.639)ことに対して反論し、動詞・形容詞の連体形には陳述の力はないとした。そうすると、山田孝雄の用言の定義が合わなくなる。さらには、終助詞・間投助詞・イントネーションなどにも陳述があるとし、陳述を発展させた。三宅武郎(1937)の序には、文法に関しては主に山田孝雄の説に拠ったことが述べられているが、陳述に関しては山田孝雄の論を一気に拡大させたといってもよいであろう。
三宅武郎(1937)のあとを受けて、三尾砂(1939)は山田孝雄(1936)が陳述作用と統一作用を同一視した(p.689)ことに対して反論し、陳述作用と統一作用を切り離し、統一作用が用言だけに表出されるものではないとした。そして、陳述作用は、判断の本質である断定作用であるとした。戦後、三尾砂(1948)は文章論を表し、基本文型を記したのもこの陳述の流れと見ることもできそうである。三宅武郎(1937)には陳述の拡大やモダリティ論につながる考え方がみられ、三尾砂(1939)には、話しことばによる基本文型への流れが推測され、日本語教育の基本文型へのつながりが感じられる。仁田義雄(1991)の論は戦後の芳賀綏(1954)の論の流れが指摘されるが、芳賀綏(1954)の論には三宅武郎(1937)と三尾砂(1939)の論についても重要視し、福田良輔(1952)もその重要性を指摘しているため、多く引用されてもよいであろう。
戦前の陳述論争は、山田孝雄の陳述への疑問であったが、戦後の陳述論争は山田孝雄への批判と、時枝誠記への批判も加わったものとなっている。山田孝雄への批判としては大岩正仲(1949)などがあり、時枝誠記への批判としては、佐藤喜代治(1949)や服部四郎(1956・1959)などがある。
時枝誠記の修正・発展としては、大野晋(1950)、阪倉篤義(1952)、永野賢(1951)、渡辺実(1953)、芳賀綏(1954)などがある。それに対して、金田一春彦(1953a)は時枝誠記(1941)とは全く対照的な論を展開している。その背景として、主体と客体を主観と客観ととらえたことにあり、のちに時枝誠記(1953)に反論された。その再反論の際、金田一春彦(1953b)はその主観・客観の捉え方は、松下大三郎(1923・1928・1030)の影響によるものであることを述べている。その点、松下大三郎、金田一春彦という日本語教育の経験者の発想ともみてとれる。
山田孝雄の流れを重視した人物としては、佐藤喜代治(1952)、森重敏(1954)がおり、その上で桑田明(1959・1960)は陳述の解消を述べた。一般的には、渡辺実(1953)・芳賀綏(1954)・金田一春彦(1953)から桑田明(1960)で陳述論争は終息したとされる。しかし、その中にはモダリティ論争につながる萌芽がみられる。特に、三宅武郎(1937)の広く陳述を設定した点、三尾砂(1939)の統覚作用と陳述とを分離した点、渡辺実(1953)の叙述と陳述とを分けた点、それらを踏まえた芳賀綏(1954)の陳述を二つに分けた論は、現在のモダリティにつながる萌芽となっている。また、松下大三郎、金田一春彦という日本語教育経験者の日本語学の流れもあり興味深い。

