「る・らる」の分類

4.「る・らる・れる・られる」の指導法

4.1接続

「る・らる・れる・られる・す・さす・せる・させる」の接続については、四段・ナ変・ラ変・の未然形に「る・れる・す・せる」がつき、それ以外の未然形には「らる・られる・さす・させる」がつくと説明され、「四ナラする、などと覚えよ」などとすることが多いが、教師用指導書として書かれた岡崎正継・大久保一男(1991)では、次のように未然形の母音に注目した特色のある説明している(注1)。

a+る・す
i・e・o+らる・さす

論者は、この方法を採用することで、生徒の理解がはやいことを実感している。この方法に従えば、「見る」なども未然形が「み」で、「る」か「らる」を使うかで迷ったときにも、「み」は「i」であるから「見らる」とすぐにつくることができる。これは漢文教育にも適応できるので、たいへん便利である。例えば訓読の際にも、「愛す」「殺す」も「愛せe」「殺さa」となり、「愛せらる」「殺さる」となるのである。これらをまとめて、次のように説明することを提唱したい。

未然形の母音がaには「る」「す」
未然形の母音がi・e・oには「らる」「さす」

このように接続のポイントを示したあとで、教科書に掲載されている接続を示すのである。

四段・ナ変・ラ変の未然形には「る」「す」
右以外の未然形には「らる」「さす」

この方法で現代語の「ラ抜きことば」も生徒にもわかりやすく説明できるのではないだろうか。つまり、「ラ」を入れるかどうか迷ったら、
i・e・oには「られる」を入れる
と説明するのである。そうすれば、「見る」は「見i」であるから、「られる」をつけて「見られる」という具合にすぐに作り出すことができる。そのため、現代語の授業でも次のように説明すると、たいへん有効である。

未然形の母音がaには「れる」「せる」
未然形の母音がi・e・oには「られる」「させる」

日本語教育では、東京外国語大学留学生日本語教育センター編(2010)のように文法的に詳しく書かれている初級テキストでも、次のように三つに区分して、動詞の活用を説明している。

○−Aないの動詞(五段動詞)
○−Iないの動詞、−Eないの動詞(一段動詞)
○不規則動詞

しかし、母音を使えば不規則動詞の部分も解消させることができ、「−Aれる」「−I・E・Oられる」という二種類に区分できるので、接続の理解が容易になるのでないだろうか。そのため、日本語教育での活用も期待したいところである。

古典と現代を統合した形でまとめると次のようになる。

a+る・らる・す・せる
i・e・o+らる・られる・さす・させる

4.2意味区分について

「る・らる」の意味区分については、古典文法教育では、次のような板書でルール化し、その上で講義をすることが多い。そのルールと例文を整理してみる。

A−(に)−る・らる(受身)
B−る・らる(可能)−打消・反語
C心情・知覚作用+る・らる(自発)
D貴人−る・らる(尊敬)
Eる・らる(受身・自発・可能)+たまふ

A−(に)−る・らる(受身)
姑に思はるる嫁の君。(枕草子・ありがたきもの)
人にもてかしづかれて、・・。(源氏物語・帚木)
ありがたきもの。舅にほめらるる婿。(枕草子・ありがたきもの)
南海の浜に吹き寄せられたるにやあらむと、・・。(竹取物語
B−る・らる(可能)−打消・反語
物は少し覚ゆれど、腰なむ動かれぬ。(竹取物語
行けどなほゆきやられぬは妹がうむをのづのうらなる岸の松原(土佐日記・五日)
何事もおぼしめし分かれず、籠りおはします。(源氏物語・桐壷)
庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐ろしくて寝も寝られず。(更級日記
C心情・知覚作用+る・らる(自発)
さがむぢの よろぎのはまの 砂なす 子らは愛しく おもはるるかも(萬葉集・巻14・3372)
今日は都のみぞ思ひやらるる。(土佐日記・元旦)
いくものは、つかうらむ人こそ、推し量らるれ。(枕草子・212段)
大和琴にもかかる手ありけりと聞き驚かる。(源氏物語・若菜下)
悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。(更級日記)
中宮かくてさぶらはせたまへば、つつましく思さるるなるべし。(栄花物語・二)
光源氏ハ)海見やらるる廊に出でたまひて、・・。(源氏物語
D貴人−る・らる(尊敬)
なぞ、思ひ出でられよや。(宇津保物語)
なぞ、かう暑きに、この格子はおろされたる。(源氏物語・空蝉)
かの大納言はいづれの船にか乗らるべき。(大鏡
亀山殿建てられんとて、地をひかれけるに、大きなるくちなは、数も知らず凝り集ま
りたる塚ありけり。(徒然草
Eる・らる(受身・自発・可能)+たまふ
君はとけても寝られたまはず。(源氏物語・帚木)・・可能
交野の少将には笑はれたまひけむかし。(源氏物語)・・受身
今朝のほど、昼間の隔てもおぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、・・。(源氏物語・夕顔)・・自発
有りがたう思ひ比べられたまふ。(源氏物語・花宴)・・自発

