受身文の理論と分類

受身文の分類と理論−松下文法を中心に−

はじめに

現在の受身文の分類研究において果たした松下大三郎の業績は、先行研究でも必ず引用されるほどである。しかし、引用される箇所にしか目が向いていないのではなかろうか。本稿では、松下大三郎の受身の論の中には、現在の最新の研究でも言われている理論の中にも、松下大三郎の著作にもその萌芽が見られる箇所があることを指摘し、松下大三郎の受身の分類と理論の研究史の中に果たした意義と役割、および指摘されえていなかった点を明らかにし、再評価を試みる。

松下大三郎−山田孝雄の批判
細江逸記−山田孝雄の継承
金田一春彦
久野すすむ−黒田成幸
益岡隆志−高見健一

松下大三郎・佐久間鼎・三上章・寺村秀夫・鈴木重幸・仁田義雄・高橋太郎・
村木新次郎・野田尚・早津恵美子・佐藤琢三
細江逸記・金田一春彦・原田信一・久野翮・黒田成幸・益岡隆志・高見健一

佐久間鼎

佐久間鼎は、三上章や松下大三郎の受身の論を引用しながら、『現代日本語の表現と語法』の中で、第一に、「本来のうけみ」として、動作者の対象となり、その処置や変化を受けたり、被る者を主格に据えて、事の次第を述べ、主格にくるのは、人間や動物、その他の「有情」のものに限られることを示している。また、第二に、「利害の受身」として、動作や事象の結果から来る間接の影響によって、主格に立つ者が、多くは迷惑を被り、被害を受ける(反対に好影響を受ける場合もある)ということを特徴とするものがあることを述べている。この「利害の受身」は、自動詞に限られるとされてきたものであるが、他動詞でも成り立つことを述べている。

三尾砂

三尾砂は、『話し言葉の文法』の中で、「せる」「させる」「れる」「られる」を弱変化の助動詞として、動詞の語尾のように扱い、弱変化動詞を作るとしている。

三上章

三上章は『現代語法序説』の中で、受身を英文法と同じく真っ向からの被害を受ける「まともな受身」とはたにいる「己」が迷惑する「はた迷惑な受身」との二つに分類した。また、日本語の場合には、
母親ニ死ナレル
子供ニ泣カレル
などのように、自動詞でも受身になると言われているが、その自動詞の中でも受身にならない「見える」「聞こえる」「(匂いが、音が)する」「要る」「似合う」「できる」「飲める」「読める」などの動詞のグループを「所動詞」と呼んでいる。これらは、現在では生成文法で「非対格自動詞」と呼ばれているものとほぼ、一致するようである。

寺村秀夫

寺村秀夫は、三上章の流れを受けて、『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』の中で、受動態というものを、影響の受け方に注目して、直接受身と間接受身というものとの二つに分類した。直接受身の例としては、
直孝ハ祖母ニ育テラレタ
アーサー王子が預言者マーリンに助けられた(こと)
をあげ、主格に立つ名詞が、述語動詞の語幹によって表される動作の直接影響を受けるものであるという意味的特徴を持ち、「(x)ガ(y)ニ〜サレル」が、「(y)ガ(x)ヲ(ニ)〜スル」という対応する能動表現を持つという構文的特徴を指摘している。また、間接受身の例としては、
直孝ハ五歳ノトキ父母ニ死ナレタ
アーサー王子が両親をラビック王に殺された(こと)
をあげ、主格補語の受ける影響が間接的であるという点と、対応する能動表現を持たないとする特徴をあげている。
この二つの分類は、三上章の「まともな受身」と「はた迷惑な受身」と呼んだものとほぼ対応すると考えてよい。



