古文の主語1

 こんばんは。今回から、何回かに分けて古文の主語について述べていきます。かたい論文調で書いてみますね。

  主語の判定

 古代日本語の文章の主語の判定は、大切なものである。そのため、現在では主語の判定法について、受験参考書などでも詳しく説かれるようになってきた。予備校や高等学校の現場で多く使われて影響を与えてきた石井秀夫氏は、どのように主語をとらえているのであろうか。石井秀夫氏の『文章吟味の公式』(聖文社)では、「主語や動作主体の見分け方」として、
  ○述語は文末にくることが多い。述語を手がかりに一文の主語を求めよ。
  ○主語・動作主体が明示されている場合もある。
  ○主語・動作主体が省略されている場合が多い。文脈から判断する。
  ○接続助詞「ば・を・に」などをはさんで、上下の主語が転換することが多い。
  ○接続助詞「て」をはさんで、上下の主語が転換することがある。
  ○接続助詞「ど・ども」などをはさんで、上下の主語が転換することが多い。
  ○登場人物は、最高敬語、ふつうの敬語、敬語なしのいずれであるかをまず明らか   にし、それによって主語を判定せよ。
  ○天皇上皇中宮などには、二重敬語を含めて最高の待遇をする。最高敬語の主   語は皇室関係者。ただし、一つだけの待遇もある。
  ○『枕草子』で地の文に二重敬語がついているのは、天皇中宮定子のほかは関白   になった道隆・道長ぐらいである。
  ○『源氏物語』では、光源氏に地の文で二重敬語をつけるのはかなり後のこと、敬   語は一つと考えよ。
  ○『源氏物語』で、地の文中に二重敬語があったら、その主語は天皇であると考え   よ。
  ○「は」となっていても主語となるとは限らない。
 のように、十二の公式にまとめられている。以下、その公式を参考に現在、予備校の現場で示されている主語についての事柄の要点をまとめてみることとする。なお、現在では、主語のルールの集大成的な事柄を書いたものとして、富井健二氏の『古文読解をはじめからていねいに』(東進ブックス)をあげることができる。
 第一に、古文では主語を示す助詞の「は・が」が省略されることが多い。したがって、
  ○悪人(は)なほ往生す。いかに況んや、善人をや。『歎異抄
  ○秋(が)来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
   『古今和歌集
のように、主語を示す「は・が」を補って口語訳する必要がある。関谷浩氏の『古文解釈の方法』(駿台文庫)では、「現代語の『は』は、『が』『を』の意味を背後に持っているので、『が』で強すぎるなら『は』としてもよい」と述べている。また、主語を示す「の」にも注意が必要で、
  ○雪の(=が)降りたるはいふべきにあらず。『枕草子
のように、主格の「の」に気をつける必要がある。
 森野宗明氏は『古文標準問題精講』(旺文社)の中で、「主語の現れ方」として、
  1体言だけ
  2体言+格助詞の・が
  3体言+副助詞・係助詞
  4準体用法としての連体形
  5連体形+格助詞が
  6連体形+副助詞・係助詞
のように、六項目に整理し、「2と5は連体修飾語で、それ以外は連用修飾語の場合もあるので注意する」と述べている。
 第二に、前の文での主語が、次の文でも同じ主語として継続されるために、文脈上、省略されることも多いことがあげられる。例えば、
  ○人のもとに宮仕へしてある生侍ありけり。(その生侍は)することのなきまま    に、清水に人真似して、千度詣で二度ぞしたりける。『宇治拾遺物語
のような例である。
 第三に、接続助詞の「て」「で」「つつ」の前後は、例えば、
  ○枝(が)細くて咲きたる。『枕草子
  ○(私たち一行は)粟津にとどまりて、師走の二日、京に入る。『更級日記
のように、主語が同じことが多いのだが、主語が変わることもある。桑原聡・柳田緑氏の『これでわかる古文漢文』(文英堂)によると、「て」の前後で主語が変わるのは、「て」が原因理由の「ので・から」の意味になるときであると説明されている。例えば、
  ○(私は)住む館より出でて、(私は)船に乗るべきところへ渡る。『土佐日記
  ○ おのおの(=それぞれの人は)拝みて、(それぞれの人は)ゆゆしく信お
   こしたり。『徒然草
のように、「て」の前後では主語が同じことが多い。しかし、
  ○(あたりが)いと暗くなりて、三条の宮の西なる所に着きぬ。『落窪物語
  ○また、別当資朝、蔵人内記俊基、同じように(資朝と俊基は)武家にとらへられて、(幕府方では)きびしくたづね問ひ、守りさわぐ。『増鏡』
