文法教育としての受身

文法教育としての受身

岡田 誠

はじめに

本稿では、中学生・高校生・社会人を対象とした文法教育を、受身の場合を例にとりあげて考察するものである。その際、従来の国語教育における文法の教授法でわかりにくい箇所を日本語学・日本語教育の先行研究から眺めたとき、わかりやすい教授法が導き出せることを示し、国語教育にも、日本語学・日本語教育の視点を導入する必要性を述べることとする。その一方で、日本語教育で使われている受身に関する論についても、国語教育や日本語学の視点を取り入れることで、わかりやすい指導法が示せるのではないかということを述べるものである。扱うテーマは以下の四つである。
1.受身動詞と使役動詞
2.「可能動詞」と「ら抜きことば」の指導法
3「間接受身」の定義付け
4.「る・らる・れる・られる」の指導法


1.受身動詞と使役動詞

1.1現代語

自動詞と他動詞によって表される意味として、「受身」と「使役」とがある。例えば、
○その学生は警察につかまった。
○子どもは母親からお使いを言いつかる。
○家が土砂で埋まる。
○彼は奥義を授かる。
のような例は、一語として扱われている自動詞であるが、意味としては何らかの影響を受ける受身文である。また、
○私は彼を慰めた。
○子どもをバスから降ろす。
○山田が鉄の棒を曲げる。
○部長は人を動かすのが得意だ。
のように、一語として扱われている他動詞であるが、これらは何かをさせる使役の意味を表しているものもある。
今泉忠義・宮地幸一(1950)では、佐久間鼎(1983)を参照にしながら、受身の意味を持つ語を、自他の対応の視点から表として次のようにまとめている。

掛ける 掛かる 漬ける 漬かる 言い付ける 言い付かる
儲ける 儲かる 助ける 助かる 預ける 預かる
はだける はだかる 授ける 授かる 見つける 見つかる
載つける 載つかる 負ける 負かる 受ける 受かる
上げる 上がる 下げる 下がる 曲げる 曲がる
拡げる 拡がる 転げる 転がる 当てる 当たる
茹でる 茹る 決める 決まる 縮める 縮まる
迫める 迫る 溜める 溜まる 染める 染まる
止める 止まる 留める 留まる 詰める 詰まる
嵌める 嵌まる 埋める 埋まる 始める 始まる
固める 固まる 広める 広まる 高める 高まる
集める 集まる 勤める 勤まる 挿す 挿さる
暖める 暖まる ぬくめる ぬくまる 重ねる 重なる
並べる 並ばる 合せる 合さる 寄せる 寄さる
冠せる 冠さる 混ぜる 混ざる 植ゑる 植わる
据ゑる 据わる 添える 添わる 代へる 代わる
教える 教わる 備える 備わる 加へる 加はる
終へる 終はる 慰める 慰まる 求める 求まる
省く 省かる 明ける 明かる 建てる 建たる
抜く 抜かる

野田尚史(1991)は、「せる」「させる」を用いた使役を「生産使役」、使役の意味の他動詞を用いた使役を「語彙的使役」とした。それに従うと、「れる・られる」を用いた受身は「生産受身」、受身の意味の自動詞を用いた使役は「語彙的受身」となる。さらに野田尚史(1991)は語形の点から、受身の意味の自動詞を用いた受身と使役の意味の他動詞を用いた使役を「語彙的なヴォイス」、「れる・られる」を用いた受身と「せる・させる」を用いた使役を「文法的なヴォイス」とし、さらに、それらの中間を「中間的なヴォイス」として、ヴォイスを三分類にしている。そして、「語彙的ヴォイス優先の原則」として、
文法的なヴォイスの語形、中間的なヴォイスの語形の間では、原則として、語彙的な語形が優先され、それがなければ中間的な語形、それもなければ文法的な語形が使われる。
と述べ、具体例として「する」(語彙的なヴォイス)と「ならせる」(文法的なヴォイス)、「なる」(語彙的なヴォイス)と「される」(文法的なヴォイス)を示し、
○会社がこのあたりをゴルフ場にする。(語彙的なヴォイス)
○会社がこのあたりをゴルフ場にならせる。(文法的なヴォイス)
○このあたりがゴルフ場になる。(語彙的なヴォイス)
○このあたりがゴルフ場にされる。(文法的なヴォイス)
の例で、語彙的なヴォイスが優先されることを示している。
奥津敬一郎(1987・1989)では、自動詞と他動詞の対応を考え、自動詞に対する他動詞がない場合に、「せる・させる」を用いた使役文が使用されるとしており、具体例として対応する他動詞のない「行く」「来る」に対しては、
○太郎が学校へ行く。(自動詞文)
○お母さんが太郎を学校へ行かせる。(使役文)
○雨が降る。(自動詞文)
○祈禱師が雨を降らせる。(使役文)
の例をあげ、また、対応する他動詞のある「降りる」は、
○子供がバスから降りる。(自動詞文)
○先生が子供をバスから降ろす。(他動詞文)
○先生が子供をバスから降りさせる。(使役文)
となり、他動詞と使役文とが相補的関係にあることを述べている(注1)。
この論では、使役文よりも他動詞が優先して使われるという記述となっており、野田尚史(1991)の述べた「語彙的なヴォイス優先の原則」とほぼ一致すると考えられる。

1.2古典語

古典で自動詞と他動詞の受身と使役の意味を指摘したものとしては、阪倉篤義(1966)がある。阪倉篤義(1966)は、動詞が「ゆ」「る」「す」語尾で終わっているものを「受身動詞」「使役動詞」とでも呼ぶべきものと位置付けた(注2)。次に、ヴォイスとの関連も考えられる、これらの動詞を示してみる(注3)。