2.モダリティ論争

モダリティという用語以前には、「ムード」という用語が使われていた。そのムードという用語を日本語文法で記述する際に、確認できるものとしては、細江逸記(1933)のものがあげられる。そこでは、ムードを「叙法」と訳し、日本語のムードとテンスとは切り離すことができないことが述べられている。陳述には段階があるとし、陳述度という用語を用いて、ムードとの折衷的な論を展開したものとして、三上章(1953)をあげることができる。三上章(1954)は、動詞の形態論にこだわりつつ、陳述の度合いに応じた「ムウ度」の考え方を示し、動詞の形態にこだわる点では印欧語のムード概念に忠実である。しかし、ムードの中に「連体法、中止法、中立法(連用形・テ形)」などの法性には直接かかわらない問題を引き込むという特徴があり、「終止法」を「間投法」「命令法」「疑問法」「確言法」「推量法」に分類するなど、モドゥスの考え方に近い点が指摘できる。その系譜として寺村秀夫(1982・1984)がいるが、寺村秀夫までは「ムード」という用語を用いていた。寺村秀夫(1982・1984)は、三上のムウ度から動詞の活用形態ほぼ差し引いて「法性」だけを残した考え方であり、相互承接する助動詞のほぼテンス以下の要素をムードの中に織り込んでいる。伝統的な日本語学の陳述論と寺村秀夫の日本語教育の流れを受けたのが、仁田義雄(1987)である。のちに仁田義雄はムードをモダリティと名称を変更するが、分け方はムードもモダリティは同じである。文を言表事態と言表態度=モダリティとに分け、モダリティを「言表事態めあてのモダリティ」と「発話伝達のモダリティ」の二つにわける。発話伝達のモダリティには聞き手めあてという性格が濃厚であり、芳賀綏の影響が色濃く反映され、この点が益岡隆志(1987・1991)とは異なる。。
モダリティという用語を用いた嚆矢としては、中右実(1979)があげられ、「モダリティは〈発話時点における話し手の心的態度〉のことをいう。ただし、発話時点は〈瞬間的現在時〉と解されるものとする」と定義づけた。中右実(1979)は、「命題とモダリティ」という用語について、フィルモア、ハリデー、安井稔が英語学で使用している用語と精神を受け継ぐが、英語学の用語を日本語学に使用する際にはズレが生じることを述べ、「命題とモダリティ」を独自の意味用法として用いることを述べている。さらに、「命題とモダリティ」と似たものとして陳述を取り上げている。そこに示されている人物名は、松下大三郎・金田一春彦芳賀綏時枝誠記山田孝雄渡辺実・三上章・川本茂雄である。後に中右実(1999)は、モダリティという用語を使用した理由として当時を振り返り、それまで日本語学や英語学などで用いられてきた意味に不満があり、新しく設定したことを述べている(注3)。中右実(1979)の使用し始めたモダリティという用語は、論理学・心理学での他の分野での使用などを考慮していない点である。単に伝統的な国語学や英語学での用語や使用法に不満で新しさを出すというだけでは、それぞれの諸家が自分の定義で行い、モダリティ論争を引き起こすことにつながるのも当然である。この流れで積極的に益岡隆志(1987・1991・2007)はモダリティを拡大する形で進めている。また、ムードという用語を使用していた日本語学の研究者は、仁田義雄、森山卓郎、近藤泰弘などをはじめ、次々にムードからモダリティへと用語を変更している。三宅知宏(2011)は、推量という曖昧な用語に新しい意味付けを与える必要性あたりから、モダリティという用語が使用されたということも述べている。
現在のモダリティの定義をめぐる論争について、宮崎和人(2002)は、モダリティに関する代表的な立場を三つに分類している。現在、もっとも支持されているものを2とし、モダリティを「モダリティとは、言語活動の基本単位としての文の述べ方についての話し手の態度を表し分ける、文レベルの機能・意味的カテゴリーである」としている。近藤泰弘(2000)や益岡隆志(2007)も、この規定で論を述べていると考えられる。以下に宮崎和人(2002)の示す、その3つの大きな立場をまとめてみる(注4)。

1.叙法論としてのモダリティ論・・尾上圭介・野村剛史・大鹿薫久
日本語の述定形式は、その事態の成立、存在を積極的に承認するか、ただ単に事態表象を言語的に組み立てるだけ(事態構成)であるかという第一の観点と、それが話し手にとっての現実世界(過去のことで今はそこにないという場合も含めて)に属する事態を語るか、非現実界の事態を語るかという第二の観点と、この二つによって四つの象限に区分される。言語学上の本来の「モダリティ」という概念は言表事態や「主観性」一般のことではなく、専用の述定形式をもって非現実の事態を語るときに生ずる意味ということである。
2.命題の対立概念としてのモダリティ・・中右実・仁田義雄・益岡隆志
文は、客観的な事柄内容である「命題」と話し手の発話時現在の心的態度(命題に対する捉え方や伝達態度)である「モダリティ」からなり、モダリティが命題を包み込むような形で階層構造化されている。
3.文の対象的な内容と現実とのかかわり方・・奥田靖雄
《モダリティ》とは、はなし手の立場からとりむすばれる、文の対照的な内容と現実とのかかわり方であって、はなし手の現実にたいする関係のし方がそこに表現されている。

2の立場がもっとも支持されてきてはいるものの、近年では1も支持者が増え、ナロック・ハイコ(2014)は文献学的に1を支持している。このように日本語学では概念の異なるものを日本語教育ではどのように受け入れるのがよいであろうか(注5)。
日本語教育とモダリティ論争の視点でみると、数学教育を基盤としていた三上章、英語教育・日本語教育を基盤としていた寺村秀夫、国語教育を基盤としていた奥田靖雄という見方もできるであろう。奥田靖雄は国語教育に力を入れたが、国語教育の現場だけではなく、日本語教育で中国でも講演をしており、さらには奥田靖雄のグループの鈴木重幸(1972)は日本語教育でも参考にされている。鈴木重幸(1972)は、話し言葉の文型などの枠組みを採用しており、三尾砂の基本文型とともに、鈴木忍(1972)の日本語教育でも参考文献であげられている。先述の陳述論争の際には、日本語教育の経験のある松下大三郎や金田一春彦が主観・客観を示したように、日本語学以外の背景となるものがあると、新たな視点が生まれてくることは興味深い。

