受身表現

今回は、以前ゼミで発表したレジュメを掲載してみます。
    

 本稿では、『みんなの日本語・初級Ⅱ本冊』(スリーエーネットワーク)の受身の例文を分析した後、その中から日本語文法学史で問題となっている「非情の受身」を考察してみることとする。


1、『みんなの日本語・初級二冊本』での扱い


みんなの日本語・初級Ⅱ本冊』(スリーエーネットワーク・1998年)では、「文型」「例文」「会話」「練習」の順で第37課に受身が取り上げられている。以下に「文型」「例文」「会話」の箇所を示してみることとする。なお、傍線は受身を示す助動詞、太字は無生物主語、□は動作主、( )は主語の補いを示す。本稿では幅広く主語という名称を用いることとする。

(文型)
1子どものとき、(私は)よく母にしかられました。
2(私は)ラッシュの電車で足を踏まれました。
法隆寺は607年に建てられました。
(例文)

(私は)けさ部長に呼ばれました。
何かあったんですか。
(私は)出張のレポートの書き方について注意されました。

どうしたんですか。
(私は)誰かに傘をまちがえられたんです。

また新しい星が発見されましたよ。
そうですか。

ことしの世界子ども会議はどこで開かれますか。
(世界子ども会議は)広島で開かれます。

お酒の原料は何ですか。
米です。
ビールは?
ビールは麦から造られます。

ドミニカでは何語が使われていますか。
スペイン語が使われています。

先生、飛行機はだれが発明したんですか。
飛行機はライト兄弟によって発明されました。
(会話)
松本:シュミットさん、関西空港は初めてですか。
シュミット:ええ。ほんとうに海の上にあるんですね。
松本:ええ。ここは海を埋め立てて造られた島なんです。
シュミット:すごい技術ですね。でも、どうして海の上に造ったんですか。
松本:日本は土地が狭いし、それに海の上なら、騒音の問題がありませんからね。
シュミット:それで24時間利用できるんですね。
松本:ええ。
シュミット:このビルもおもしろいデザインですね。
松本:(このビルは)イタリア人の建築家によって設計されたんです。
シュミット:アクセスは便利なんですか。
松本:大阪駅から電車で1時間ぐらいです。神戸からは船でも来られますよ。

合計15例掲載されている。15例を「れる」「られる」に注目し、下接する語・動作主のニ格・ニヨッテ格・無生物主語に分類すると次のようになる。

(下接する語)
「ます」10例(うち7例は「ます+た」)
「た」3例
「て」2例(2例とも「ている」形)
(動作主の「ニ格」と「ニヨッテ格」)
「ニ格」3例
「ニヨッテ格」2例
  「カラ格」1例
(主語が無生物)
明示8例・・「法隆寺」「星」「世界子ども会議」「ビール」「何語」「スペイン語」「飛行機」「島」(うち1例は連体修飾で明示)
非明示2例・・「世界子ども会議」「ビル」

下接する例では「ます」の下接する例がもっとも多い。このことは、会話文を意識していると考えられる。また、すべて連用形の例文が示されているのも大きな特徴である。このことは、動詞の活用形でもっとも多いのは連用形とされているため、動詞の一部として「れる」「られる」の形式を意識していると考えられそうである。
動作主ニ格の例をみると、「しかられる」「呼ばれる」「まちがえられる」のどれも「迷惑の受身」を示すものである。「ニヨッテ格」は「発明される」「設計される」で特に「迷惑の受身」を示す例ではない。このことは、動作主「ニ格」は「迷惑の受身」として意識されていることを示すと考えられる。なお、姫野昌子・伊藤祐郎(2006)では、日本人教師用として、「―によって―される」について以下のようにまとめている。
○受身文で「によって」を使う場合、格助詞「に」との重複を避ける。
①創作、建設「都は天皇によって京都に作られた」出現の場「に」との重複
②人への働きかけ「係りによって全員に紙が配られた」対象の「に」との重複
人への働きかけ「彼によって全員に調査が命じられた」対象の「に」との重複
③任命など「首相によって大臣に任じられた」役職の「に」との重複
④移動など「政府によって札幌に招かれた」場所の「に」との重複
○文章語。動詞の元の主体者であることをはっきり示す。
この説明を適応すると、『みんなの日本語』では動詞の主体者をはっきりと示す例文を示しているようである。
無生物主語の受身は、「非情の受身」とも呼ばれ、日本語本来のものではないとする「非固有」の見方が有力であるが、明治以降の西欧語の直訳から増加したとされている。15例のうち10例採用されている点、文例3で扱われているところをみると、日本語として定着していると考えられ、積極的に採用されていることがわかる。