○受身動詞
見ゆ  覚ゆ   射ゆ  聞ゆ  思ほゆ 絶ゆ   漬ゆ
生まる 纏はる  埋もる 襲はる 後る  引かさる
離る  気圧さる 乱る(下二段) 別る  分かる
倒る  崩る   濡る  漬る  零る  溢る   破る 頽る 紛る
○使役動詞
見す  着す   唆す  生ます  揺るがす 渡す   習はす 寄す
輝かす 動かす  回す  後らす  驚かす  押し圧す 慰む
通はす 思ひ染む 頼む(下二段)  乾かす  任す   奉る
澄ます 流す   聞こえさす    済ます  取らす  辱む  漂はす
許す  奉る(下二段)  散らす 出す    似す   悩ます もてはやす
濡らす 催す  鳴らす  あはす 慣らす   下ろす  馴らす
上す  匂はす 遣はす  轟かす 降らす   脅す   惑はす 乗す
迷はす 燃やす 廻らす  急がす 濡らす   放らかす 酔はす
働かす 腐す  恋す

1.3日本語教育

スリーエーネットワーク編(2001)『みんなの日本語・初級Ⅱ・教え方の手引き』(スリーエーネットワーク)では、次の四つの枠組みで受身文をとらえている。

1.〈人〉は〜に[〜を](ら)れます→N1はN2に受身動詞
子どものとき、よく母にしかられました。
2.〈人〉は〜に〈所有物〉を〜(ら)れます→N1はN2にN3を受身動詞
ラッシュの電車で足を踏まれました。
3.〈物〉が/は〜(ら)れます→N(物/こと)が/は受身動詞
このお寺は500年ぐらいまえに建てられました。
4.〈物〉は〜によって〜(ら)れます→N1はN2(人)によって受身動詞
飛行機はライト兄弟によって発明されました。

この枠組みは、主語を有情(1、2)と非情(3、4)とに分け、主語は有情の場合には「直接受身」(1)を軸としながら自動詞・他動詞の概念を使わずに、「迷惑の受身」「持ち主の受身」(2)を同時に発展内容として扱っていることがわかる。また、主語が非情の場合には、創造や発見を表す動詞(書く、発明する、発見するなど)を受身で用いる場合、動作主を「によって」で示している。説明の仕方として、2の「間接受身」「迷惑の受身」「持ち主の受身」の、いずれにもとれる例であり、説明に曖昧さが残る。
テキストは主語の省略を多用したものであるが、導入として主語を設定して説明をすることを行った上で、主語を省略した例文を掲載していることが理解できる。「れる・られる」が接続する形を「受身動詞」という用語で扱っているが、このことから「れる・られる」を接尾語的な意識でとらえていると考えられる。

また、スリーエーネットワーク編(2001)『みんなの日本語・初級Ⅱ・教え方の手引き』(スリーエーネットワーク)では、次の三つの枠組みで使役文については次のようにとらえている。

1.N(人)を使役動詞・・自動詞の使役文・強制・指示・許可・容認
息子をイギリスに留学させます。
2.N1(人)にN2を使役動詞・・他動詞の使役文・強制・指示・許可・容認
娘にピアノを習わせます。
3.使役動詞て形+いただけませんか
ここに車を止めさせていただけませんか。

動作主に注目した「ヲ格」と「ニ格」の使役に加えて、「使役動詞て形+いただけませんか」の形を加えている。
使役動詞という用語を用いているが、受身動詞と同様に動詞に「せる」「させる」が接続して使役動詞と考えているため、接尾語的な意識でとらえていると考えられる。しかし、「受身動詞」と「使役動詞」という用語は「れる・られる」「せる・させる」という形式を接続して成立するものではなく、一語として確実に成立しているものをさす受身性の動詞と使役性の動詞をさすのである。その意味では、用語の使い方が特殊である。他の日本語教科書や手引き書でも扱われていない用語であり、寺村秀夫(1982)も「カブル・蒙る・浴ビル・負ウ・モラウ・アズカル・授カル・等の動詞は、『受身的意味を持つ動詞』とはいえても、『動詞の受身形ではない』。」としている。その意味で、この手引書は特殊な用語を用いており、「受身動詞」「使役動詞」という用語は正しく使われているとは言い難いと考える。再考を促したい(注4)。

(注1)
ここでは例としてあがっていないが、「先生が子供をバスから降ろさせる」も使役文と考えられる。
(注2)
阪倉篤義(1966)では、「スは、その動作の影響や結果が他に向かふことを、また、ルは、それが行為者にとどまり、あるいは行為者にむかふことを、それぞれあらはすものであること、あきらかである」と述べ、次のように対応させている。
アカル  イタル  オトル  カクル  クダル  クツガヘル  サトル  トホル
  ス    ス    ス    ス    ス      ス    ス    ス
ナル   ナホル  ノコル  ノボル  ホドコル ヨル
 ス     ス    ス    ス     ス  ス
アラハル オボホル クタル  コナル  コボル  マロガル   ケガル ムラガル
ス    ス   ス    ス    ツ     ス     ス    ス
(注3)
主な索引での取り扱いの例は以下の通りである。
小路一光(1980)
「射ゆ」を一語の動詞として扱っており、これは受身動詞と考えられる。
○西下経一・滝沢貞夫(1958)
「おきまどはす」「おくらす」「きかす」「こひす」「しらす」「にほはす」「ぬらす」「はふらかす」「ふみとどろかす」「もらす」を一語動詞としてあげている。この中で「こひす」以外は使役性を持っていることから、使役動詞と考えられる。サ行派生動詞については、慶野正次(1972)が語構成論的に詳しく扱っている。
松村博司(1967)
二語扱いされやすい「生まる」を一語として扱っていることから、受身動詞と考えられる。
○上田英代・村上征勝・今西祐一郎樺島忠夫・藤田真理・上田裕一(1996)
受身の意味をなしていると思われるものは、「おそはる」「けおさる」「まつはる」「ひかさる」である。これらは受身動詞と考えられる。
(注4)
日本語教育では、「と言われている・と予想される」などの表現は扱うことは少なく、扱われていても引用の箇所で軽く触れられる程度である。しかし、実際の用例数も多いことから、受身の箇所で学習するのがよいと考える。土屋信一(1962)では、これらを「自然的可能」と述べている。なお、土屋信一(1962)であげられている例文を川村大(2004)は、「テイル形」がつく形式に注目して、「テイル」がつくものを受身、つかないものを自発としている。このことからも、受身を中心とする学習項目で扱うほうがよいのではなかろうか。
○公示をきっかけに選挙機運は一段と盛り上がりをみせると予想される。・・自発
○また同調査会会長には早大教授島田孝一氏が有力視されている。・・受身


