方法論としての古文解釈

おはようございます。私の国語教育の論文に「方法論としての和歌解釈」があります。その続編を書こうと思い、途中まで書いてみました。まだ、書きかけですが、参考になれば、幸いです。



○方法論として古文解釈

  古文解釈の基礎とは何か

 「古文の基礎とは何か」と問われたら、「古文解釈」がすぐに思い浮かぶ。そして、「古文解釈の基礎」としては、主に「重要語」「助詞」「助動詞」の三つを柱としているといってよいであろう。
論者は、カルチャー講座の講義の際に、この三つのことを痛感している。講座の受講生は、学生時代に学校文法の指導を受けた際、用言や助動詞の活用の暗記を課せられて、読解に生かすというレベルにまで到達できずに、文法で痛めつけられたという思い出があるケースが目立つ。逆に、文法無視で、なぜその口語訳になるのかわからずに読んできてしまったケースも多くみられる。どちらにせよ、「文法」が心の中に引っかかっているのである。このあたりに、文法と解釈とを結び付けることの難しさがあると思う。例えば、次のような「花咲く」「鳥飛ぶ」などの基本例文を並べてみて、「む」「らむ」「けむ」の口語訳の違いを説明すると、助動詞の重要性がわかるようである。
○花咲かむ(花が咲くだろう)
○鳥飛ばむ(鳥が飛ぶだろう)
○花咲くらむ(花が咲いているだろう)
○鳥飛ぶらむ(鳥が飛んでいるだろう)
○花咲きけむ(花が咲いただろう)
  ○鳥飛びけむ(鳥が飛んだだろう)
これらの例文の要領で助動詞の訳し方を中心に説明すると、大概は解釈としての文法が理解できるようである。この方法で同様に、中学生の講義でも試してみたところ、たいへん有効であった。つまり、助動詞の活用や接続などの前に、助動詞の口語訳の仕方から説明するのである。その意味で『あゆひ抄』の中で、助動詞・助詞にあたる部分に口語訳をつけたことは、注目に値する。口語訳としての文法を目指すには、助動詞・助詞の口語訳の練習を行い、その上で活用変化などを指導するのが有効である。このように助動詞・助詞の口語訳の仕方を学んだ上で、文脈に応じて主格や目的格にあたるものを補うように指導するとさらに理解がしやすいと言える。
『大和物語』の研究者であった高橋正治氏は大学受験生向きの学習参考書も書いており、その著書の一つに、『古文読解教則』(駿台文庫)がある。この本は、著者がピアノを習った経験から、ピアノのバイエルに相当するものを、古文版のバイエルとして作成したと前書きに書かれている。この本は、まさに訳し方を学ばせる視点で書いた、文法と解釈とを結び付ける本である。古文文法の細かい説明は必要最低限にして例文を示し、その例文には解釈する際の文法的な事項の訳出箇所に傍線が引かれており、その箇所に注目しながら例文と口語訳を読めば、自然と口語訳の仕方を習得することができるように構成されている。これなどは、近世の富士谷成章の『あゆひ抄』の流れを汲むものとして、特色ある指導法であると思う。この本の例文は、主に古代と中世の文章から採録されており、生徒には少し高級なので、もう少しわかりやすい例文にする必要はあるといえるが、社会人・高校生・中学生にもたいへん有効である。
この段階を経た上で、古文解釈を解く学習参考書を用いるとよいのではないだろうか。高校や予備校の現場で使用されてきた、村上本二郎氏の『古典文解釈の公式』(学研)や石井秀夫氏『文章吟味の公式』(聖文社)などの著作でも、「重要語」「助詞」「助動詞」の三つを中心に丹念に書かれており、古くは富士谷成章も『あゆひ抄』の中で、助動詞・助詞に訳出を中心に古文の口語訳の技術を書き記している。また、小西甚一氏は『古文研究法』(洛陽社)の中で、「精神的理解」という項目を立て、全体の三分の一を使って背景知識の必要性を説いた点は画期的であった。現在では、この小西甚一氏のいう、「精神的理解」は「古文の背景知識」や「古文常識」などの名称で呼ばれることが多くなっている。