3.日本語教育でのムード・モダリティの受容

日本語教育でのモダリティの受容であるが、日本語教育学会編になるものからみていく。日本語教育学会編(1982)『日本語教育事典』では執筆が寺村秀夫であり、「ムード」で立項され、宮地裕の執筆で「陳述論」も立項されている。それに対して日本語教育学会編(2005)『新版 日本語教育学会編』では執筆が泉子・K・メイナードであり、「モダリティ」で立項され、「陳述論」は立項されていない。日本語教育学会編(1992)「日本語教育」では、「【特集】モダリティ」となっており、執筆者をみると、仁田義雄・益岡隆志・森山卓郎・白川博之・安達太郎・今井新悟・山岡政紀となっている。このことは、日本語教育では「陳述」「ムード」ではなく、客観的な事柄内容である「命題」と話し手の発話時現在の心的態度であり文の階層性でとらえる「モダリティ」として受容したことと考えてよい(注6)。
以下に「モダリティ」を日本語教育文法ではどのように扱っているのかについて、日本語教師が教授資料として参照すると考えられる日本語教育文法関連の書籍をみてみる。それぞれの特徴を→でまとめ、その後、本文を引用した。

a小泉保(1993)『日本語教師のための言語学入門』→ムード、モダリティを区別することの重要性を説き、日本語学での各自の定義づけではなく、言語学での見方に立つことを述べ、事実についての話し手の見方と表現している。
法は、まずムード(法)とモダリティ(法性)に分けておく必要がある。一般に法(ムード)は、法性(モダリティ)が語形変化の種類として、直説法、仮定法、命令法というように、文法的体系で表されたものである。日本語の文法書は、研究者が自己流にモダリティを規定しているので、内容が雑多になり、比較検討するのがむずかしい状態にある。それに、法性をモダリティと外来語で呼んでいるのに、言語学で一般に通用している法性の概念に準拠しないのも不思議である。法性は、言語による伝達内容の真実性もしくはその実現に対する話し手の見方を表す文法的カテゴリーである。言語伝達にあっては、常に真実の伝達内容が求められている。・・〈中略〉・・さて、法性を規定するにあたり、事実についての話し手の見方を述べておいたが、法性は大きく2種類に分けられる。
(a)認識的法:伝達内容の真実性に関するもの。
(b)義務的法:伝達内容の実現に関するもの。(pp.130−131)

b姫野昌子編(1998)『ここからはじまる日本語教育』→ムードと表現し、中級でムードの用法を扱うことを述べている。
日本語では、話し手の態度は主に文末に現れる。初級では、ほんの少しだけ習うが、中級では、推量、伝聞、願望、意志など、いわゆる「ムード」の表現のバラエティーを順次学んでいくことになる。(pp.27−28)

c松岡弘監修(2000)『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』→モダリティを話し手の主観と表現し、仁田義雄・益岡隆志と同じである。定説とまで言い切っている。
モダリティとは、簡単に言えば、話し手がことがらをどのようにとらえ、どのように述べるかを表すものです。・・〈中略〉・・このようにすべての文は客観的なことがら(命題)と、話し手の主観であるモダリティによって構成されているとするのが、現在の文法研究の定説です。(p.175)

d白川博之監修(2001)『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』→特にモダリティを定義していないが、心的態度で示しているので、仁田義雄・益岡隆志に近い。
とりたて助詞は話し手の気持ちや独自の捉え方、評価を言外の意味として明示するためのものなので、モダリティに近いものです。とりたて助詞が用いられる文の述語に制限がある場合が少なくないのは、とりたて助詞がこのように話し手の主観を反映するものだからです。(p.383)

e庵功雄(2001)『新しい日本語学入門』→命題とモダリティで文を説明し、モダリティとムードを分けていない。ほぼ仁田義雄・益岡隆志の考え方と同じである。
出来事を描く部分のことを命題あるいは「コト」・・〈中略〉・・出来事に対する話し手の主観を表す部分をモダリティあるいは「ムード」と言います。(p.72)
文は客観的な内容を表す命題と、それに対する話し手の主観を表す部分から成ります。この話し手の主観を表す表現をモダリティと言います。この場合の「主観」は「発話時」における「話し手」のものであるのが基本です。・・〈中略〉・・日本語の文は命題をモダリティが包む・・〈中略〉・・モダリティは命題の内容に関わる話し手の捉え方を表す対事的モダリティと、聞き手に対する話し手の態度を表す対人的モダリティとに分かれます。(p.166)