2.「可能動詞」と「ら抜きことば」の指導法

可能動詞については、本来、四段・五段動詞から作られるものであるが、近年、四段・五段動詞以外でも作ってしまうことが多い。例えば、次のようなものである。
○見る(上一段)→見れる(本来は「見られる」)
○捨てる(下一段)→捨てれる(本来は「捨てられる」)
これらは、「ら抜けことば」や「れ足すことば」などと言われている現象である。また、文語文法の指導の際には、次のような例を一語として扱ってしまう間違いが続出するということが起きる。
○書ける人→基本形を「書ける」としてしまう。(本来は「書く」+「り」の連体形)
○読めるとき→基本形を「読める」としてしまう。(本来は「読む」+「り」の連体形)
これらの文法指導の問題点としては、次のようにまとめることができる。
1文語文法の指導の際、四段動詞の已然形+完了・存続の助動詞「り」の連体形が下接するときに、一語として扱ってしまい、可能動詞と間違いやすいということ。
2口語文法の指導の際、「れ足すことば」や「ら抜けことば」にしてしまいやすいこと。
以下、この現象を文法指導の際、どのように説明すれば理解しやすいかについて考察していくこととする。
まず、文語文法の「る」「らる」と連続する「れる」「られる」の接続についての説明を、教師用指導書として用いられている渡辺正数(1993)及び会田貞夫・中野博之・中村幸弘(2004)を参照してまとめると、以下のようになる。

「れる」は「ある」以外の五段動詞の未然形「ア段」と、サ変の未然形「さ」につき、「られる」は右以外の動詞の未然形および助動詞「せる」「させる」「たがる」の未然形につく。

次に、可能動詞についての記述の説明についても渡辺正数(1993)及び会田貞夫・中野博之・中村幸弘(2004)を参照してまとめてみると、次のようになる。

可能動詞は、「できる」という意味が加わったもので、五段活用動詞に可能を表す助動詞「れる」が付いて、「書かれる→書ける」となったものと推測される。ただし、「ある」などのように、五段活用がすべて可能動詞になるわけではない。可能動詞の活用は下一段活用動詞と同じであるが、命令形はない。可能動詞に命令形がないのは、可能の助動詞「れる」に命令形がないからである。

これらの説明は一般的な記述と言えるが、実際の生徒指導の際には、理解させることは容易ではない。他に日本語教育の立場での記述をみてみると、寺村秀夫(1982)の流れで記述している山田敏弘(2004)がある。山田敏弘(2004)では、学校文法の「書く(五段動詞)→書ける(可能の形)」「食べる(一段動詞)→食べられる(語幹+可能の助動詞)」「する(サ変動詞)→できる(特殊形)」の例をとりあげて、次のように日本語教育を生かした特色ある説明をしている。

明治時代   昭和後期
五段動詞 書かれる →     書ける
一段動詞 食べられる           →(食べれる)
今でも地方によって、また語によっては「行かれる」など五段動詞の可能形を長い形で言う人もいます。「食べれる」はいわゆるら抜きことばです。
この変化をローマ字で書くと次のようになります。
五段動詞 kak-are-ru→kak-e-ru
一段動詞 tabe-rare-ru→(tabe-re-ru)
五段動詞の「書ける」はひらがなで書く以上、語幹の母音が変わって可能動詞になったと説明するしか方法がありませんが、ローマ字書きをすればeが取り出せます。このeが五段動詞に続く可能の「助動詞」です。
また、この「書ける」は「食べれる」というら抜きの形と対応していることもよくわかります。
このような歴史的変化に加え、「する」に対しては特別な動詞「できる」を用いることから、複雑な対応をしているのです。
可能動詞という考え方は、歴史的変化のつじつま合わせです。少なくとも意志的動作を表す五段動詞にはすべてeを介した可能の形があります。この可能の形を可能動詞と呼び、これ以上切れない単位と考えるのは、ひらがなという表記法にしばられた考え方でしかありません。
(注)
○学校文法では「れる」「られる」を可能の助動詞と教えています。つまり「行かれる・食べられる」こそ正式な形ということです。
○短くなっていくのは、ほかに尊敬や受身の意味をもつ「れる・られる」の役割を1つでも減らそうとする動きと考えられます。
○一段動詞ではreという助動詞によっていわゆるら抜きの可能形ができます

この説明では、ローマ字書きすることで視点を変える見方を示している。また、ことばは変化し、システム化するという考え方をしている。しかし、この日本語教育の方法では、国語教育として、生徒に理解させることは容易ではない。むしろ、便法のようなものが必要ではないだろうか。それでは、どのように生徒に指導するのが実践的であろうか。永野賢(1958)では、次のような原則を立てることを述べ、判断を下すことを述べている。

「五段活用の動詞には、可能動詞の形がある。」「それ以外の動詞には、可能動詞の形はなく、未然形に「られる」(サ変は「れる」をつけて「される」となる)をつける。」というような原則を立てることができる。こういう原則によって、正俗の判断を下すことができるであろう。