係り結びの重要性

古文の入門期に中学校・高等学校において、必ずといってよいほど係り結びの法則について学ぶ。しかし、強調表現(プロミネンス)として「ぞ(そ)・なむ(なん・なも)・や・か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶといっておくだけでよいのだろうか。もう少し、係り結びを利用した古文読解を目指してもよいのではないだろうか。まず、口語訳はどうするのか。次に、強調とは具体的に文章の中ではどのように用いられてくるのかといった問題がある。さらには、結びの流れも理解しにくいものである。実際に予備校で生徒から繰り返し受けた質問をもとに考えてみる。
係助詞の口語訳については、「特に口語訳しない」としてある文法書が一般的である。しかし、古文を読解する上では、無駄な言葉はなく、できるかぎり口語訳したいというのが本音のところである。また、生徒も係助詞の口語訳について質問に来る場合が多い。そこで、係助詞の「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」についての口語訳の仕方を示したものとして、国語教育の上で有益なものとして、大野晋氏の『古典文法質問箱』(角川文庫)と望月光氏の『古典文法講義の実況中継・上下』(語学春秋社)をあげることができる。
大野晋氏は『古典文法質問箱』の中でこの係り結びの口語訳の仕方を取り上げ、「ぞ」「なむ」「こそ」を、「ほんとに」「ねえ」などと口語訳して、うまくいかないときは、無理に口語訳しないことを勧めている。また、『常用国語便覧』(浜島書店)では、「ぞ・なむ」は強い指示で「こそ」、「こそ」は強意で「まことに」と口語訳している。塚原鉄雄氏は『新講古典文法』では、「ぞ・なむ」を「はまあ」とし、「こそ」を「こそ・実に・まったく」と口語訳している。
望月光氏は、『古典文法講義の実況中継』の中では、無理に口語訳せずに、自然に口語訳する方針をとっている。すなわち、「ぞ・なむ・こそ」を「は・が・を」で口語訳するのである。この方針でいくと、
水なむ飲む(水を飲む)
花こそ咲け(花は・が咲く)
我ぞ行く(私は・が行く)
となり、「係り結びの口語訳をどうしたらよいか」「口語訳しないのも不安だ」という生徒も安心するようで、たいへん国語教育の上では有効である。ただし、「は」と口語訳するか「が」と口語訳するかについての質問が出ることも多い。細かい点を置いておくのなら、「は」でも「が」でもどちらでもよいのだが、日本語教育や日本語学で用いられている考え方を使うと、新情報には「が」を、旧情報には「は」を使うとすればよいであろう。もうすこし、踏み込んで扱うのなら、「は」と似た機能をもつ「が」の用法について論じたものに、野田尚史氏の『「は」と「が」』(くろしお出版)があるので参考になる。この中で野田尚史氏は、排他の「が」と対比の「は」を似たものとしており、構造的に対比の「は」と排他の「が」を、
〇【伝えたいこと】が【主題】
〇【主題】は【伝えたいこと】
としている。たとえば、「あいつが許せない」だと、許せないのは、あいつであり、他の人ではないことを示し、「あいつは許せない」だと、あいつについて許せるか許せないかと考えると「許せない」になり、他の人について考えると「許せない」ことになる。一般に、「は」は「取り立て」といわれているので、その考え方で説明しておいてもよいであろう。
また、関谷浩氏は『古文解釈の方法』(駿台文庫)の中で、
係助詞『ぞ・なむ・こそ』は現代語では『は』となる。または、係助詞を口語訳しないで『ガ』『ヲ』を入れる。
と述べている。つまり、「は」と口語訳して、多少通りが悪ければ、「が」「を」と口語訳することを意味しているのである。
「係り結びの省略」の典型的なものは、
  ○徳の至れりけるにや。『徒然草
のように、「にや・にか」とあったら「あらむ」、「にこそ」とあったら「あらめ」を補うというものがある。(ただし、疑いの意味合いが薄ければ、「にや・にか」とあったら「ある」、「にこそ」とあったら「あれ」を補う。他に、「ありけむ」「ありけめ」もあるし、文体によっては「侍らむ」「侍らめ」「侍りけむ」「侍りけめ」もある。)
これに対して、結びの省略は、わかりにくい。むしろ図式化して、接続助詞によって結びが流されることが多いことに注目して、
―係助詞―結びになるはずの部分+接続助詞、
と整理したほうが、わかりやすであろう。このようにすれば、結びの流れの例文で使われる、『徒然草』の
たとひ耳・鼻こそ切れ失すとも、『徒然草
というところも、きれいに説明できるので、図式化を用いると有効で、生徒も理解しやすいようである。
「こそ」を用いて、已然形で結ぶ通常の係り結びと違い、一種のはさみこみ(挿入句)になっているのが逆接強調法の特徴である。図式化して、「―こそ―已然形、」と捉えるとよいであろう。逆接強調法のの例で使われる、
中垣こそあれ、『土佐日記
などもきれいに説明できる。
「はさみこみ(挿入句)」を提唱したのは、国語学者佐伯梅友氏である。これは、
―<―疑問語―推量、>―
の構造で、一種の独立文をつくるということである。したがって、係り結びも当然成立することになる。このあたりは、質問の多いところである。
疑問も、「か」だけでなく、
  ○御心や乱れ給はむ。『大鏡
のように、下に推量を伴ったときには「かもしれない」という口語訳が使われることにも注意しておきたいものである。
反語には、主に三つの口語訳の仕方がある。一つ目は、「―か、いや―」と口語訳するものであり、記述で口語訳するときに用いられる。二つ目は、「いや―」の「―」の部分だけを口語訳するもので、入試問題ではマーク式の設問などでよく使われる。三つ目は、「―ものか」と口語訳するもので最近はあまり見かけないが、たいへんセンスのある口語訳である。
反語をどのように考えるかであるが、疑問の強まったものが反語と考えておくとよいであろう。例えば、「やは」「かは」「疑問語+か」などである。あとは、文脈でたどるには、反語の場合は答えを要求しない主張文になるので、答えを要求するのが疑問で、答えを要求しないで主張するのが反語と考えてもよいであろう。このように考えておくと、漢文訓読の際、疑問で読むか反語で読むかの基準としても有効である。また、
  ○このごろかかる犬やはありく。『枕草子
では、結論が否定になり、
  ○折にふれば、何かはあはれならざらむ。『徒然草
では、結論が肯定になることにも注意が必要である。
また、「ぞ」「こそ」に関連した、「もぞ」「もこそ」も係り結びにはなるので係り結びの用法と考えてよい。しかし、
○門よくさしてよ。雨もぞ降る。『徒然草
○烏もこそ見つくれ。『源氏物語
○人、あやしと見とがめもこそすれ。『源氏物語
などのように不安や危惧を示すので、慣用句的に指導する必要もある。
係り結びは、強調表現には違いないので、筆者や会話文の発話者の主張が読み取れるということは、文章読解では重要なことであろう。文法的には、古文と現代語との決定的な違いは、係り結びの有無にあるということも生徒には伝えて認識させたいところである。