このルールの中で例外として扱われ、生徒を悩ませるのが鎌倉以降の「る・らる」が単独で使われた場合の可能の例である。この例が問われるのは、例外として有名な文のことが多い(注2)のだが、中には中世・近世での単独で可能を示す場合もある(注3)。
また、尊敬については尊敬の意味を広く考えていないため、質問が出ることが多い。村上本二郎(1966)は、光源氏が侍女たちに敬語表現を使った、つまり、上位の者が下位の者に対して尊敬表現を用いた、
「人々近うさぶらはせよかし」(源氏物語
の例をあげて、
話し手である光源氏の品位ある教養がしからしめるものである。現代でも、教養ある家庭においては、主人側が、お手伝いさんに対して、「もうお休みなさい」などというが、これと同じである。
と説明している。このように説明すると、生徒も納得しやすい。その他に、岡崎正継・大久保一男(1991)のように、敬語表現は、人を遇する表現ととらえる考え方もある。つまり、上位の者に対してだけではなく、皮肉を込めたり、何かを依頼したり、エチケットとして敬語を用いたりする、という考え方である。この考え方だと、敬語表現を広く包括できそうで、文法教育にも適用できそうである。
「る・らる(受身・自発・可能)+たまふ」については、この場合、「る・らる」は自発か受身となることが多く、石井秀夫(1981)に代表されるように「受身か自発と考えよ」と便法を示すことが多い。西田直敏(1969)では、「自発・可能・受身は分割対立しない一つの概念をなす」とある。中村幸弘(1993)では、二重敬語の「せたまふ」「させたまふ」がよく定着していたために、「れたまふ」「られたまふ」の「れ・られ」に遅れて生じた尊敬の意を入りこませる余地がなかったたまではないかと述べている。この場合、中村幸弘(1993)の説明で、「せたまふ」「させたまふ」の慣用化を指摘したほうがわかりやすのではないかと考える。
「自発・可能・受身」についても、
○いといたく荒れて人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくもの古りたり。(源氏物語・夕顔)・・自発・可能
○過ぎぬる方のあやまれることは知らるれ。(徒然草・49段)・・自発・可能
○まぎるべき几帳なども、暑ければにや、うちかけて、いとよく見入れらる。(源氏物語・空蝉)・・自発・受身・可能
○雲は足に踏まる。(更級日記)・・自発・受身・可能
の例のように意味的には分けがたいことが多いが、このようにルール化することで区分けがやりやすくなる。
近藤泰弘(1983)は、「受身」と「自発・可能」に二分類し、「自発」と可能については、
肯定形−自発
否定形−可能
の原則を提示している(注4)。

(注1)
山田孝雄(1908)『日本文法論』宝文館を受けたものと考えられる。これよりも早い近代の例としては、日本語教科書として書かれた大矢透(1902)がある。その大矢透(1902)では、「静受静致動句」の項目で扱われている。図解の形で、漢文の場合と比較している。

稚児   母に抱か|る
稚児 被|抱於 母|

大きな特色としては、「る・らる」を動的語尾とし、終止形を「ウ韻字母」と呼び、その上で「る」を「ア韻字母」(甲則)、「らる」を「エ韻字母」(乙則)に接続すると説明している点である。
その上で、次のように第一類と第二類とに分類している。

(第一類)
常形     抱く  造る  汲む
受静致動形  抱かる 造らる 汲まる
(第二類)
常形     忘る    捕ふ    製す
受静致動形  忘れらる  捕へらる  製せらる

(注2)
徒然草』の次の二文が単独可能の例として問われることが多い。
○閼伽棚に菊紅葉など折り散らしたる、さすがに住む人のあればなるべし、かくてあられけるよ。(11段)
○家の作りやうは夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる。(55段)
しかし、生徒は受身で取ることも多く、小松英雄(1999)は、この用例を一時的には自発とらえている。
(注3)
可能の「る・らる」については、山田孝雄(1952)「能力をあらはすもの。この際には打消の形のみ見ゆ。」および山田孝雄(1954)「可能の意ある場合の『ル』『ラル』の例はかく打消の助動詞を伴ふもののみなるは注意すべき現象なり」という指摘以来、中古においては、「る・らる」の下に打消を伴って可能の意味となり、全体で不可能となるパターンは8割程度とされており、一般化している。ところが、鎌倉期になると、「家の作りやうは夏をむねとすべし、冬はいかなる所にも住まる。(徒然草・55段)」のように単独で可能の意味を表す用法が出てくる。
また、自発については、次のような例があるところから、「心情・知覚に下接続する」と説明されることが多い。
○おのづから御覧じ知らるるやうも侍らむものを(源氏物語藤袴
○自然に思ひ出でらるるものなり。(宇津保物語・内侍のかみ)
しかし、小林千草(1987)は、「室町期に入ると、再び、否定・反語表現を伴うものが多くを占める」とし、
○「是はただハおかれぬ事で御ざる」(狂言「おこさこ」)
○「いハれぬ事をあそバいた」(狂言「びくさだ」)
○「まいらるゝものか」(狂言「はなご」)
の例をあげている。
近世では、松村明(1972)によると、打消を伴った可能表現が多く、『浮世風呂』についてみると、
○アニハイ兵五左衛門ともいはるる侍が、生頬さげでかへられずかヤア。
阿弥陀仏阿弥陀仏と唱ふるさま、目もあてられず哀なり。
○うらみたるけはひもなく日かず経るままに、秋の夜のながきに寝もねられず、・・。
など、可能表現の8割以上が打消を伴っていると指摘している。
(注4)
遠藤和夫(1990)でも同様の立場で記述しているが、「相の助動詞」と名付けている。現代では「態」「ヴォイス」などと呼ばれているものであるが、近代で用いられていた「相」という呼び名で記述している点が特徴的である。