2、非情の受身


2・1 非情の受身・非固有説
受身表現の中で特徴的なものとして、主語(主格)に立つものが、情のないもの、つまり、「非情の受身」と呼ばれるものがある。「非情の受身」の存在の指摘としては、もっとも早い例として、三矢重松(1907)がある。三矢重松(1907)は、「非情の受身」として
コロンブスに発見せられたる亜米利加
○スマイルスの自助論は、中村敬宇氏によりて翻訳せられたり
○日本人に消費せらるる米の高
○木風に倒さる
○床に懸けられたるは元信の筆なり
の例をあげている。
こういった例は、明治期以降の欧米文の翻訳によって出現したものとされ、三矢重松(1907)、山田孝雄(1908)、松下大三郎(1930)、橋本進吉(1969)らの「非情の受身・非固有説」が一般には支持されてきた。今泉忠義・宮地幸一(1950)では、「非情の受身は昔からあったが、わずかしかなく、明治以後に多くなった」と述べている。そして、具体的な用例数は示していないが、『西国立志編』や徳富蘆花島崎藤村の作品の「非情の受身」の例を示し、白樺派の作品以降、目立って多くなってきていることを指摘している。とりわけ、白樺派有島武郎の作品は、「非情の受身で満ちてゐる」と述べている。また、日本語は、必要でないかぎり主語をあらわさないため、主語として無生物を出す以上は、「人」を出そうとしても出せないことを指摘している。非情の受身の受け入れられた要因として、
とにかく国語でも「非情の受身」が流行しだしてから、受身の世界が広くなったこと、或はそれが、ある意味では国語の表現の不足を補ひ、しかもその言ひ方が古来の敬語法と関係するところがあるために、案外に早く流行を来したのかも知れない、などと考へられるのであります。
と述べて敬語との関わりを指摘している。
尾上圭介(1998)は、非情の受身「非固有説」の立場で二分類した。例えば、
○木の葉が風に吹かれている。
○軒下に瓢箪が吊るされていた。
の例は、主語は人間以外のもので、被影響者ではなく、情景描写の受身であるとし、平安時代からあ日本語本来のもので、非情の受身ではないと位置づけた。続けて尾上圭介(1998)は、
①新しい新聞が学生によって発行された。
②世界大会が今月五月に開かれた。
などの例は、近代になって外国語直訳口調の中から次第に市民権を得てきたものとして、「非情の受身」「ニヨッテ受身」などとも呼ばれるとしている。そして、①は発行される前に「新しい新聞」は存在しないし、②は開かれる前に「世界大会」は存在しないと述べている。尾上圭介(1998)の論は、それまで非情の受身と呼ばれていたものを、
◇情景描写の受身(固有)
◇非情の受身(非固有)
としているため、古典文においての主語(主格)が人間以外の受身の表現は、「情景描写」の受身ということになる。

