金水法則の例外
金水敏(1991)は旧主語と主格とに注目して、以下のようなパターンに分けている。
主格 旧主語表示
A 〈非人格的〉 (なし)
B 〈非人格的〉 〈非人格的〉ニ
C 〈非人格的〉 〈人格的〉/〈非人格的〉ニヨッテ
d*〈非人格的〉 〈人格的〉ニ
e 〈人格的〉 〈人格的〉ニ
f*〈人格的〉 〈人格的/非人格的〉ニヨッテ
そこで、本稿では、金水敏(1991)の示したものを参考に、非情・有情という従来からの用語を使用し、表出されているニ格に着目して次のようなパターン分けで、古典文における非情・有情の受身を整理してみる。出典は、日本古典文学大系を使用した。ただし、『源氏物語』は、『源氏物語・全』(おうふう)を使用した。
主語 旧主語ニ格
(1) 有情 なし
(2) 有情 有情
(3) 有情 非情
(4)* 非情 有情
(5) 非情 非情
(6) 非情 なし
(1) (2) (3) (4) (5) (6) 合計
萬葉集 21 22 2 2 2 9 58
竹取物語 11 0 1 0 1 1 14
伊勢物語 6 3 1 0 1 0 11
古今和歌集 1 2 0 1 3 4 11
大和物語 13 6 0 0 1 8 28
土佐日記 3 0 0 0 0 1 4
落窪物語 71 22 0 0 0 7 100
枕草子 60 28 3 5 6 25 127
源氏物語 176 48 18 3 7 54 306
和泉式部日記 8 0 3 0 1 0 12
紫式部日記 22 4 1 0 0 7 34
堤中納言物語 4 2 2 0 1 2 11
更級日記 13 4 0 0 1 9 27
方丈記 1 1 0 0 0 4 6
徒然草 23 14 8 1 6 24 76
ここで、注目したいのは、金水敏(1991)で、古代語・現代語に及ぶこととして、「受動文における人格的役割の分布制約」として、
非人格的役割を担う名詞が受動文の新主語であるとき、人格的役割を担う旧主語をニ格で表出してはいけない。
と述べていることと反する、
「非情−有情」
の例が少ないながらも存在している点である。今回の調査では、表からもわかるとおり、『萬葉集』で2例、『古今集』で1例、『枕草子』で5例、『源氏物語』で3例、『徒然草』で1例、存在する。以下に、その全用例をあげておく。
『萬葉集』
1 白珠は人に知らえず知らずともよし知らずともわれし知れらば知らずともよし(巻6・1018)
2 たらちねの母に知らえずわが持てる心はよしゑ君がまにまに(巻11・2537)
『古今集』
3 三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ(巻2・春歌下・94)
『枕草子』
4 (翁丸=犬の名ハ)人などこそ人に言はれて泣きなどはすれ。(9段)
5 人にあなづらるるもの。(27段)
6 人におぢらるるうへのきぬはおどろおどろし。(45段)
7 つまとりの里、人に取られたるにやあらむ、我がまうけたるにやあらむとをかし。(65段)
8 ことに人に知らえぬもの凶会日。(261段)
『源氏物語』
9 君にかく引きとられぬる帯なればかくて絶えぬる中とかこたむ。(紅葉賀)
10 何事も、人にもどき扱はれぬ際はやすげなり。(賢木)
11 (噂ガ)かく人に見せ言ひ伝へらるるこそ心得ぬ事なれ。(篝火)
『徒然草』
12 すべて、人に愛楽せられずして、衆にまじはる恥なり。(134段)
これらの例を概観して気づくことは、まず、主語が連体修飾されているものが多く、2・3・5・6・8・9が連体修飾になっている。そして、主語が表出されていないものが4・11である。
また、1・2・3は和歌であるため、擬人法などの多様性があり、和歌独特の発想として、非情物と有情物との同一視も十分に考えられるので、注意が必要である。
小杉商一(1979)以来、言われている、平安時代の純粋な非情の受身の特徴である、下に「たり」「り」「あり」「なし」か、それに準ずる状態性の表現となっているものは、7だけである。そうすると、7は孤例と考えられる。したがって、広義の非情の受身を扱う際には疑問が残るが、狭義として、つまり、純粋な非情の受身として考える際には、金水敏(1991)の理論が適用できる。
12は、鎌倉時代の例なので、小杉商一(1979)の指摘にもあるように、鎌倉時代からは、純粋な非情の受身でも、状態性の表現にならないものが出てくるので、12は異質である。
