漢文訓読と受身文

1
近世の漢学者は受身を示す文字に対する意識をみてみる。『訓譯示蒙』では、
見 被 所 遭
四字トモニカハリナシ訓ノ通リナシ但所ノ字ハ少シカハリアリ所ノ字ノ條下ニ見ヘタリ但シ、訓ノ通リナリトテ世俗ノ云フ辭ノカヤウセラレマシテドウセラレマシテト云フラレノ意ニテハナシ人ニカウセラレタト云フ寸ノラレノ意ナリ。
と「見 被 所 遭」を示している。「所」の文字については、性質が多少異なっているとし、「人に何かをされること」としている。
また、『操觚字訣』では、
見被所
和點ニラルトヨムコト、人ヨリリフセラルヽト云フコトナリ、語辞トスルコト、三文トモ、字書ニ注ナシ、本義ニテソノ別ヲ辨スベシ、見禽被殺ハトラヘラレテ、匁殺スルヲカヲムルヲミルトナリ見軽侮ハ、人ニアナトラルヽヲミルナリ、所親厚ハ、親厚スルトコロナリ、恵マル、寄ラル、許サルノ類、各コノ意ニテ分カツベシ。
と述べている。

2
漢文訓読研究の立場では、近世においても、すでに受身として訓読される文字である「見」「被」「−所−為−」についての研究はなされてきたが、それは主に実証的なものではなく、字義を述べてもので、漢文を解釈するためのものであった。したがって、近代以降に本格的な研究がなされるようになった。その中でも、築島裕小林芳規、大坪併治などの研究が知られているが、特に、築島裕と大坪併治は詳しく扱い、訓読文の「る・らる」は、もっぱら受身を表し、可能・自発・尊敬に用いられないのが普通であることを述べている。
大坪併治(1981)は、国語の立場からまとめて次のように九種類に分類し、aがもっとも多く使われ、eからiは、きわめて稀にしか使われないことなども指摘している。「a以外は国語本来の受身表現ではなく、漢文の構造に引かれて成立した翻訳文法である」と述べている。
a−ル・ラル
b−ノタメニ−ル・ラル
c−ルル・ラルル(コト)ヲカガフル
d−(コト)ヲカガフル
e−トコロヲカガフル
f−所□ヲカガフル
g−トコロトナル
h−トコロタリ
i−トコロトス

3
築島裕は(1963)(の中で、時枝誠記の考えを踏まえた上で、慈恩伝古点での用例調査から、
「シム」には必ず「ツ」が続き、「ラル」には必ず「ヌ」が続いてゐることは、「シム」や「ラル」が単なる助動詞ではなく、動詞の意味内容の一部を形成してゐる接尾語であることの表れとも言へよう。
と述べ、時枝誠記と同様に、接尾語であるとしている。この築島裕の説明は、ほとんどが国学の流れを受けて接尾語としたり、洋学の流れを受けて助動詞としたりしている中で、漢文訓読の研究の視点の結果として接尾語説を出している点で、たいへん特色がある。