通常、「受身文」と「使役文」を表すとき、動詞は他動詞が用いられ、動作主はニ格で示され、「れる・られる」「せる・させる」で表されることが多い。
英語の受身文では、動詞は「他動詞」しか使用されない。しかし、日本語の場合、
○彼女は雨に降られた。
○私は子供に泣かれて困った。
○彼は他の人に先に合格された。
のように、受身文で「自動詞」も用いられる。そして、自動詞を用いた受身文は、被害を受けることが多く、『国語学大辞典』では「直接には他に作用を及ぼすことのないはずの動作の影響を、あたかも他動詞の直接影響を受けたのと同様に感ずる者を主語とする表現」として、
○あの二人は旅行の間中雨に降られたそうだ。
○そこに立たれるとみえない。
○春は霞にたなびかれ、・・。(古今・雑体)
○・・など定めつるかひもなく先立たれにたればいふかひなくてあるほどに、・・。(蜻蛉・下)
○などの例をあげ、「自動詞による極めて心情的な受身」とし、「迷惑の受身と称されるが良い意味の場合もある」としている。
松下大三郎(1930)では、受身文を被動として、
利害の被動
単純の被動
可能の被動
価値の被動
自然の被動
と分類した。
さて、「迷惑の受身」という名付け方をした最初の論文、すなわち、今泉忠義・宮地幸一(1950)では、自動詞・他動詞という動詞の分類ではなく意味的に、
○えさをくれるむすめには足でけとばされた。
○悪口をいわれるばかりでなく、・・。
○足をふまれておこっている女の人もありました。
など小学校の「国語」から多くの例をあげ、「迷惑の受身」と名付けている。ただし、すでに指摘されているように、
○私は周りの人から喜ばれた。
○そんなに嬉しがられると、こちらもうれしくなる。
といった「利益」を表す例も見られるため、「迷惑」と言い切ることはできない。この点について、今泉忠義・宮地幸一(1950)では、次のように述べている。
常に迷惑する場合の表現に用ゐられるのではありません。・・(中略)・・ただ迷惑を受ける場合にかういふ受身を用ゐることが多いといふだけであります。
その上で、
○大きなる木の風に吹き倒されて、・・。(枕草子
○このきはに立てたる屏風も、端の方おしたたまれたるに、・・。(源氏物語・空蝉)
のように「非情の受身」にもなっており、古典においても数少ないと思われる「迷惑の受身」の例を示して、「伝統的な在来のもの」としている。つまり、「迷惑の受身固有説」と主張している。
また、鈴木重幸(1972)では「迷惑の受身」とせずに、次のように分類している。
○花子が太郎に殴られた。(直接受身)
→太郎が花子をなぐった。
○太郎がのら犬にかみつかれた。(相手の受身)
→のら犬が太郎にかみついた。
○太郎がすりに財布をすられた。(持主の受身)
→すりが太郎の財布をすった。
○私たちは隣の息子に一晩中レコードをかけられた。(第三者の受身)
→隣の息子が一晩中レコードをかけた。
この分類は受身文を四分類しており、意味でのとらえ方の他に、能動文からの展開(変形)のとらえ方をしている。こういった意味による分類の他に、寺村秀夫(1982)や奥津敬一郎(1987)のように「ニ格」「ヲ格」に注目した分類がある。
三上章(1953)は、権田直助の
一、おのづから然る
二、みづから然する
三、ものを然する
を参照し、動詞の自他という視点の他に、受身が成立する動詞(能動詞)、受身が成立しない動詞(所動詞)という視点で動詞を分類している。つまり、
一、おのづから然る・・所動詞
二、みづから然する(自動詞)・・能動詞
三、ものを然する(他動詞)・・能動詞
とした。さらに受身文を、
まともな受身(普通の受身)
はた迷惑の受身(自動詞の受身)
と分類している。
寺村秀夫(1982)は、次のように分類し、この分類は奥津敬一郎(1987)や高見健一(1995)でも用いられ、一般的になっている。
♢直接受身表現
XガYニ/ヲ〜スル→YガXニ/カラ〜サレル
♢間接受身表現
WガXニ〜サレル
WガXニYヲ〜サレル
*Wは能動表現にはなかったが、第三者的であったものが、受動文になったときに主語として生じたものである。
*Yヲの「ヲ格」は能動文でもそのままの形で「ヲ格」として存在していたものである。
この分類でいくと、鈴木重幸(1972)の「直接受身」と「相手の受身」は「直接受動表現」になり、「持ち主の受身」と「第三者の受身」は「間接受動表現」ということになる。間接受身の定義付けにはさまざまなものがあるが、この寺村秀夫(1982)の考えが広く用いられており、理解しやすい。
益岡隆志(1991a・1991b)は、「ある対象について、その属性をのべる文」(属性叙述受動文)と、「個別的な出来事を問題にする文」(事象叙述の受動文)とに二大別し、「事象叙述の受動文」を「ある出来事から主体が何らかの影響を受けるという事態を表す文」(受影受動文)と「動作の背景化が受動化の動機となる文」(降格受動文)とに分け、「受影受動文」の中で「主体の関与の仕方が極めて間接的なもの」を「間接受身文」としている。以下、分類と例文とを示してみる。