f野田尚史編(2005)『コミュニケーションのための日本語教育文法』→特にモダリ
ティを定義しないで使用している。
書くための文法では、言い切りの「−ほうがよい。」や、婉曲的に意見を述べる「−ほうがいいだろう」などのモダリティ表現を伴った形式で提示すること、そして、読むための文法でじゃモダリティ部分の様々な形式について、各モダリティ表現の違いを理解するよりも、婉曲表現であると理解できるように指導することが大切である。(pp.116−117)

g池上嘉彦・守屋三千代編(2009)『自然な日本語を教えるために』→モダリティを事柄、聞き手を対象とした話し手の態度としている。
事柄に対する話し手の推量・疑問、あるいは聞き手に対する話し手の働きかけなど、いわゆる「モダリティ」の表現においても、英語で人称代名詞が現れるところに日本語では現れないことがあります。(p.178)

h原沢伊都夫(2010)『考えて、解いて、学ぶ 日本語教育の文法』→コトとムードで説明し、モダリティとムードと陳述を分けておらず、仁田義雄・益岡隆志と同じである。
日本語文は、文の基本的な部分であるコト(命題、言表事態、叙述内容)とそれに対する話し手の主観を表すムード(モダリティ、言表態度、陳述)からなり、文の骨格とも言えるコトをムードの表現で覆うような関係にあります。(p.99)

aは外国語の言語学者の手になるものであり、言語学と日本語学との整合性を大切にした、もっとも用語に対して区分けてしているものである。bとhがムードで表現している。他のc、e、gはどれも仁田義雄・益岡隆志と同じ定義づけであり、cは定説とまで言い切っており、問題がある。dとfも定義づけはしていないが、仁田義雄・益岡隆志と同じと言える。
このように概観すると、日本語教育の中においてのモダリティは、aを除いては、日本語教育学会編(1992・2005)の流れで受容されていることがわかる。用語については、ムードとモダリティとがあるが、日本語学ではムードで使用していた研究者がモダリティに変わったので、日本語教育もモダリティに統一されることが予測される。


結語

陳述・モダリティ論争を概観してみたが、陳述・モダリティ論争は、文の成立に関わるもので、文法諸家の文の捉え方があらわれることに大きな特徴がある。モダリティを積極的に認める流れは、陳述を広く認める三宅武郎、渡辺実芳賀綏に内包されており、仁田義雄の論でほぼ重なるがそれだけではなく、それぞれの論争で日本語教育に関わりのある人物が重要な視点を提示しているのも興味深いところである。陳述論争では、三尾砂が統一作用と陳述を分け基本文型へと続き、松下大三郎・金田一春彦は主観・客観を提示した。モダリティ論争では、三上章・寺村秀夫がそうであった。その流れを示すと以下のように整理できそうである。

(基盤とする背景から見た流れ)
1松下大三郎(日本語教育・日本語学)→佐久間鼎(心理学・音声学)
→三上章(数学教育・国語教育)→寺村秀夫(英語教育・日本語教育
2松下大三郎(日本語教育・日本語学)→金田一春彦日本語教育・日本語学)
→三上章(数学教育・国語教育)・奥田靖雄(国語教育)
3奥田靖雄(国語教育)→鈴木重幸(国語教育)→鈴木忍(日本語教育
4三尾砂(心理学・ローマ字教育・日本語教育)→鈴木忍(日本語教育

また、日本語教育の面からみると、三尾砂の文法は、日本語教育の中に取り入れられている。その三尾砂が陳述について記していることは重要である。文の捉え方に関わることだからである。日本語教育では、モダリティ論では寺村秀夫が引用されるが、その先駆けの陳述論争の段階で三尾砂が基本文型の確立の段階で述べている陳述の判断機能について述べているので、再評価されてもよい。
三尾砂の基本文型や、即時性・対人性を特徴とする話しことばの流れだけでなく、奥田靖雄・鈴木重幸の国語教育の流れも参考にしている鈴木忍は「陳述の副詞」という形で、あくまで文型の枠内で受容している。陳述・ムードという用語の危うさを認識していた可能性がある。基本文型の流れのため、湯澤幸吉郎、三尾砂、林四郎、鈴木重幸、間接的には奥田靖雄の流れと考えられる。陳述、ムード、モダリティという用語について慎重に考えている流れとすることができる。
現在、日本語教育の中で受容する場合、「ムード」と「モダリティ」という用語が混在している。そのため、「ムード」か「モダリティ」に統一する必要があるが、日本語学ではモダリティに移行したように、日本語教育学会編の刊行物もモダリティに移行しているため、今後、「モダリティ」に統一されることが予想される。