この記述は、原則を立てることで生徒の理解のためには有益である。論者が用いている説明は、さらに便法的なものである。それは教師用指導書の類には見当たらない説明ではあるが、山田孝雄(1908)と井上史雄(1998)の説明を活用したもので、生徒に理解させるのに大変役立っている。
「ら抜けことば」の接続については、山田孝雄(1908)の未然形の音に注目する方法を採用している。すなわち、「ア音(未然形)+れる」「イ・エ・オ音(未然形)+られる」とするのである(注)。この方法を用いれば、
書く→書か(ア音)+れる→書かれる
食べる→食べ(エ音)+られる→食べられる
のように、実践的に比較的容易に理解できる。実際に生徒指導の際に用いてみると、助動詞の接続の説明を行っていなくても、比較的容易に理解できるようである。また同様に山田孝雄(1908)の方法で「ア音(未然形)+せる」「イ・エ・オ音(未然形)+させる」とすれば、
書く→書か(ア音)+せる→書かせる
食べる→食べ(エ音)+させる→食べさせる
となるので、「さ入れことば」の判定にも役立つ。
また、「る」を省くと命令形として意味が通るか否かで「可能動詞」か「ら抜けことば」なのかを判定するという、井上史雄(1998)の方法はたいへん有効で、
書ける→書け→命令形として意味が通る→「書ける」は「可能動詞」
食べれる→食べれ→命令形として意味が通らない→「食べれる」は「ら抜けことば」
となり、この方法は文法が苦手な生徒でも理解しやすく、生徒指導で大変役立っている。
また、日本語教育の立場として、萩原一彦(2008)は、可能表現として、「動詞の可能形」と「動詞(辞書形)+ことができる」の二つをあげ、「動詞の可能形」として、次のように「ラ抜き」を認めている。
5段動詞→命令形+る
1段動詞→ます形+られる(ます形+れる[話し言葉・ラ抜き])
する動詞→−できる
来る→来られる(来れる[話し言葉・ラ抜き])
また、「見える」「聞こえる」「わかる」には、もともと可能の意味が含まれているので、可能表現にはしないと述べている。日本語教育の立場は、国語教育や日本語学とはスタンスが異なるようである。
以上、「可能動詞」と「ら抜けことば」の指導法について述べてきた。本稿では、山田孝雄(1908)と井上史雄(1998)の論を活用して「可能動詞」と「ら抜けことば」を指導する有効性について述べた。

(注)
山田孝雄(1908)よりも早い段階では、近代の日本語教科書として書かれた大矢透(1902)がある。この中では、「る・らる」を動的語尾とし、終止形を「ウ韻字母」と呼び、その上で「る」を「ア韻字母」(甲則)、「らる」を「エ韻字母」(乙則)に接続すると説明し、「る」と「らる」を第一類と第二類とに分類している。


3「間接受身」の定義付け

受身文の分類説明で一般に使われるものとしては、「直接受身(中立受身)」と「間接受身」の二分類がある。そして、「直接受身」の後に「間接受身」を学習することが一般的である。
「直接受身」は「中立受身」とも呼ばれ、「AガBヲ動詞→BガAニ動詞+れる・られる」(例:兄が弟をほめる→弟が兄にほめられる)、「AガBニ動詞→BガAニ動詞+れる・られる」(例:兄が弟に反対する→弟が兄に反対される)のように構造上も説明しやすい。他に「迷惑の受身」「持ち主の受身(所有受身)」「非情の受身」が使われるが、「間接受身」の中に「迷惑の受身」「持ち主の受身」「自動詞の受身」を入れておくことが多い。
しかし、受身文の研究では、「間接受身」の定義付けが問題になっている。そこで、「間接受身」のとらえ方の代表的なものをいくつか列挙してみる。特に、今井新悟(2010)は、日本語教育だけではなく、日本語学・言語学の論文を引用しながら論じている。このように日本語学・言語学の先行研究も参考にしながら日本語教育を考えることも必要となるであろう。
○寺村秀夫(1982)
♢直接受身表現
XガYニ/ヲ〜スル→YガXニ/カラ〜サレル
♢間接受身表現
WガXニ〜サレル
WガXニYヲ〜サレル
*Wは能動表現にはなかったが、第三者的であったものが、受動文になったときに主語として生じたものである。
*Yヲの「ヲ格」は能動文でもそのままの形で「ヲ格」として存在していたものである。
→この分類は奥津敬一郎(1987)や高見健一(1995)でも用いられ、一般的になっている。
松岡弘(2000)
♢能動文にない名詞句が受身文になるタイプ。間接受身は迷惑の受身。「持ち主の受身」は主語が間接的な影響を受ける意味で間接受身の一種だが、必ずしも迷惑を意識しない。
(例)隣の人が騒ぐ→私は隣の人に騒がれる。(間接受身)
私は知らない人にいきなり頭をたたかれた。私は息子を先生にほめられてうれしかった。(持ち主の受身〜間接受身の一種)
スリーエーネットワーク編(2001)
N1はN2にN3を受身動詞
この文型はN2がN1の所有物(N3)などに対してある行為をし、その行為をN1が多くの場合迷惑に感じていることを示す。N2は人以外の動く物の場合もある。
(例)男の人がわたしの足を踏みました。→わたしは男の人に足を踏まれました。
→これらは日本語教師用の手引書であるが、寺村秀夫の枠組みを踏襲している。
○今井新悟(2010)
「間接受身」は「迷惑被害の受身・持ち主の受身・自動詞の受身」とすることが多いのに
対して、二重対格制限・ガノ交替・主格降格と参与者数・付加詞と必須項・主語尊敬構文の尊敬対象・再帰代名詞「自分」の先行詞・数量詞遊離などの統語論的視点から、「直接受身・持ち主の受身は中立の意味、間接受身は迷惑の意味」とし、「持ち主の受身」を「直接受身」に分類している。