  古文重要語

古文の重要語は、単純暗記ではなく、語源や微妙なニュアンスなどを説明した上で、理解するようにしてから記憶するほうがよいであろう。そのほうが定着率がよい。単純暗記は、忘れることが多いため、例文などでじっくりと読み込むことが大切である。例文が付いていることが古文重要語を扱うものとしては、大切であろう。

結び

本稿で述べたかったことは、主に二つある。第一に、古文の解釈は文法と口語訳が結びついていなければならないので、整合性をはかる文法の指導が必要である。文法をやっても、口語訳できないのでは、無機的なものとなってしまうからである。第二に、主語を見抜く基本は、述語をみてから判定することを原則として指導し、テクニック的なものは補足で説明する程度にすることが必要であるということである。非学問的な公式を押し付けず、じっくりと真摯に古文をアプローチチする態度が、指導する側にも必要ではないだろうか。

(引用文献)
佐伯梅友(一九五三)「はさみこみ」『国語国文』二十二巻一号
塚原鉄雄(一九八七)『新講古典文法』新典社
望月光(一九九四)『古典文法講義の実況中継』語学春秋社
野田尚(一九九六)『「は」と「が」』くろしお出版
大野晋(一九九八)『古典文法質問箱』角川文庫
加藤道理(一九九九)『常用国語便覧』浜島書店
小西甚一(一九五五)『古文研究法』洛陽社
村上本二郎(一九六六)『古典文解釈の公式』学研
森野宗明(一九七一)『古文標準問題精講』旺文社
石井秀夫(一九八一)『文型の公式』聖文社
石井秀夫(一九八五)『文章吟味の公式』聖文社
高橋正治(一九八八)『古文読解教則本駿台文庫
関谷浩(一九九〇)『古文解釈の方法』駿台文庫
小松英雄(一九九七)『仮名文の構文原理』笠間書院