(注)
1
陳述という用語は、山田孝雄(1908・1936)によって使用された用語であり、その用語に曖昧さがあったために、戦後の陳述論争に発展していったという経緯がある。陳述という用語は、山田孝雄(1908)では説明を加えずに、「陳述・陳述語・陳述副詞・陳述の方法に関する副詞・陳述の修飾語・陳述の確めに関する複語尾」という使用がなされており、陳述の定義は、以下の山田孝雄(1936)によってなされている。

この用言には統覚作用と共に属性観念をもあらはすことあれど、属性観念の存することはいはゞ用言としては偶然的現象としてこれが存在を認むべきにあらず。何となれば既にいひたる如く属性観念は副詞としても体言としてもあらはされ得るものなればなり。こゝに於いて用言の用言たるべき特徴は統覚の作用即ち語をかへていはゞ陳述の力を寓せられてある点にあり。この陳述の力の寓せられてありや否やの点が、かの体言と用言との区別をなすべき主眼点なりとす。かくて体言と用言とは必然的に区別せらるべき根本的の差別あること明らかなりとす。(p.95)

用言の本質と認むべきものは属性にあらずして、陳述の作用を有するといふ点にありといはざるべからず。かゝる理由によりて、「あり」「なし」の如くに殆ど属性の考へられぬ用言も存在するなり。これを以て考ふれば、この属性をあらはすといふことは用言の絶対条件にあらざるを知るべし。用言には属性をあらはすもの多きこと上述の如くなれど、その用言の用言たる特徴は実にその陳述の作用をあらはす点にあり。この作用は人間の思想の統一作用にして、論理学の語をかりていへば主位に立つ概念と賓位に立つ概念との異同を明らかにしてこれを適当に結合する作用なり。(p.148−149)

抑も陳述をなすといふことは之を思想の方面よりいへば主位の観念と賓位の観念との二者の関係を明らかにすることにして、その主賓の二者が合一すべき関係にあるか、合一すべからぬ関係にあるかを決定する思想の作用を以て内面の要素として、そを言語の上に発表したるに外ならず。(p.677)

戦前の陳述論争は、時枝誠記(1937・1941)、三宅武郎(1937)、三尾砂(1939)のものが注目される。時枝誠記(1941)は、以下のように述べ用言には陳述はないとし、辞(いわゆる助詞・助動詞)に陳述があるとした。