4.「る・らる・れる・られる」の指導法

4.1接続

「る・らる・れる・られる・す・さす・せる・させる」の接続については、四段・ナ変・ラ変・の未然形に「る・れる・す・せる」がつき、それ以外の未然形には「らる・られる・さす・させる」がつくと説明され、「四ナラする、などと覚えよ」などとすることが多いが、教師用指導書として書かれた岡崎正継・大久保一男(1991)では、次のように未然形の母音に注目した特色のある説明している(注1)。

a+る・す
i・e・o+らる・さす

論者は、この方法を採用することで、生徒の理解がはやいことを実感している。この方法に従えば、「見る」なども未然形が「み」で、「る」か「らる」を使うかで迷ったときにも、「み」は「i」であるから「見らる」とすぐにつくることができる。これは漢文教育にも適応できるので、たいへん便利である。例えば訓読の際にも、「愛す」「殺す」も「愛せe」「殺さa」となり、「愛せらる」「殺さる」となるのである。これらをまとめて、次のように説明することを提唱したい。

未然形の母音がaには「る」「す」
未然形の母音がi・e・oには「らる」「さす」

このように接続のポイントを示したあとで、教科書に掲載されている接続を示すのである。

四段・ナ変・ラ変の未然形には「る」「す」
右以外の未然形には「らる」「さす」

この方法で現代語の「ラ抜きことば」も生徒にもわかりやすく説明できるのではないだろうか。つまり、「ラ」を入れるかどうか迷ったら、
i・e・oには「られる」を入れる
と説明するのである。そうすれば、「見る」は「見i」であるから、「られる」をつけて「見られる」という具合にすぐに作り出すことができる。そのため、現代語の授業でも次のように説明すると、たいへん有効である。

未然形の母音がaには「れる」「せる」
未然形の母音がi・e・oには「られる」「させる」

日本語教育では、東京外国語大学留学生日本語教育センター編(2010)のように文法的に詳しく書かれている初級テキストでも、次のように三つに区分して、動詞の活用を説明している。

○−Aないの動詞(五段動詞)
○−Iないの動詞、−Eないの動詞(一段動詞)
○不規則動詞

しかし、母音を使えば不規則動詞の部分も解消させることができ、「−Aれる」「−I・E・Oられる」という二種類に区分できるので、接続の理解が容易になるのでないだろうか。そのため、日本語教育での活用も期待したいところである。

古典と現代を統合した形でまとめると次のようになる。

a+る・らる・す・せる
i・e・o+らる・られる・さす・させる

4.2意味区分について

「る・らる」の意味区分については、古典文法教育では、次のような板書でルール化し、その上で講義をすることが多い。そのルールと例文を整理してみる。

A−(に)−る・らる(受身)
B−る・らる(可能)−打消・反語
C心情・知覚作用+る・らる(自発)
D貴人−る・らる(尊敬)
Eる・らる(受身・自発・可能)+たまふ

A−(に)−る・らる(受身)
姑に思はるる嫁の君。(枕草子・ありがたきもの)
人にもてかしづかれて、・・。(源氏物語・帚木)
ありがたきもの。舅にほめらるる婿。(枕草子・ありがたきもの)
南海の浜に吹き寄せられたるにやあらむと、・・。(竹取物語
B−る・らる(可能)−打消・反語
物は少し覚ゆれど、腰なむ動かれぬ。(竹取物語
行けどなほゆきやられぬは妹がうむをのづのうらなる岸の松原(土佐日記・五日)
何事もおぼしめし分かれず、籠りおはします。(源氏物語・桐壷)
庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐ろしくて寝も寝られず。(更級日記
C心情・知覚作用+る・らる(自発)
さがむぢの よろぎのはまの 砂なす 子らは愛しく おもはるるかも(萬葉集・巻14・3372)
今日は都のみぞ思ひやらるる。(土佐日記・元旦)
いくものは、つかうらむ人こそ、推し量らるれ。(枕草子・212段)
大和琴にもかかる手ありけりと聞き驚かる。(源氏物語・若菜下)
悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。(更級日記)
中宮かくてさぶらはせたまへば、つつましく思さるるなるべし。(栄花物語・二)
光源氏ハ)海見やらるる廊に出でたまひて、・・。(源氏物語
D貴人−る・らる(尊敬)
なぞ、思ひ出でられよや。(宇津保物語)
なぞ、かう暑きに、この格子はおろされたる。(源氏物語・空蝉)
かの大納言はいづれの船にか乗らるべき。(大鏡
亀山殿建てられんとて、地をひかれけるに、大きなるくちなは、数も知らず凝り集ま
りたる塚ありけり。(徒然草
Eる・らる(受身・自発・可能)+たまふ
君はとけても寝られたまはず。(源氏物語・帚木)・・可能
交野の少将には笑はれたまひけむかし。(源氏物語)・・受身
今朝のほど、昼間の隔てもおぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、・・。(源氏物語・夕顔)・・自発
有りがたう思ひ比べられたまふ。(源氏物語・花宴)・・自発

