『太平記』叙述の思想的立場

こんにちは。
戦前はよく読まれていたのに、戦後は読む機会の少なくなった作品のひとつに、『太平記』があります。かつて、私が書いたレポートのデータが残っていたので、掲載してみます。

太平記』叙述の思想的立場

 『太平記』は、南北朝時代の軍記物語で、四〇巻である。後醍醐天皇の即位した文保二年(一三一八年)から、後村上天皇の正平二年(一三六七)までの約五〇年間の動乱を通して、治乱興亡の様相を、太平を主題として描いたものである。
 『平家物語』に比べて、合戦の部分が多く、とりわけ、敗者の姿の悲惨さや、下剋上が一般的風潮になっていることを作者が嘆いており、道義を求めていることなどが、内容上の特色としてあげられる。
 室町時代には物語僧が、江戸時代には浪人たちが門づけ・辻軍談として語り、これらの太平記読みによって、『太平記』は広く庶民にも親しまれることになった。
 文章は、華麗な美文調の和漢混交文で、特に道行文は、洗練されている。史学でも史料とされている。例えば、『国史辞典』では、
 『太平記』は、仏教的な雰囲気から脱して、儒教的なものに近づき、しばしば『史  記』を引いて歴史の動きを意味づけ、政治を論じている。…中略…『太平記』の記述 には、史実の誤認や実在のさだかでない人物の活動など、軍記物語特有の誇張や曲筆 はあるものの、時代の本質をよく伝える部分も少なくなく、内乱期の社会や思想の動 きを考える上で、かけがえのない豊かな内容を持つ文献であることが認められるようになり、近年基礎的な研究が盛んになりつつある。
と記述されている。
 一般に、作者の思想・政道観がもっとも明確に現れているのは、巻三十七の「北野通夜物語」であるといわれているが、このことについて長谷川端氏は、
序および巻一の発端部に現れている作者の歴史把握の方法あるいは歴史意識と同質だと考えられる。
と述べている。したがって、序・巻一・巻三十七を軸に、思想的立場を見ていくことにする。序の部分には、
 …明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不   持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。…。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取 誡於既往乎。
とあり、君主に徳があることが大事で、徳がない例として、夏の桀王と殷の紂王の例をあげている。そして、天下を治める政法を、後代に教えているのだから、過去を顧みて、聖人の政法を行うのがいいのに、どうしてしないのだろうかとしている。なお、ここでの聖人は、周公や孔子をさし、政法を後代に教えている書物は、四書五経の類だと考えられ、かなり儒教徳治主義の影響を受けていることがわかる。
 巻一の発端を見ると、承久の乱後の北条氏の仁政、北条高時の暴虐、後醍醐天皇の徳の高いことを述べたのち、その後醍醐天皇への次のような批評が目にとまる。それは、
 誠ニ理世安民ノ政、若機巧ニ付テ是ヲ見バ、命世亜聖ノ才トモ称ジツベシ。惟恨ラク ハ斉桓覇ヲ行、楚人弓ヲ遺シニ、叡慮少キ似タル事ヲ。是則所以草創雖並一天守文不 越三載也。
とあり、後醍醐天皇が覇者的で狭量であったために、天下を維持するのが三年を越えなかったとしている。つまり、権謀や武力で国を治めるという覇道を批判しているのである。逆に、王道をよしとしているとも言いうるであろう。
 次に巻三十七(岩波日本古典文学大系では巻三十五)の「北野通夜物語」を見ていくこととする。「北野通夜物語」は、はじめの方に、思想的立場がとかれている。引用すると、
 …其故ハ、君ハ以民為体、民ハ以食為命、夫穀尽ヌレバ民窮シ、民窮スレバ年貢ヲ備 事ナシ。疲馬ノ鞭ヲ如不恐、王化ヲモ不恐、利潤ヲ先トシテ常ニ非法ヲ行フ。民ノ誤 ル処ハ吏ノ科也。吏ノ不善ハ国王ニ帰ス。君良臣ヲ不撰、貪利輩ヲ用レバ暴虎ヲ恣ニ シテ、百姓ヲシヘタゲリ。民ノ憂ヘ天ニ昇テ災変ヲナス。災変起レバ国土乱ル。是上 不慎下慢ル故也。国土若乱レバ、君何安カラン。百姓荼毒シテ四海逆浪ヲナス。…
と、坂東聲ナル遁世者が、語っている部分によく見ることができる。つまり、人民を官吏が無謀なことをやって、いためつけると、君主にすべて、その責任がかかっていくというのである。さらに、人民の苦しみが天に昇って天変地異が起こり、国土が乱れ、戦乱が起こってしまうというのである。そして結果として、君主は安心してその地位にとどまっていられなくなるのである。その例として、
 湯武ハ火ニ投身、桃林ノ社ニ祭リ、大宗呑蝗、命園囿ノ間ニ任ス。己ヲ責テ天意ニ  叶、撫民地声ヲ顧給ヘト也。則知又王者ノ憂楽ハ衆ト同カリケリト云事ヲ、白楽天モ 書置侍リキ。
と述べていて、人民あっての君主ということを中国の例を引いて述べ、南北朝の動乱についての原因を述べている。ここでも覇道ということを批判しているのである。
 全体を通してみると、思想的立場として儒教徳治主義があり、覇道をしりぞけているということができそうである。南北朝の動乱なども、覇道政治が原因となっていると見ているのである。
(参考文献)
長谷川端(一九八三)「太平記」『研究資料日本古典文学②歴史・歴史物語・軍記』明治書院
大隈和雄(一九八七)「太平記」『国史辞典』吉川弘文館