用言に陳述の能力があると考へることは、文字が意味を持ってゐると考へると同様に、構成主義的考方であつて、主体的立場に於いては、言語主体が用言に於いて、陳述を表してゐると考へなければならない。右の様に考へて、それならば、主体の陳述は用言の中に含まれて表現されてゐるのであるかと考へて来ると、この零記号なる陳述の在所といふものが、問題である。しかしながら、陳述の存在といふこと自体は疑ふことの出来ない事実であつて、若し陳述が表現されてゐないとしたならば、「水流る」は、「水」「流る」の単なる単語の羅列に過ぎないこととなる。そして陳述の本質と考へて見れば、それは客体的なものでなく、全く主体的な肯定判断そのものの表現であるから、明らかにそれは辞と共通したものを持つてゐるのである。(p.251−252)
2
古田東朔(1995)により、佐久間鼎、三宅武郎の影響の記述の指摘がある。また、三尾砂の仕事の補佐をしていた姫野昌子(2013)は、三尾砂の日本語文法が日本語教育文法に取り入れられている箇所(『が』と『は』・動詞活用形・形容詞など)の指摘を行っている。
3
いまでもよく覚えているが、「モダリティと命題」の論を起こすとき和洋ごちゃ混ぜの表題に少なからず抵抗感があった。しかし、どうしても「モダリティ」よりも優れた対策を思いつくことができなかった。伝統的国語学の陳述論のなかに金田一春彦の「主観的・客観的表現」、芳賀綏の「主体的・客体的表現」、時枝誠記の「詞・辞」、シャルル・バイイのmodusとdictumの訳語「言表態度・言表事態」、渡辺実の「陳述・叙述」、寺村秀夫の「ムード・コト」などが目にとまったが、どれも根っこのところで目的意識が違うように思われた。そこで改めてmodarityに立ち戻ったのだが、それを「叙法」とか「法性」と訳してみても、moodと混同されるおそれがあるし、どうせ別途、定義が必要になってくるのだから、いっそのこと、カタカナ語でも「モダリティ」なら響きは悪くないし、しかも原語の基本概念も崩さず、タブララサの上に新しい概念を書き込むことができるという算段だった。実際、わたしはそれまで英語学の世界で用いられていたmodalityの概念に少なからず不満があった。それは端的に言って、ほとんど常に〈法助動詞〉の議論のなかでしか論及されていないばかりか、直観的理解の域を出ない便宜的な記述語として用いられているものにすぎなかった。〈モダリティ現象の多様性〉の背後に〈モダリティ概念の統一性〉を見る視点に欠けるものだった。
4
ナロック・ハイコ(2014)は、古代の言語哲学から文献学的に概観し、以下の6つにモダリティの概念を分類し、4と5を検討し4を支持している。
1.必然性と可能性としてのモダリティ。・・アリストテレス、ハイゼなど
2.「文のあり方」としてのモダリティ。・・ハイゼなど
3.主語と述語の結びつきとしてのモダリティ。・・スウィートなど
4.事実未定、あるいは非現実としてのモダリティ。・・ライオンズ・パーマー・キーファー・ラネカーなど
5.話し手態度、あるいは主観性としてのモダリティ。・・エルテル・ハイゼ・ブルークマン・イェスペルセン・ライオンズなど
6.文の二大要素の1つとしてのモダリティ。・・フィルモア・バイイなど
5
近藤泰弘(1989)は、日本語のムード・モダリティ研究では欠かせないものとして、以下の3点を指摘している。
1.終止の類型から見た文の種類
2.広義の叙述文に現れる話者の判断の種類
3.広義の従属度に見られる段階的モダリティ(陳述度)
そして、「ムード」を印欧語の屈折による語形変化で、イェスペルセン、細江逸記をあげ、「話し手の文の内容に関する心的態度の表現とした。また、「モダリティ」は、ムードを含み、文型や助詞・助動詞による表現、語用論などを含む広い概念であり、フィルモア時枝誠記、益岡隆志、中右実をあげ、話者の心的態度を示すすべての表現であるとし、モードは、ディスコース論や語用論的な問題も含めた広い意味での主観的な表現として、判断の種類としてのムード を述べた。パーマーをあげている。陳述的側面から構造を研究した人物として、南不二男、鈴木重幸、久野翮をあげ、従属度・主節の陳述度・従属節の従属度の研究を評価している。
をあげている。主体的表現と客体的表現で、古典語の助動詞全体を扱い、古典のムードの体系的分類研究を行った人物として、細江逸記、山口佳紀、北原保雄をあげている。この中に、近年では、山口尭二、高山善行も加えている。
主観的という用語に関しては以下の二つに分けている。この中で大江三郎(1975)のダイクシスに注目している。
1ムード・モダリティ・陳述
  2ダイクシス 
この大江三郎(1975)のダイクシスを主観性と考えれば、やりもらい・受身・使役もモダリティということになり、近藤泰弘(2000)や益岡隆志(2007)は、やりもらい・受身・使役を「非構成的モダリティ」、その他を「構成的モダリティ」とし、「構成的モダリティ」をモダリティ研究の対象とすることを述べている。
6
日本語教育学会編(1985)には、曽我松男「モダリティーの範疇についての一考察」という論文が掲載されており、この論文ではモダリティの一般概念を第一に「動詞の形態を基盤とするもの」、第二に「意味的側面の話者の心理的態度や判断を基盤とするもの」、第三に「論理学を基盤とするもの」の三つに分けた。その上で、モダリテイを第一の見地から「断定」「命令」「勧誘」「推量」「仮定」の五つの範疇で扱い、「可能」「必然」などその他の助動詞も五つの中に入れて扱うことを主張している。そして、第二のような意味のモダリティを不要とし、「のだ」「はずだ」「わけだ」をモダリティの範疇で教える必要性はないことを述べている。この段階では日本語教育での受容の在り方が決まっていなかったと考えてよいであろう。