このルールの中で例外として扱われ、生徒を悩ませるのが鎌倉以降の「る・らる」が単独で使われた場合の可能の例である。この例が問われるのは、例外として有名な文のことが多い(注2)のだが、中には中世・近世での単独で可能を示す場合もある(注3)。
また、尊敬については尊敬の意味を広く考えていないため、質問が出ることが多い。村上本二郎(1966)は、光源氏が侍女たちに敬語表現を使った、つまり、上位の者が下位の者に対して尊敬表現を用いた、
「人々近うさぶらはせよかし」(源氏物語
の例をあげて、
話し手である光源氏の品位ある教養がしからしめるものである。現代でも、教養ある家庭においては、主人側が、お手伝いさんに対して、「もうお休みなさい」などというが、これと同じである。
と説明している。このように説明すると、生徒も納得しやすい。その他に、岡崎正継・大久保一男(1991)のように、敬語表現は、人を遇する表現ととらえる考え方もある。つまり、上位の者に対してだけではなく、皮肉を込めたり、何かを依頼したり、エチケットとして敬語を用いたりする、という考え方である。この考え方だと、敬語表現を広く包括できそうで、文法教育にも適用できそうである。
「る・らる(受身・自発・可能)+たまふ」については、この場合、「る・らる」は自発か受身となることが多く、石井秀夫(1981)に代表されるように「受身か自発と考えよ」と便法を示すことが多い。西田直敏(1969)では、「自発・可能・受身は分割対立しない一つの概念をなす」とある。中村幸弘(1993)では、二重敬語の「せたまふ」「させたまふ」がよく定着していたために、「れたまふ」「られたまふ」の「れ・られ」に遅れて生じた尊敬の意を入りこませる余地がなかったたまではないかと述べている。この場合、中村幸弘(1993)の説明で、「せたまふ」「させたまふ」の慣用化を指摘したほうがわかりやすのではないかと考える。
「自発・可能・受身」についても、
○いといたく荒れて人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくもの古りたり。(源氏物語・夕顔)・・自発・可能
○過ぎぬる方のあやまれることは知らるれ。(徒然草・49段)・・自発・可能
○まぎるべき几帳なども、暑ければにや、うちかけて、いとよく見入れらる。(源氏物語・空蝉)・・自発・受身・可能
○雲は足に踏まる。(更級日記)・・自発・受身・可能
の例のように意味的には分けがたいことが多いが、このようにルール化することで区分けがやりやすくなる。
近藤泰弘(1983)は、「受身」と「自発・可能」に二分類し、「自発」と可能については、
肯定形−自発
否定形−可能
の原則を提示している(注4)。

(注1)
山田孝雄(1908)『日本文法論』宝文館を受けたものと考えられる。これよりも早い近代の例としては、日本語教科書として書かれた大矢透(1902)がある。その大矢透(1902)では、「静受静致動句」の項目で扱われている。図解の形で、漢文の場合と比較している。

稚児   母に抱か|る
稚児 被|抱於 母|

大きな特色としては、「る・らる」を動的語尾とし、終止形を「ウ韻字母」と呼び、その上で「る」を「ア韻字母」(甲則)、「らる」を「エ韻字母」(乙則)に接続すると説明している点である。
その上で、次のように第一類と第二類とに分類している。

(第一類)
常形     抱く  造る  汲む
受静致動形  抱かる 造らる 汲まる
(第二類)
常形     忘る    捕ふ    製す
受静致動形  忘れらる  捕へらる  製せらる

(注2)
徒然草』の次の二文が単独可能の例として問われることが多い。
○閼伽棚に菊紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし、かくてあられけるよ。(11段)
○家の作りやうは夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる。(55段)
しかし、生徒は受身で取ることも多く、小松英雄(1999)は、この用例を一時的には自発とらえている。
(注3)
可能の「る・らる」については、山田孝雄(1952)「能力をあらはすもの。この際には打消の形のみ見ゆ。」および山田孝雄(1954)「可能の意ある場合の『ル』『ラル』の例はかく打消の助動詞を伴ふもののみなるは注意すべき現象なり」という指摘以来、中古においては、「る・らる」の下に打消を伴って可能の意味となり、全体で不可能となるパターンは8割程度とされており、一般化している。ところが、鎌倉期になると、「家の作りやうは夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる。(徒然草・55段)」のように単独で可能の意味を表す用法が出てくる。
また、自発については、次のような例があるところから、「心情・知覚に下接続する」と説明されることが多い。
○おのづから御覧じ知らるるやうも侍らむものを(源氏物語藤袴
○自然に思ひ出でらるるものなり。(宇津保物語・内侍のかみ)
しかし、小林千草(1987)は、「室町期に入ると、再び、否定・反語表現を伴うものが多くを占める」とし、
○「是はただハおかれぬ事で御ざる」(狂言「おこさこ」)
○「いハれぬ事をあそバいた」(狂言「びくさだ」)
○「まいらるゝものか」(狂言「はなご」)
の例をあげている。
近世では、松村明(1972)によると、打消を伴った可能表現が多く、『浮世風呂』についてみると、
○アニハイ兵五左衛門ともいはるる侍が、生頬さげでかへられずかヤア。
阿弥陀仏阿弥陀仏と唱ふるさま、目もあてられず哀なり。
○うらみたるけはひもなく日かず経るままに、秋の夜のながきに寝もねられず、・・。
など、可能表現の8割以上が打消を伴っていると指摘している。
(注4)
遠藤和夫(1990)でも同様の立場で記述しているが、「相の助動詞」と名付けている。現代では「態」「ヴォイス」などと呼ばれているものであるが、近代で用いられていた「相」という呼び名で記述している点が特徴的である。

