受け身、自発、出来文

「る・らる」の自発根源説と受身根源説

「る・らる」の意味展開には二説ある。すなわち、
○受身→自発(自然勢)→可能(能力)→尊敬(敬語)
○自発(自然的実現・勢相)→受身(所相)・可能・尊敬(敬相)
という、「受身根源説」と「自発根源説」である。
自発を根源とする説には橋本進吉(1931)・時枝誠記(1941)・大野晋(1967)、受身を根源とする説は山田孝雄(1936)・松尾捨次郎(1936)・森重敏(1965)などが代表的なものである。
現在、有力視されているのが「自発根源説」である。これは、「ゆ・らゆ」からの音韻交替説で考えると、「ゆ・らゆ」は「自発」で用いられることが圧倒的に多いことによる。
しかし、金田一春彦・奥村光雄(1976)や窪薗晴夫(1997)が述べるように、「r」から半母音の「j」「w」に変化するのが自然である。そうすると、「ゆ・らゆ」の「y」、つまり「j」の音が「る・らる」の「r」の音に変化するのは逆の現象であり、不自然で無理があるようにも思える。その立場で考えると、「ゆ・らゆ」から「る・らる」への自然な変化ではなく、それぞれが持つ、基本的な意味役割に違いがあるのではないだろうか。たしかに「ゆ・らゆ」と「る・らる」は、音の響きは似ているため反論の余地はあるだろうが、音韻交替説に縛られる必要はないため、一般に有力とされている「る・らる」の根源的な意味が自発である必然性はないのではなかろうか。
山田孝雄(1936)が、「る・らる」の原義を受身をととらえた上で、そこから自発が出たとして、
それより一轉して自然にその事現るゝ勢にあることを示す。今これを自然勢といふべしその例
坊主山の早蕨かと怪しまる。
眺めらるゝは故郷の空なり。
この自然勢が受身の一變態なりといふことは、その勢の起る本源は大自然の勢力にありて人力を以て如何ともすべからぬことを示すものにして、人はそれに對して従順なるより外の方途なきなり。これ即ち大なる受身といふべきなり。
と述べており、自発を人間の力ではどうすることもできないで、従順にならざるをえないと考えている点は、注目してよい。一般に原義を自発とした方が説明しやすいというだけの理由で原義を自発ととらえ、自発から受身・可能・尊敬が出たとするが、その順序はまちまちで、同時派生的ととらえるしかない。
この山田孝雄(1936)の論をいっそう論理的に発展させたものとして、森重敏(1956・1965)がある。森重敏(1956・1965)では、「る・らる・す・さす・しむ」は、格助詞と相関することから、「格の助動詞」であるとして、次のように述べている。
動詞は、述語となることを本来とするから、自然、まず、格に関する道具として、格の助動詞ともいうべきものを分出する。いわゆる「る」「らる」「す」「さす」「しむ」など、受身・使役・自発・可能・敬語の助動詞がそれである。これらは述語に対する主語などの分出する格助詞−これもまた名詞の道具のようなものである−と相関する。たとえば、
花が風に散らされる。
のように、「れる」である以上は「が」であり「に」であり「が」「に」である限り「れる」となるのであって、他の格助詞で代えることはできないし、また、「が」と「に」とを入れ替えることも勿論できない。この緊密な論理的相関のありかたが、実は上来論理的格助詞といってきたものの一番の基礎なのである。
このように説明した上で、受身の場合は、形式上は、「花−れる」だが、「風に散らされる」の部分が「風が散らす」という力が、主者「花」に向かって働き、働かれる主者「花」が「散らす」という働きを受けることを述語とすることとなり、「散らす」力が無力な主者において実現するために「散らす」と「れる」とは一本になると解釈している。
また、自発については、
故郷が思われる。
の例をあげて、
主者の「思う」ということが、対者「故郷」からの発動で自然に実現する−そこに対者から主者への関係方向がある。
としている。
そして、「花が風に散らされる」のように受身の場合には、主者は話し手、第二者、第三者と自由であるが、自発の場合は、「故郷が思われる」のように、主者は話し手に限られてしまい、「故郷が−れる」その結果、「私が思う」としている。
また、森重敏(1965)は、一般に自動詞・他動詞と呼ばれるものを、
意志をもち、時間の経過のなかでその意志を遂行するその遂行の過程に重点をおいた意味のもの(他動詞)
意志あるにしてもその遂行よりは遂行した結果の状態や、意志などなくて或る一つの作用が現象している状態やをあらわす意味のもの(自動詞)
として、その自動詞の意味から自発というものが分出しうるとしている。この点で、非情の受身と通じる面があることを指摘したい。
しかし、ここで問題となるのは、森重敏(1965)のいう、「主者」である。「主者」とは、「動作主体」のことをいうのか、それとも「発話主体」のことをいうのか不明なのである。「動作主体」だとすると、それは客観の代表のことであり、「発話主体」だとすると、それは主観の代表ということになる。そうすると、動作主体なら受身になり、発話主体なら自発ということになる。それはまた、受身から自発が出たのか、自発から受身が出たのかという問題ともつながり、動作主体が発話主体に連続するのか、発話主体が動作主体に連続するのか、ということにもある。つまり、「主者」というのは、動作主体と発話主体との間を動いているものであるといえるであろう。
また、発話主体は一人に決まっており、聴き手に理解させるためにあると仮定でき、発話主体は限定されない。仮に、限定されないものから、限定されるものへという一般的な流れに従えば、自発から受身という流れを想定することができそうである。しかし、主者が動作主体と発話主体との間を揺れ動くとすると、自発も受身も分けることが困難である。
尾上圭介(2003)は、「る・らる・れる・られる」が用いられた文を「出来文」と名付け、「事態全体の生起」というスキーマで述べたものとし、多義性の説明を可能にした。