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【参考資料】−辞典類に見る定義−

A『日本語教育事典』の記述
「陳述論」
陳述の名称は、山田孝雄(『日本文法論』1908)の用いた独特の述語で、論理学のコプラ(繋辞)の機能に相当し、述語用言の文統一の作用を主として指す。時枝誠記はこれを受けながらも、用言ではなく述語の助動詞、及び、助動詞相当のゼロ記号に陳述の作用を認めるとした。陳述を主として命題的判断作用とした点では共通するが、これらを受けた渡辺実らは、文の事柄内容の叙述に対して、言語者目当ての働きを陳述と規定し、これが文を成立させ完結させるとし、主として終助詞にその機能が託されるとした。述語文節の組み立てと、文の成立・完結の機能とが、陳述論によって解明されてきたが、述語にかかわる連用成分の分類・解明、文中の助動詞・助詞の陳述的機能の解明・質問・命令等の文の陳述的特性の分析など、関連するところが大きい。【宮地裕
「ムード」
事柄・叙述内容、又は、話し相手に対する話し手の態度が一定の文法形式―普通は動詞の形態―によって表現されるとき、それをムード、又は、モダリティという。・・〈中略〉・・英文法では、また、shall,will,may,must,shouldなどが、やはり話し手のいろいろな判断のしかたを表すゆえに「ムードの助動詞」と呼ばれ、可能性や必然性の問題を扱うモーダル・ロジック(様相論理学)との関連からも近来多くの研究がなされている。・・〈中略〉・・陳述というのと、主観(主体)的表現というのとは、視点が違うけれども、いずれも西洋文法におけるムード、モダリティに関する議論と関心のありかたとしては共通するところのある、問題の一つといってよい。・・〈中略〉・・まず用言の活用語尾。時枝は動詞・形容詞は詞であり、それの終止形で終わる文は「零記号の陳述」によって統一されているものと説明したが、現今ほとんどの学者は、動詞・形容詞は詞と辞の結合したものと考えるのが妥当であるとしている。次に助動詞(山田文法では複語尾)のうち、ダロウ、マイ、ラシイ、ヨウダ、完了・過去・確認のタなどが挙げられる。主観的ということを最も狭く解する金田一春彦は、活用形では命令形、助動詞ではウ・ヨウ、ダロウ、マイ、それに想起や命令の特殊なタなど、変化形をもたないものだけを主観的、モドゥスの表現とする。ナイについては主観的とする人と客観的とする人の両方がある。ハズダ、ワケダ、モノダ、ノダなど、いわゆる形式名詞にダの付いたものも助動詞とし、ムードを表すものとみる人がある。終助詞ネ、ヨ、カなどは一般に話し手の相手に対する態度の表現とされるから、ムードを表すものといえる。・・〈中略〉・・話題を提示するハや、格関係を含みつつ話し手の事態に対する評価のしかた、主観的な受け止め方を示すダケ、シカ、バカリなどの副助詞の類、更に、いわゆる感動詞の類なども、ムードの具体的表現として考察の対象となろう。【寺村秀夫】
「モダリティ」・・立項なし

B『新版 日本語教育事典』の記述
「陳述」・・立項なし
「ムード」・・立項なし
「モダリティの研究」
国語学の伝統では、「てにをは」の概念を継承した時枝(1941)の「辞」、三上(1972)の「発言のムウド」、寺村(1984)の「ムード」また、いわゆる「陳述」の概念が、モダリティと類似した言語現象を捉えてきた。・・〈中略〉・・一般的にモダリティとは、判断・発話する主体に直接かかわる発想・発話態度を意味し、とくにそれらを表現する言語表現を指す。そこには、話す主体の主体的態度や感情が含まれる。・・〈中略〉・・日本語で、とくにモダリティの表現として注目されるものには、係助詞、終助詞、「どうせ」「やっぱり」などの副詞、「のだ」に代表される名詞述語文、「教えてもらう」などの授受表現、「だろう」などの助動詞がある。また、主体的な表現という観点からは、「悲しい」「欲しい」などの使用上の制限が問題となり、対人関係に関連したポライトネス表現なども広義のモダリティのストラテジーとして注目される。【泉子・K.メイナード】

C『日本語学キーワード事典』の記述
「陳述」・・立項なし。「文の構造」「文法研究史」「文論」の中で触れている。
「モダリティ」・・立項なし。「ムード」の中で扱っている。
「ムード」
言表内容に対する話し手の捉え方、および聞き手に対する働きかけや伝達のあり方といった、発話時における話し手の心的態度に関する情報をムードまたはモダリティという。両者を区別しないことが多いが、ムードを述語動詞の活用形や述語動詞に続く助動詞などの形式とし、モダリティを終助詞・陳述副詞・文型・イントネーションなどを含めた文の述べ方を決定づけるものとして区別することがある。・・〈中略〉・・言表内容に対する話し手の捉え方には、認識的なものと情意的なものとがある。・・〈中略〉・・聞き手に対する働きを表すものには、命令・禁止・依頼(聞き手のみに行為の遂行を要求)や勧誘(話し手の行為遂行を前提とした聞き手への行為遂行の要求)といった情意的な働きかけ(言表内容の成立を望ましいものや実現させたいものとして捉えようとするもの)と聞き手に情報を求める問いかけとがある。後者は、判断の問いかけ(「君が張本人なの?/誰が張本人なの?」)と聞き手の心的問いかけ(「本を読みたいの?」)とに分かれる。・・〈中略〉・・伝達態度を表すものには、終助詞「さ・ね・よ・ぞ・わ等」がある。構文的には、言表内容に対するムードおよび聞き手に対する働きかけのムードを包み込んでいる(「本を読むだろうさ/みたいわ/めよ/むのね」)【赤羽根義章】