2・2 非情の受身・固有説
非情の受身の非固有説が多い中で、古典文においても、
○硯に髪の入りてすられたる。(枕草子・28段)
○逢坂の歌はへされて、返しもえせずなりにき。(枕草子・131段)
のような「非情の受身」の例が実際には見られ、古典文における例を、宮地幸一(1968)、小杉商一(1979)らが数多くあげ、「非情の受身・固有説」を主張した。中でも、奥津敬一郎(1987)は、『徒然草』における「非情の受身」は、受身全体の四割近くを占めることから、時代が下ってくるに伴い、非情の受身が増えてきており、その土壌があったために、近代以後の欧文直訳の影響で「非情の受身」が一挙に増大したのではないかと述べている。
また、受身文を「状態性」とする考え方を、山田孝雄(1908)は示した。山田孝雄(1908)は、「有情の受身」(動作作用の影響を受くる者其自身より見たる受身)と「非情の受身」(傍観者ありて動作作用の影響を受くる其状態を見たる場合の受身)は、一種の状態性を示すものであり、「状態性こそ受動文の本質」と述べている。この山田孝雄(1908)の論を古典の例に当てはめた結果として、小杉商一(1979)の論がある。小杉商一(1979)は、古典の非情の受身の例について、
非情の受身においては、動作・作用を加へるものは、いづれの場合もほとんど問題にされてをらず、従つて誰がしたかといふ動作性は、極めて希薄になり、その結果としてある状態性の方が重要視されているのに気づく。このことは非情の受身には、ほとんどの場合、存在継続の「たり」または「り」が下接されてゐることによつても明らかである。「たり」も「り」も下接語にない場合は「あり」か「侍り」か「無し」等、存在や状態表はす語が必ず下にある。
と述べている。この論を受けて発展させたのが、金水敏(1991)である。金水敏(1991)は、
平安時代の仮名散文の非情の受身は、知覚された状況を描写する場面で用いられることが多い。
とし、そのような場面で用いられる文を叙景文(限定された時空に存在する、ものの「現れ」をうつしとるもの)と名づけている。また、小杉商一(1979)の示した「非情の受身」の例を金水敏は大きく二分類(「結果の存続・視覚的な状況描写」と「作用の存続・聴覚的な状況描写」)してアスペクトの違いとしている。その二分類をまとめると次のようになる。
◇結果の存続・・視覚的な状況描写
「り」「たり」「あり」「侍り」「無し」が下接するか、それに準ずる状態性の表現になる。
○硯に髪の入りてすられたる。(枕草子・28段)
○だいの前に植ゑられたりけるぼうたなどのをかしきこと。(枕草子・143段)
◇作用の持続・・聴覚的な状況描写
必ずしも「り」「たり」等の状態性の助動詞は付与されない。
○数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞こえ、・・。(源氏物語・若紫)
○神楽の、笛のおもしろくわななき吹きすまされてのぼるに、・・。(枕草子・142段)

2・3 非情の受身と状態性
小杉商一(1979)・金水敏(1991)の個別研究によって「非情の受身は状態性」であることが指摘されてきたが、「状態性」という言葉の定義が曖昧であることによって、はっきりと非情の受身の本質が説明できないという弱点があった。そのため、尾上圭介(1998)のように場を持ち出し、非固有説を持ち出す意見も出た。しかし、尾上圭介(1998)では、古典での情景描写ではない受身の例を説明できないという点が弱点である。
そこで「状態性」を定義付けたものとして、近藤泰弘(2000)をあげることができる。近藤泰弘(2000)は、「ている」という表現を「話し手の主観的表現」とした。すなわち、近藤泰弘(2000)に従うと「状態性とは話し手の主観的な表現」となる。この説明よれば、非固有・固有の説にこだわらず、「非情の受身の本質は状態性」、つまり、「非情の受身の本質は話し手の主観的表現である」と説明できることとなり、尾上圭介(1998)のように場を持ち出す必要はなく、古典での非情の受身の特徴をきれいに説明できる。この意味で、近藤泰弘(2000)の論は、非情の受身の本質をとらえる重要な論拠となったといえる。













参考文献

三矢重松(1907)『高等日本文法』明治書院
山田孝雄(1908)『日本文法論』宝文館
松下大三郎(1930)『標準日本口語法』中文館書店
橋本進吉(1969)『助動詞の研究』岩波書店
今泉忠義・宮地幸一(1950)『現代国語法・四』有精堂
宮地幸一(1968)「非情の受身表現考」『近代語研究』第2集
小杉商一(1979)「非情の受身について」『田辺博士古稀記念国語助詞助動詞論叢』桜楓社
奥津敬一郎(1987)「使役と受身の表現」『国文法講座・6巻』明治書院
金水敏(1991)「受動文の歴史についての一考察」『国語学』124集
尾上圭介(1998)「文法を考える―出来文①―」『日本語学』
近藤泰弘(2000)『日本語記述文法の理論』ひつじ書房
スリーエーネットワーク編(1998)『みんなの日本語・初級Ⅱ本冊』スリーエーネットワーク
姫野昌子・伊藤祐郎(2006)『日本語基礎B』放送大学教育振興会