クロノス時間とカイロス時間

クロノス時間とカイロス時間
クロノス時間とカイロス時間とがあります。このことについて、出口光さんがまとめていますので、紹介します。
「二つの時間」
古代ギリシャ以来、人間は時間とは何かという問いを突き詰めてきた。その中で2つの時間の区別が行われてきた。それは、クロノス(実時間)とカイロス(体感時間)だ。ギリシャ神話に、「時の神」が二人出てくる。その神の名前を使って、神学者パウル・ティリヒ(1886−1965)は、「物理的な時間の流れ」をクロノス(Chronos)、「人が感じる意義深い質的な時間の流れ」をカイロス(Kairos)と呼んで区別した。
●クロノス時間
クロノス時間とは「実時間」のことであり、いかに正確に時を刻む時計を作るかに関心が置かれてきた。集団の中で、正確で共有できる時間があることで、共通のイベントや祝祭日を設定することができるようになった。また、歴史の記録に同時性を持たせることも可能になって、国家の運営というものが成り立つようになった。さらに、私たちは、会合や仕事の日取りを決め、時間によって区切られたスケジュール表に予定を書き込むことができるようになった。このクロノス時間の追求は、私たち人間に時間の充実をもたらした。
 ●カイロス時間
しかし、時を正確に刻み、そのなかにスケジュールを入れるだけでは不十分だ。なぜなら、時間は人によって速く流れたり、遅く流れたりするからだ。その中には喜怒哀楽があり、私たちの人生がある。
時間とは神秘性だ。同じように流れている時間も人によって質的に異なっている。時計によって示される時間は物理的に同じ速さで流れているが、心理的な時間の流れは、人によって異なる。関わり方しだいで、早く流れたり遅く流れたりする。これは誰にも経験があるはずだ。もう一つの時間の枠組みは、カイロス時間で体感時間あるいは心理時間のことだ。何かに熱中しているとき、物理的には長い時間が経っているのに「あっという間」の時間に感じる。恋人と会っているとき、大好きな音楽を聴いているとき、仕事に熱中しているとき、などはそうだ。そこには充実感と活き活きさが存在する。一方、集中できないときには、「退屈で不快な」時間となる。この時間体験は、時間の長さではなく質の体験であるが、このような主観的、心理的な時間がカイロス時間である。この体感時間こそが、私たちの人生の質を決定づけている。

「有限の中にある時間」
なぜ人類は時間という概念を創り、それを測定するための時計を創造してきたのだろうか?それは、人生が有限であるがゆえに、生を価値あるものにしたいという強い意志の表現であるといえるのではないか。
私たちは、一日を多くのことをしながら過ごしているが、果たしてそれらは本当に時間を使ってやるべきことなのだろうか?つまり、本当にやるべきことのためにどの位の時間を使っているのだろうか。
時間は悠久の過去から永劫の未来へと流れていく。しかし一人の人間にとっては、時間は有限である。その有限なときをどのように使えば良いのだろうか。有限な時間を意識して、いかに豊かに鮮やかに生きるのか、その時間哲学こそが、いま必要とされている。もし私たちに時間が無限に与えられているなら、何をやるべきか取捨選択する必要もない。なぜならいつかどれでもできるからだ。しかし、現実に与えられている時間は有限だからこそ、私たちにできる限られたことの中心には「志」があるべきだと私は思っている。私たちに与えられた有限な時間をいかに充実したものにできるのか?そのための時間哲学が必要だ。志を持って生きるための時間哲学を深め、さらにそれを方法論にまで具体化しなければ、時間を極めることなどできないのだ。言い換えれば、私たちのクロノス時間を、いかにすばらしいカイロス時間にするのかという方法論を、持つ必要がある。冒頭の友人が人生の有限さを知ることで、カイロス時間を大切にしたいと思った。それには、クロノス時間とカイロス時間を組み合わせた哲学とそれを日常で生かす方法論が必要とされる。