古今和歌集の受身表現

古今和歌集

 和歌における受身の例文として、次の例がよくあげられる。

・・・今は野山し近ければ春は霞にたなびかれ夏は空蝉なきくらし秋は時雨に袖を貸し冬は霜にぞせめらるるかかるわびしき身ながらに・・・『古今和歌集』巻19・1003・壬生忠岑

これは受身の主語が「春」「冬」であり、少ないながらも存在する古典の非情の受身の例として、和歌での場合に説明され(散文では、『枕草子』・『徒然草』で説明されることが多い)、さらに、「春は霞にたなびかれ」で受身に用いられている動詞の「たなびく」は「自動詞」として分類でき、日本語特有ということで処理される。つまり、英語では受身になる動詞は「他動詞」であるのに対し、日本語では「自動詞」でも受身になることができることを示したものとして示されるのである。
 では、実際には『古今和歌集』において、「る」「らる」という助動詞で受身の意味を表す助動詞の例はどのくらいあるのだろうか。用例調査を通して、和歌の特徴を考察してみる。

① 花春くははれる年だにも人の心にあかれやはせぬ(巻1・61・よみ人知らず)
三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ(巻2・94・紀貫之
③雪降れば冬こもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける(巻六・三二三・紀貫之
④人を思ふ心は我にあらねばや身のまどふだに知られざるらむ(巻一一・五二三・よみ人知らず)
⑤川の瀬になびく玉藻の水隠れて人に知られぬ恋もするかな(巻一二・五六五・紀友則
⑥・・・今は野山し近ければ春は霞にたなびかれ夏は空蝉なきくらし秋は時雨に袖を貸し冬は霜にぞせめらるるかかるわびしき身ながらに・・・(巻十九・一〇〇三・壬生忠岑
⑦雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみ世をば経ぬらむ(巻一五・七五三・紀友則
⑧とどめあへずむべもとしとは言はれけりしかもつれなく過ぐる齢か(巻一七・八九八・よみ人知らず)
⑨いとはるるわが身は春の駒なれや野飼ひがてらに放ち捨てつる(巻一九・一〇四五・よみ人知らず)
⑩世の中はいかに苦しと思ふらむここらの人に恨みらるれば(巻一九・一〇六二・在原元方
⑪惜しと思ふ心は糸によられなむ散る花ごとにぬきてとどめむ(巻二・一一四・素性法師
⑫秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(巻四・一六九・藤原敏行
⑬いたづらに行きては来ぬるものゆゑに見まくほしさにいざなはれつつ(巻一三・六二〇・よみ人知らず)

①から⑪までは、確実に受身と理解してよい例で、⑫と⑬は受身とも自発とも理解される。表出されていない主語を含めて歌意から主語を考えてみると、①は「春」・②は「私」・③は「花」・④は「心」・⑤は「恋」・⑥は「春」「冬」・⑦は「私」・⑧「年月」・⑨「わが身」・⑩「私」・⑪は「心」・⑫「私」・⑬は「私」となる。これらのうち、非情の受身になっているのは、①③④⑤⑥⑧⑨⑪である。ただし、④⑪の「心」や⑨の「わが身」は「私」の所有するものなので有情的であり、純粋に非情の受身と理解されるのは、①③⑤⑥⑧である。また、連体修飾によって、主語が示されるものも目立ち、①②③⑤⑨がそうである。
⑥は「春夏秋冬」の「春」と「冬」に非情の受身の表現を対句的に「る」「らる」を用いており、二例の受身が使われているので、用例数は、⑫⑬を除くと、合計12例となるが、そのうち、7例は非情の受身ととらえてよい。このことは、非情の受身は古典の散文では、少ないとされるが、『古今和歌集』では五割以上が非情の受身となるため、散文と韻文との大きな違いと考えてよいであろう。和歌では、物に寄せたり、比喩表現や擬人的表現も用いたりするので、そのように比率があがるのではないだろうか。
また、①は「やは」という反語の強調表現、③は「ぞ」「けり」という強調・詠嘆表現、⑤は「かな」という詠嘆表現、⑥は「春」「冬」という対句的表現で長歌、⑧は「けり」「か」という詠嘆表現をともなっている。古典の非情の受身の特徴は、小杉商一(1979)に指摘があり、金水敏(1991)、近藤泰弘(2000)においても確認されたように、「たり」「り」をともなった状態性の表現になるか、あるいは、「たり」「り」をともなわなくても、状態性の表現になることが大きな特徴であるが、『古今和歌集』の場合には、長歌を除くと、すべて「たり」「り」をともなわない状態性の非情の受身表現になり、和歌特有の強調・詠嘆の表現をともなう。
「に」で表出されている受身の行為主体は②③⑤⑥⑩⑪で、「ひと」か「ものごと」かで見ると、「ひと」が②⑤⑩、「ものごと」が③⑥⑪である。比較的「に」で明示されているのは、「に」で示される行為主体の動作を、主語が受けるだけではなく、中西宇一(1996)のことばを使うと、「に」による対者が主語を、自分の意志のままに処置することのできる行為主体として存在することを示すものであろう。つまり、「に」によって、拒否することのできない事柄を示しているのではないだろうか。
動詞の自他の例で、自動詞でも受身になる例は、『古今和歌集』では、受身の用例を見るかぎり、⑥の「春は霞にたなびかれ」の「たなびく」だけであり、長歌ということもあり、特殊な例として処理できそうである。したがって、自動詞でも受身になる古典の例として、この歌を示すのは、不適当である。また、他動詞「知る」を用いて「―に知られぬ+名詞」という慣用句になっているものが②③⑤に見られる。
 ⑫⑬の例は、受身とも自発ともとることができるのだが、「る」「らる」には、主に「受身根源説」と「自発根源説」とがあり、他に、「出来」という概念を持ち込んでその「出来」から他の意味を同時的に派生させたとする尾上圭介(1998)の説があるが、「自発根源説」の方が説明しやすいために、一般的には用いられることが多い。森重敏(1969)の理論では、「自発」というのは、主体は「私」の場合であり、主観的なものとなる。それにしたがうと、⑫⑬の例は、主体は「私」なので「自発」ととらえた方がよいであろう。また、「受身」は客観的なものであり、「自発」は主観的なものであるから、受身根源か自発根源かにこだわらずに、主体が客観的なものか主観的なものかに偏ることによって、「受身」と「自発」とに動き、そして変わるものと考えておくのがよいのではないだろうか。というのも、「受身」か「自発」かに絞ることは難しいからである。「受身根源説」では、どうしても語彙的にとらえた場合に、「受身」の意からの「自発」「可能」「尊敬」への説明が難しく、「自発根源説」では「る」「らる」の助動詞相互承接の関係図では、橋本進吉氏の指摘にあるように、活用形が完備している「る」「らる」は、動詞のすぐ下にくる。そしてそれらは、客観的な助動詞になるわけであり、逆に活用形が完備していないものほど下にきて、金田一春彦氏の指摘する「不変化助動詞」、すなわち、主観的なものとなる。そうしたときに、「自発」は主観的要素が強いので、「自発根源説」はうまく適用できないのである。
 また「る・らる」が自発・可能になるとき、それらはどのような構造になっているのであろうか。中西宇一(1996)は、「心情に導かれて生ずる場合」「状況に導かれて生ずる場合」に分け、それぞれを「心的行為」「身体的行為」と「心的行為」「身体的行為」「ものごとの実現」とに分けて説明している。その立場からすると、⑪は中西宇一(1996)のいうように「可能」とも取れそうであるが、行為主体が「に」で明示されているので、ここでは一般的に「受身」として扱うこととした。