旧主語ニ格を見てみると、9を除いて、すべて表出されており、しかも、表出されているものは、2を除いて、すべて一般的な「人」である点も注目してよいと思われる。
次に全用例数をまとめて、受身全体の中で占める割合を表にしてみる。
用例数 割合
1有情−なし 433 52.5%
2有情−有情 156 18.9%
3有情−非情 39 4.7%
*4非情−有情 12 1.5%
5非情−非情 30 3.6%
6非情−なし 55 18.8%
合計 825
○有情の受身 628 76.1%
有情−なし 68.9%
有情−有情 24.8%
有情−非情 6.2%
○非情の受身 197 23.9%
非情−有情 6.1%
非情−非情 15.2%
非情−なし 78.7%
この表から気づくことをまとめてみる。
◇非情の受身では、「非情−なし」が7割以上あるが、金水敏(1991)では、この形が叙景文(限定された時空に存在する、ものの現れを写し取る文)に多く見られる形式としている。尾上圭介(1998a)では、古典文における非情の受身は、情景描写の受身としたが、これは金水敏(1991)の言う、叙景文ということであり、確かに古典文では多いけれども、完全に情景描写と言い切るのは割合から言って、難しい。しかし、その割合は、古典文の非情の受身の80%近くに達するので、古典文の場合には、現代語の非情の受身のように多様なものとは質が異なっていることがわかる。
◇形として、主語が有情ならば、ニ格も有情もしくは表出しない、また逆に主語が非情ならば、ニ格は非情もしくは表出しない。つまり、「有情−なし」「有情−有情」「非情−なし」「非情−非情」というのが、それぞれ、有情の受身・非情の受身の9割以上である。したがって、「有情−非情」や「非情−有情」は好まれなかったことがわかる。
◇金水敏(1991)の「*非情−有情」が、小杉商一(1979)の狭義の非情の受身(純粋な非情の受身)では言えたが、広義での非情の受身では、当てはまらなかったように、狭義の非情の受身か広義の非情の受身かで、異なってくるので、論を進める際に、どちらの立場かを明示する必要がある(注)。
(注)
小杉商一(1979)は、主語にも問題がない非情の受身で、「たり」「り」なども下接せず、しかも、状態性の表現になっていないものを、「非情の自発」として処理している。
結び
本稿で述べてきたことをまとめてみる。
◇和歌における「非情の受身」は、非情・有情の同一視である擬人法が多いため、純粋な「非情の受身」の例とすることはできない。この点については、『国語学大辞典』でも記述が見られる。
◇人物関係を主として、話の展開が早い作品では、「非情の受身」が使われにくい。
◇自然を描写する場面での「非情の受身」が多い。このことは尾上圭介(1998a)が既に指定している。
◇文章の性質によって、「非情の受身」の使用状況は、異なりが出てくる。例えば、非情の受身の例としてよく使われる、『枕草子』『方丈記』『徒然草』という、随筆は頻度が高い。
◇全体的な割合は高くはないが、古典の非情の受身だけでなく、有情の受身でも状態性の表出になるものがある。
◇非情の受身では、「非情−なし」が7割以上あるが、金水敏(1991)では、この形が叙景文(限定された時空に存在する、ものの現れを写し取る文)に多く見られる形式としている。尾上圭介(1998a)では、古典文における非情の受身は、情景描写の受身としたが、これは金水敏(1991)の言う、叙景文ということであり、確かに古典文では多いけれども、完全に情景描写と言い切るのは割合から言って、難しい。しかし、その割合は、古典文の非情の受身の80%近くに達するので、古典文の場合には、現代語の非情の受身のように多様なものとは質が異なっていることがわかる。
◇形として、主語が有情ならば、ニ格も有情もしくは表出しない、また逆に主語が非情ならば、ニ格は非情もしくは表出しない。つまり、「有情−なし」「有情−有情」「非情−なし」「非情−非情」というのが、それぞれ、有情の受身・非情の受身の9割以上である。したがって、「有情−非情」や「非情−有情」は好まれなかったことがわかる。
◇金水敏(1991)の「*非情−有情」が、小杉商一(1979)の狭義の非情の受身(純粋な非情の受身)では言えたが、広義での非情の受身では、当てはまらなかったように、狭義の非情の受身か広義の非情の受身かで、異なってくるので、論を進める際に、どちらの立場かを明示する必要がある(注)。
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