♢属性叙述受動文
花子の家は高層ビルに囲まれている。
XはYに含まれる。
この商品は多くの人に親しまれている。
鈴木さんは陶芸家として知られている。
♢事象叙述の受動文
A受影受動文
私はそのことで親に叱られた。
太郎は電車の中で隣の人に足を踏まれた。
花子は子供に泣かれて、よく寝られなかった。(間接受動文)
鈴木さんは部下に突然辞められた。(間接受動文)
B降格受動文
答案用紙が回収された。(←答案用紙を回収する。)
会場の近くに臨時の休憩所が作られた。(←休憩所を作る。)
代表国が現地に派遣された。(←代表国を派遣する。)

次に使役文の分類について見てみることとする。青木伶子(1980)では、使役を次のように三分類で述べている。

1「させ手」の意志が「なし手」の意志に反して強い場合
○遊びたがる子供を風呂にはいらせる。
○わが岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ(萬葉集・104)
2「させ手」の意志が「なし手」の意志に反しない場合で許可の意味になる
○交替に休憩させる。
○君にも読ませてやる。
○この頃ばかりだに事なくうつし心にあらせ給へと念じ給ふ。(源氏物語・真木柱)
3「させ手」には積極的な意志がなく、「なし手」の行為を妨げない場合で、放任の意味が生ずる。
○幼児を外で遊ばせておく。
○何時までも寝かせておく。
○白散を・・風に吹きならさせて海に入れてえ飲まずなりぬる。(土佐日記
○この人をむなしく死なせてむ事のいみじく思さるるにそへて、・・。(源氏物語・夕顔)

使役文においては、動作主(なし手)は「ヲ格」や「ニ格」で表され、「ヲ格」は「強制」の意味で、「ニ格」は「許容」の意味を表すとされるが、小池清治他(1997)では、
○母は子どもを好きなように遊ばせた。(「ヲ格」でも許容の意)
○兄は嫌がる弟に無理やり歩かせた。(「ニ格」でも許容の意)
をあげ、使役文の「ヲ格」は「強制」、「ニ格」は「許容」の意味を表すのは大まかな傾向にすぎないとしている。この点については、奥津敬一郎(1987)が動詞の自他の点で使役を述べる際に指摘している。
益岡隆志・田窪行則(1992)は、格関係と動詞の自他に注目して、次のように文型としてとらえている。

1ガ格+ニ格+ヲ格+動詞の使役形(他動詞からの使役)
※ガ格は使役の主体、ニ格は動きの主体を示す
太郎が弟に荷物を運ばせた。
私に食事代を払わせてください。
2ガ格+ニ・ヲ格+動詞の使役形(自動詞からの使役)
※ガ格は使役の主体、ニ・ヲ格は動きの主体を示す。
花子は長女に・を買物に行かせた。

参考文献
今泉忠義・宮地幸一(1950)「受身の表現』『現代国語法・四』有精堂
三上章(1953)『現代語法序説』くろしお出版
鈴木重幸(1972)『日本語文法・形態論』むぎ書房
青木伶子(1980)「使役」『国語学大辞典』東京堂出版
寺村秀夫(1982)『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』くろしお出版
奥津敬一郎(1987)「使役と受身の表現」『国文法講座・6巻』明治書院
益岡隆志(1991a)「受動表現と主観性」『日本語のヴォイスと他動性』くろしお出版
益岡隆志(1991b)『モダリティの文法』くろしお出版
益岡隆志・田窪行則(1992)『基礎日本語文法−改訂版』くろしお出版
高見健一(1995)『機能的構文論による日英比較』くろしお出版
小池清治他(1997)『日本語学キーワード事典』朝倉書店