D『日本語文法大事典』の記述

「ムード」(mood)
「法」と訳されることが普通である。もともと印欧語では動詞に、直説法(事実として語る)、接続法(想像的に語る)、希求法(願望的に語る)、命令法(命令・拘束的に語る)の四つの形態があり、主に文内容と話し手とのかかわりを表し分けた。このようにムードは元来、動詞の形態論上のカテゴリーである。しかし、内容上、ムードは「言葉の様子、話し方」(本来ムードはこのような意味である)、「文の内容に対する話し手の心的態度」(イェスペルセン)、「主語・述語の異なった関係」(スウィート)などを表すから、その内容面を捉えて「法性」(モダリティ)ということが言われる。このように狭い意味ではムードは印欧語の動詞の形態上の概念であり、モダリティはそこから拡張された内容上の概念であるが、戦後の日本語研究においては「話し手の心的態度」への関心の高さから、ムード、モダリティはいろいろな議論の過程を経て論者による様々な概念規定を受けるに至った。・・〈中略〉・・さて時枝以降の我が国の文法論は、以上のムード、モダリティに相当する概念を詞辞論・陳述論として問題にしてきたが、渡辺実は、叙述(ほぼプロポジションの構成に当たる)を「事柄めあて」、陳述(ほぼムードにあたる)と性格づけた。・・〈中略〉・・もともとムードという用語を用いていたわけでもないが、モドゥス=主観的表現という概念も含まれるようにもなるわけである。・・〈中略〉・・本来モダリティよりも狭い概念のムードという用語が、使用主体(研究者たちの間で)・適用対象ともども幅広く受け入れられているのは、一つにはモドゥス(=ムード)−ディクトゥムという概念枠に魅力があるためであろう。もう一つ。起源を同じくする語の日常用法として、仏語のモードは「流行」「・・風」という意味合いであるのに対して、英語のムードは「気分」「気持ち」という意味合いである。これが「ムード=話し手の気持ち」とする理解につながりやすいかと思われる。【野村剛史】

「モダリティ」(modality)
「様相」と訳されることが普通である。また「法性」と呼ばれることもある。事態が言語主体にどのように現れているかを示す概念。一般的には、可能性(蓋然性)・必然性・現実性・偶然性などが含まれる。事態が主体にどのように現れるかということは事態の性質とも考えられるから、存在のあり方をモダリティと言う場合がある。アリストテレス以来の伝統的論理学は、そのように考える傾向が強い。一方、カントなどの近代哲学では、モダリティは主体の認識の枠組みと考えられる傾向が強い。また近来の日本語文法論の考え方としては、モダリティは、事態に対する「話し手の把握の仕方」ないし「話し手の主観」と述べられることがある。一見カントの的な考え方に似ているようであるが、カントの認識の枠組みとは我々が必ずそれに従わざるを得ない様式のことであり、事態とモダリティが分離されるわけではない。それに対して、近来の日本語文法論のモダリティ把握は、時枝誠記の客観的表現と主体的表現を峻別しようとする詞辞論の影響を受けているために、抽象的に捉えられた「事態そのもの」とモダリティとを分離して考える傾向が強い。更に近年の日本語モダリティ論は、モダリティを対事態的、対聞き手的の二面に分離することがある。対事態的な表現と対聞き手的な表現は確かにしばしば絡み合っているけれど、本来モダリティは、諸言語にわたる普遍的な側面を含むとともに、各言語ごとに(時に微妙に)異なる側面を持つ。エミール・バンベニストは、モダリティ論を含んだアリストテレスのカテゴリー論(形而上学)を、当時のギリシア語の文法カテゴリーの反映にすぎないと批判している。しかし、逆に考えれば、アリストテレス形而上学は文法論と捉え直すこともでき、とすれば、日本語の文法的モダリティの研究は、日本語話者のものの見方を対象化する契機を与えてくれるわけでもある。【野村剛史】