『保元・平治物語』における源義朝について

 こんばんは。データを整理していたところ、私が学生のころに書いたレポートがでてきました。担当の杉本圭三郎先生の評価はAで、お褒めの言葉が書かれてありました。そこで、参考までにそのレポートを掲載してみます。


 『保元・平治物語』における源義朝について

 『保元物語』では、主人公として源為朝の活躍が目立つのに対して、源義朝は、絶えず悩み苦しんでいる印象を受ける。平清盛に謀られて、仕方なく父の源為義を斬ったことに対して、
  母よりも貴く、君よりもしたしきは只父也。いかが是を殺さんや。孝をば父にと   り、 忠をば君にとる。若忠を面にして父をころさんは、不孝の大逆、不義の至極  也。され ば百行の中には、孝行をもて先とすといひ、又三千の刑は、不孝よりも  大なるはなし といへり。
と記しており、源義朝の苦しい心中を記している。したがって、源為朝を明または陽とするなら、源義朝は、暗または陰と位置づけられる。
 源氏の棟梁として、源氏を勢いづかせようとするための苦心のほどが、源義朝からは感じられ、源義朝は絶えず、そういったしがらみを背負うが、一方の源為朝は、その最期まで自由奔放で、その大物ぶりがうかがえるのである。
 源義朝は、保元の乱で勝者の側にいたにも関わらず、平清盛らに謀られて、父の源為義だけでなく、幼い弟たちをも次々に斬らざるをえない状態になり、源氏の勢力が、かなり衰退してしまったあげく、恩賞も、これだけの犠牲を身内に払ったにも関わらず、かなり不公平で、清盛が播磨守になったのに対して、義朝は左馬守となったに過ぎなかった。このあたりの事情からも、藤原信頼と組みして、清盛と信西を打倒しようとする、クーデターの種がまかれていたことがわかる。
 なお、『愚管抄』には、義朝が為朝を斬る場面は、
  カクシテ為義ハ義朝ガリニゲテ来リケルヲカウカウト申シケレバ義朝ヤガテコシグ  ルマニノセテヨツツカヘヤリテヤガテクビキリテケレバ義朝ハ親ノ首切ツト世ニハ  又ノノジリケリ。
とだけしか書かれていない。
 『平治物語』では、源義朝の息子の、源義平の活躍が目立つ。しかし、『保元物語』における、源為朝よりはスケールの点では劣っている。「平治の乱」は、源義朝が源氏の勢力の回復をはかるためのクーデタで、源氏の勢いを取り戻したいために、わざわざ藤原信頼のような、小人物と組んだものである。
 結局、義平の策を信頼が受け入れず、このクーデタは失敗し、敗北の終わってしまうわけだが、義朝は、東国で軍勢を立て直そうと落ち延びるわけだが、長田の裏切りで命を奪われたのである。
 最期まで、源氏の棟梁として、可能性を捨てないで、悲劇的な死に方をするのは印象的である。義朝ほど、一族の者を斬らなくてはならなかった者もいないのではないか。『保元物語』でも、親や弟を斬ったし、『平治物語』でも朝長や娘なども斬った。肉親を失う悲しみは、ずいぶんと味わったのではないか。深手をおった朝長の最期の、
  朝長畏(つ)て、「これに候はば、定て敵に生捕られ候ひなん。御手にかけさせ給  て、心やすくおぼしめされ候へ」と申されしかば、「汝は不覚の者と思ひたれば、  誠に義朝が子なりけり。さらば念仏申せ」とて太刀を抜き、…。
という場面は、義朝のつらさがひしひしと伝わってくる。
 『愚管抄』を見ると、保元の乱での為朝、平治の乱での悪源太義平についての記述が見当たらない。このことは、やはり、文学の上で、暗または陰として義朝を位置づけ、明または陽として為朝と義平とを位置づけるという手法であろう。そして、『平治物語』の中巻で義朝が死を迎え、そこを基点として、あるいは、転換点として、下巻で源氏の勢力回復の種子がまかれて、頼朝の挙兵でこの書は終わるのである。
 このようなことを考え合わせてみると、源氏のある意味でのカルマのようなものを、一生涯背負い続けた人物としての義朝というものが浮かびあがってくる。そして、義朝が一生涯背負い続けた、そのカルマが、義朝の死とともに清算され、一種のカタルシスとなり、頼朝や義経といった者たちに受け継がれていくかのように、『保元物語』や『平治物語』では、描かれている。
 歴史上の人物対比では、言うまでもなく、平氏政権樹立を行った平清盛は明または陽であり、源氏が完全に衰退してしまったという点では、源義朝は暗または陰である。主要登場人物のなかで、義朝はすべての点で、暗または陰という要素を担わされているように思えてならない。
(参考文献)
岸谷誠一校訂(一九三四)『保元物語岩波文庫
岸谷誠一校訂(一九三四)『平治物語岩波文庫
丸山二郎校注(一九四九)『愚管抄岩波文庫
杉本圭三郎(一九八二)『日本文芸作品作家研究―中世―』法政大学通信教育部