のように、「て」が「ので・から」などの原因・理由を示す場合には、主語の転換が起こる。しかし、この説明で「て」の例外を説明するのは、生徒からの質問で切り抜けるのには有効であるが、やや強引であることは否めない。
 第四に、接続助詞の「ば(已然形接続)」「を」「に」「が」「ど」の前後は、
  ○(かぐや姫は)いと幼ければ、(竹取の翁は)籠に入れて養ふ。『竹取物語
のように、主語が変わることが多いのだが、主語が変わらないこともある。桑原聡・柳田緑氏の『これでわかる古文漢文』(文英堂)では、主語が変わらないときの「ば」は、心情語の下に「ば」が付いた場合であると説明している。例えば、
  ○(この鳥は)京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。『伊勢物語
のように、「ば」の前後では主語が転換しているが、
  ○(私は)悩ましく思ひければ、(私は)寝たり。『蜻蛉日記
のように、心情語の下に「ば」が下接していれば、主語が転換せず、同一である。
 第五に、日記・随筆・評論・和歌では、わかりきった主語は省略され、文章中に作者が登場する。主語の書かれていない心情語や謙譲語の主語は、作者であることが多く、会話文での謙譲語と丁寧語の書かれていない主語は、一人称の「私」あるいは二人称の「あなた」になることが多いことがあげられる。例えば、
  ○(私は)さればよと思ふに、ありしよりもけにものぞ悲しき。『蜻蛉日記
  ○「それは人にしたがひてこそ」と(私は)申せば、『蜻蛉日記
  ○御几帳へだてて(私は)よそに見やりたてまつるだにはづかしかりつる       に、・・。『枕草子
のように、日記や随筆で主語の書かれていない心情語や謙譲語の主語は、いずれも一人称主語である。謙譲語は「対象尊敬」とした時枝誠記氏の説よりも、読解で主語判定としては、謙譲語は「一人称主語」とした山田孝雄氏の説のほうが有効であることを示しているのであろう。
 また、塚原鉄雄氏は、『国語構文の成分機構』(新典社)の中で、
  王朝初期の仮名文学では、転換する主語は、述語が、作者の行動を表現する場合に  限定して、省略されるに過ぎなかった。けれども、時代の下降に伴って、爾他の人  称にも、波及するようになった。
と史的変遷について言及している。
 第六に、尊敬語の有無で主語が判断できることも多い。例えば、
  ○もはらさやうの宮仕へつかうまつらじと(私は)思ふを、(竹取の翁は)強ひて   仕うまつらせ給はば、(私は)消え失せなむず。『竹取物語
  ○「少納言よ、香炉峰の雪はいかならむ」と(中宮は様は)仰せらるれば、(私は   女官に)御格子あげさせて、(私は)御簾を高くあげたれば、(中宮様は)笑は   せたまふ。『枕草子
の例をあげることができる。この法則は、基本的なもので、森野宗明氏も『古文標準問題精講』(旺文社)の中で、
 人事に関する叙述では、述語における敬語の有無、使用されている敬語の用法が、主語をわりだす重要な手がかりになる。・・<中略>・・もちろん、動詞の意味や場面なども多角的にみる必要があるが、敬語の知識をまずゆたかにし、それを活用したい。
と述べ、「せ・させ給ふ」対「給ふ」という敬意の度の大小の例として、
  ○その年の夏、御息所、はかなき心地にわづらひて、まかでなむとし給ふを、(帝   は)いとまさらに許させ給はず。年ごろ、(御息心は)つねのあつしさになり給   へれば、御目なれて、「なほ、しばしこころみよ」とのみ(帝は)のたまはする   に、(御息心は)日日に重り給ひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母    君、泣く泣く奏して、(母君は)まかでさせ奉り給ふ。『源氏物語
をあげている。
 ただし、塚原鉄雄氏は、『国語構文の成分機構』(新典社)の中で、
一体、敬語法が、客観的な身分関係に基づいて用いられるようになるのは、天皇などに対する「絶対敬語』を除けば、中世以降である。それまでは、客観的な条件も、無論、考慮されるけれども、主観的な相対的評価に、よりウエイトが置かれたのである。
と述べており、敬語にとらわれすぎるのは注意が必要である。
 第七に、家来や侍女などの身分の低い人は、主語として提示されないことも多い。例えば、
  ○おそく出でて、(舟の運行の関係者が)「明日も日暮れぬべし」と言へば、
   夜もすがら舟を漕ぐに、二十日のつきなれば、・・。『中務内侍日記』
のような例があげられる。これらは、むしろ、古文常識や古文の精神的理解としたほうがよいものであるが、生徒に説明しておいたほうがよいであろう。