4.3非情の受身

非情の受身については、古文の文法教育では原則として非情の受身は存在しないか、もしくは、存在するとしても稀であるとしてきたが、次々と非情の受身の例が報告されてきている。そのため、積極的に古文における非情の受身を容認したほうがよいのではないだろうか。以下、非情の受身の研究史を概観する。
主語(主格)に立つものが、情のない受身は「非情の受身」と呼ばれる。「非情」という伊方は、佐伯梅友(1947)が最初であり、今泉忠義(1950)で「非情の受身」「迷惑の受身」を扱った例が早いが、「非情の受身」の存在の指摘としては、その早い例として、三矢重松(1908)があり、次のような例をあげている。
コロンブスに発見せられたる亜米利加
スマイルスの自助論は、中村敬宇氏によりて翻訳せられたり
日本人に消費せらるる米の高
西洋式の被役相、次第に世に行はる
木風に倒さる
床に掛けられたるは元信の筆なり
こういった例は、明治期以降の欧米文の翻訳によって出現したものとされ、山田孝雄(1908)、三矢重松(1908)、松下大三郎(1930)、橋本進吉(1931)などの「非情の受身・非固有説」が一般には支持されてきたが、古典文においても、
硯に髪の入りてすられたる。(枕草子・28段)
逢坂の歌はへされて、返しもえせずなりにき。(枕草子・131段)
のような「非情の受身」の例が実際には見られ、古典文における例を、宮地幸一(1968)、小杉商一(1979)などが数多くあげ、「非情の受身・非固有説」を主張した(注)。
非情の受身の特徴は状態性であると述べたのは、小杉商一(1979)で、さらにその論を発展させたのが、金水敏(1991)である。この二つの研究論文によって、ほぼ非情の受身の特徴は状態性であることが定説となった。その状態性という問題を近藤泰弘(2000)は、発話者の主観という考えを持ち出すことで決着をつけ、状態性という問題に一つの区切りをつけるとともに、小杉商一(1979)と金水敏(1991)の論の正当性も論拠づけられた。
以上のように、非情の受身の研究は進んでおり、古文の文法教育でも非情の受身の存在を否定せずに、積極的に記述することを提唱したい。

(注)
奥津敬一郎(1992)は、『萬葉集』からも非情の受身の例をあげ、清水慶子(1980)は、上代から現代までの非情の受身を通時的な視点で調査しているが、それぞれの資料の全用例を調査しておらず、用例をあまりあげずに、単に数値で非情の受身の割合や動詞の自他について述べているため、どのような例を扱っているのか明確ではない。

4.4自発の解釈

自発の解釈を見ると、古文文法教育では、「自然と〜」という口語訳が一番多く使われているようである。しかし、自発とは自然に行われることである。それを「自然と〜」と口語訳したのでは、いかにも不自然ではないだろうか。主に古語辞典や別記(教授資料)を見て、どのように解釈をしているのかをまとめてみると、次のようになる。

自然と−れる
つい−れる
−せずにはいられない(−しないではいられない)
ふと−
思わず−てしまう

この中で注目したいのは、「−せずにはいられない(−しないではいられない)」という口語訳である。意志と関わりなく、動作が行われたり、進行したりするのを示すのに、たいへんすぐれていると思われる。例えば、「泣かる」「笑はる」「思はる」を、「自然と泣けてくる」「自然と笑う」「自然と思われる」とするよりも、「泣かずにはいられない」「笑わずにはいられない」「思わずにはいられない」の方がぴったりとする。したがって、古文文法教育でも、現代語のことばのセンスを磨く観点からも、「−せずにはいられない」という口語訳を第一として説明するようにし、その口語訳でうまくいかないときは、他の自発の解釈を適応することを主張したい。

4.5助動詞相互の承接関係について

「る・らる・れる・られる」の助動詞相互の承接についても、生徒の立場として理解に苦しむことが多い。それは、日本語学で、接尾語説と助動詞説があるため(注1)、生徒の理解が容易でないのは、もっともなことではないだろうか。そこで、橋本進吉(1931)以来の助動詞相互の重なり表があるので、それをもとに、それらの助動詞の特殊性を述べるとよいのではないか。その助動詞相互の順番(使役・受身・敬語・打消・完了・過去・指定・法)を簡略に示してみる(注2)。

動詞
1る・らる・す・さす・しむ
2補助動詞(きこゆ・たてまつる・たまふ・はべり)
3つ・ぬ・たり・り・べし・まじ・めり・らし・まし・まほし・ず
4む・らむ・けり・じ・き・けり
助詞
*「なり・たり・ごとし」は種々の語につくので除く。したがって、『岩波古語辞典』では、これらの語は助動詞からは外してある。

この助動詞相互関係の表は、文法教育では必要なのではないだろうか。なぜなら「せたまふ」「させたまふ」などの二重敬語(最高敬語)の説明のときに、「たまふ」が補助動詞だということが理解できない場合が多いからである。助動詞相互の重なり方のルールを知っていれば、補助動詞の上に「る・らる・す・さす・しむ」が入り込むことがわかって、混乱を防ぐことができるのである。現在のところ、この表を文法教育に取り入れている著作は、村上本次郎(1966)と関谷浩(1990)のものしか見当たらない。もっと取り入れられてもよいのではなかろうか。

(注1)
次のように承接関係の順番を確認できる。
物など見入れ られ ず。(源氏物語・少女)
       1   3
ただいまこれより過ぎ させ おはします めり。(大鏡花山天皇
           1   2     3
多くの年ごろ過ぎ させ たまひ ける。(栄華物語)
         1   2   4
(注2)
接尾語説の主な論拠は次の二つである。
1格関係を変える
2動詞と補助動詞との間にくる
ただし、大野晋(1968)が指摘するように、「うごめく」「かなしがる」などの「−めく」「−がる」などの接尾語の下に付く点では、完全に接尾語とはいいきれない。橋本進吉(1931)が示した表は、以下のものである。なお、橋本進吉(1931)は、芳賀矢一(1904)を引用しており、影響を受けたことがわかる。また、三矢重松(1908)では文語と口語の表を示し、徳田浄(1936)は細かい表を作成している。

