『今昔物語集』の「兵のこころばえ」について

おはようございます。今回も私の書いたレポートを紹介します。

今昔物語集』巻二十五にみる「兵の心ばえ」について

今昔物語集』巻二十五本朝付世俗は、平将門藤原純友の話で始まり、前九年の役後三年の役の話で終わる武士譚である。これらの間にはさまれた話は、桓武平氏清和源氏に大別され、その家門の武士を主人公とする話が世代順に配列されている。池上洵一氏は、
 …彼等一門を歴史的に展望しようとする意識の存在を認めないわけにはいかない。他 の 説話集には見られぬ題材と描写が光る話が多く、『今昔』の魅力を代表する巻として認められている。平惟茂と藤原諸任との合戦譚(第五話)や、源頼信・頼義父子が馬盗人を射殺す話(第十二話)は、全巻を通しての最高の傑作といえよう。
と述べている。
では、巻二十五における、「兵の心ばえ」について、顕著にあらわれている話を見てみる。「兵の心ばえ」は、「源充平良文合戦語第三」「平維茂郎等被殺語第四」「平維茂罸藤原諸任語第五」「春宮大進源頼光朝臣射狐語第六」「藤原保昌朝臣値盗人袴垂語第七」「源信朝臣責平忠恒語第九」「依信頼言平貞道切人頭語第十」「藤原親孝為盗人被捕質依頼信言免語第十一」「源信朝臣男頼義射殺馬盗人語第十二」である。以下、第何話という形で記述する。
 第三話は、源充と平良文が一騎打ちになる話で、互いに相手の武を認め合い、矢の腕も互角とわかり、それ以後は、互いに友誼を結んだという、さっぱりとしたフェアプレイを見ることができる。
 第四話は、仇討ちをした年少の侍に対する平兼忠の「祖ノ敵ヲ罸ヲバ天道許シ給フ事ニ非ズヤ」という、仇討ちは天が許すことというあたりに、倫理と評価があらわれている。
 第五話は、平維茂と藤原諸任の死闘を描いたもので、途中、平維茂が逃げ延びて軍勢を立て直そうという意見が多い中、平維茂が逃げたということに対して、逃げてそれから立て直すのは恥だから、命を惜しまずに、すぐに出陣するという、「恥」の意識が、「乃至子孫マデ此レハ極テ恥ニハ非ズヤ。後ニ軍ヲ発シテ罸タラムハ、極テ弊カリナム。命惜カラム尊達不可来。我レ一人ハ行ナム」という部分によくあらわれている。
 第六話は、源頼光が、東宮の命令で、蟇目の矢にもかかわらず、遠くの狐を射落とす話だが、「此レハ頼光ガ仕タル箭ニモ不候ハ、先祖ノ恥セジトシテ、守護神ノ助ケテ射サセ給ヘル也」といって、少しも自慢しないで、控えめな頼光の性格がよく出ている。
 第七話は、袴垂が藤原保昌を襲って衣服を剥ぎ取ろうとしたが、保昌の人間的な大きさと、武だけでなく、思慮深さも必要なことを示している。
 第九話は、源信頼が平忠恒を討伐した際、あっさりと降伏した忠恒を、それ以上、攻め立てたりしないで、すぐに引き上げるという潔のよさを感じる。
 第十話は、平貞道は駿河国の某の殺害を依頼され、殺害する気はなかったのに、その男の「但シ、彼ノ殿ノ宣フ事ヲ難去ク思シテ、此ノ事ヲセムト思スト云フトモ、己等許成ヌル者ヲバ、心ニ任セテ為得給ハムズルカハ」という言葉に急に殺意が出て、その男を貞道が殺すという、かっとなるとやりあう武士の気質を見ることができる。
 第十一話は、源信頼が人質にとった盗賊を説得して、人質を救ったという話で、しかも、その盗賊を許すという寛容な処遇は、武人の棟梁としての姿を見ることができる。
 第十二話は、源信頼と源頼義の父子が、馬盗人を追い、馬を奪い返す話である。その奪い返すときに、この父子は何も言わなくても、互いに相手の行動をわかって、打ち合わせたかのような一体的行動、しかも、何事もなかったかのように、翌日過ごすという、いわば、以心伝心を示したものである。言わなくても、察知して動くことの大切さ、あるいは、武士としての嗜みを感じ取れる話である。
以上、取り上げた三、四、五、六、七、九、十、十一、十二の各話をまとめて整理してみると、次のように「兵の心ばえ」をまとめることができる。
〇相手の力を素直に認め、尊重しあう。
〇仇討ちは、当然という意識がある。
〇逃げるのは恥である。
〇自慢してもよいことでも、決して自慢せず、控えめでいる。謙譲の精神がある。
〇素直に負けを認めた者については、寛大に処置し、許すのが武士の棟梁である。
〇尊大な態度で、人を馬鹿にした者には制裁を加える。
〇以心伝心による、一体的行動が、何よりも奥ゆかしいと感じる。
(参考文献)
池上洵一(一九八五)「今昔物語集」『研究資料日本古典文学③説話文学』明治書院
馬淵和夫・国東文麿・今野達訳注(一九七四)『日本古典文学全集・今昔物語集小学館