(口語)
させる・せる
られる・れる
たい
ます
ない・ん

らしい
だ・です
う・よう・まい

(文語)
す・さす・しむ
る・らる
たし


つ・たり
ず・ざり
べし・まじ
まし・めり
き・けり
む・らむ・けむ

4.6『方丈記』と『徒然草』の「しむ」

「しむ」は、漢文訓読系の文章に出てくることが多い。そのため、文法教育では、『方丈記』と『徒然草』を例文としてかかげることが多い。そこで、『方丈記』と『徒然草』に何か補足のようなものがないかどうか、調べてみることとする。
方丈記』は和漢混交文であるため、使役として「しむ」が用いられ、ニ格の使役ではなく、3例ともすべて、次のようにヲ格が表出され、「−ヲ格−しむ」という構造を持つ。
1また知らず、仮りの宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。(一)
2(隆暁法印は)をその首の見るごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。(二)
3(私は)芸これつたなけれども、人の耳を喜ばしむるとにはあらず。(三)
同様に、『徒然草』においても「しむ」の用例をみてみると、次のように、「しむ」の8例のすべてが「−ヲ−しむ」となり、「ヲ格」が必ず表出されている。
4愚かなる人の目を喜ばしむる楽しみ、またあぢきなし。(38段)
5大方、生ける物を殺し、痛め、闘はしめて遊びたのしまん人は、畜生残害の類なり。(128段)
6身をやぶるよりも、心を痛ましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。(129段)
7我負けて、人を喜ばしめんと思はば、さらに遊びの興なかるべし。(130段)
8人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはむ事、不便のわざなり。(142段)
9異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、・・。(154段)
10身を危めてくだけやすき事、珠を走らしむるに似たり。(172段)
11最勝光陰の邊にて、をのこの馬をはしらしむるを見て、・・。(238段)
意味的には、2・6・8は「人ニ」を補って解釈できるため、二格の非表出とも考えられる。また、動詞の自他に着目すると、いずれも他動詞であり、「−ヲ格−他動詞+しむ」という慣用表現と考えたい。動詞の語彙にも着目すると、1・3・4・7・9は「喜ぶ」であり、ヲ格にあたるものは、「耳」「目」「人」であり、人または身体の一部ということになる。10・11の動詞は「走る」である。
そのヲ格の生物・無生物に着目すると、10だけは無生物で、あとはすべて生物もしくは身体の一部となっている。公式化すれば、
「生物+ヲ格−他動詞−しむ」
となる。
このパターンをみるとすぐに漢文の使役の句形が浮かぶ。つまり、「使(命・教・遣・俾)AB」の形で、「AヲシテBシム」という句形である。そのため、古文文法で「しむ」を扱うと同時に、漢文の使役の句形も紹介すると、漢文訓読というものの意味もわかってよいのではないだろうか。

4.7軍記物語の「す」「さす」

軍記物語において、意味的には受身であり、「る」「らる」を使うべき箇所に、「す」「さす」が使われている箇所が具体的に目につく。

○太田太郎我身手おひ、家子郎等おほく討たせ、馬の腹射させて引き退く。『平家物語

このような場合、一般には、受身の言い方を嫌う武士特有のもので、負け惜しみと考え、「討たせ」ではなく「討たれ」とし、「射させ」ではなく「射られ」と受身に解釈するのである。このような例は頻繁に目につく。

○桑原・安藤二駆け出でて、悪七別当に、屈継射させて落ちにけり。『保元物語』中
○四郎左衛門も内甲を射させて引き退く。『保元物語』二
○重盛は、頼み切ったる景安討たせて何かせんとて・・『平治物語』二
○浪に足うち洗はせて、露に萎れて、その夜は其処にぞ明かされける。『平家物語』三
○木曽殿は内冑射させて痛手なれば冑の真中を馬の頭に押しあててうつぶし給ふ。『平家物語』九
○兄を討たせて弟が一人残りとどまったらば、・・『平家物語』九

一般的には、受身の言い方を嫌う武士特有のもので、負け惜しみと考えられて「討たせ」ではなく「討たれ」、「射させ」ではく「射られ」と受身に解釈するのである。その状況は古文文法でも同じく受身として解釈され、学習参考書でも紹介され、入試問題としても選択肢に含まれて出題されることもある(注)。
 しかし、「す」「さす」を用いているのに、それを「れる」「られる」のように受身で解釈するのは行き過ぎであり、強引ではないだろうか。そこで、他の解釈法を説いている諸家の説をまとめてみる。
金田一春彦(1957)
「不注意にも−させてしまった」と使役に解釈する。
長谷川清喜(1969)
「−するままになって」と随順に解釈する。
○小林賢次(1987)
「心ならずも−の結果を生じさせてしまう」「−するままにしてしまう」と許容・放任に解釈する。
小松英雄(2001)
「−するままにしてしまう」と放任に解釈する
山口尭二(1983)は武者詞について、「武者詞は、使役の語法を用いてその事態に対する何らかの主体性を強く打ち出そうとするものであり、主述関係の設定が通常の表現に比べてより主観的・情意的であるという点に、狭義の使役の表現との相違がある。」と述べている。
この中で注目したいのは、「使役」という意味を温存しながら解釈している、金田一春彦(1957)の解釈である。やはり、「す」「さす」を使役で解釈した方が自然で、しかも無理がないのではないか。小林賢次(1987)や小松英雄(2001)の「許容」「放任」も悪くはないが、文法用語を増やすこととなる。古文文法の教育においては、あまり文法用語を増やすよりも、現在使われている用語で解決したほうがよいのではないだろうか。同様のことは、長谷川清喜(1969)の「随順」にもいえる。このように考えると、金田一春彦(1957)
の「不注意にも−させてしまった」と使役に解釈するのが、もっとも指導しやすいので、提唱したいと思う。

(注)
大学入試問題で出題されるときには、「家子郎等おほく討たせ、馬の腹射させて引き退く。『平家物語』」の例を出すことが多く、選択肢の中に例文として入れ、武士特有のことばとして処理するか、「させ」の部分を「せ」だけに傍線を引き、「させ」の一部として処理することで選択肢を省くことを要求するのが通例である。


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