近藤泰弘と尾上圭介〜状態性をめぐって
近藤泰弘と尾上圭介−状態性をめぐって
近藤泰弘(2000)は、
意志動詞とはその動詞で示される動作に対して通常の意味での動作主がある動詞である。それに対して無意志動詞とは、その動詞は動作を示さずある様子や状態の対象であるようなものである。先に示したもの以外では「倒れる」「死ぬ」「なる」「はっきりする」「−られる(いわゆる可能・受身の助動詞)」などがそうであって、みな動作とは言えない動詞である。
と述べている。この記述から、近藤泰弘は、「れる」「られる」について、無意志動詞を構成するものとして扱っていることがわかる。このことは、時枝誠記(1941)が「れる」「られる」を客観的な表現であると述べ、接尾語として「詞」に分類したことを、近藤泰弘が発展させ、無意志動詞を構成するものとして、説明していることがわかる。したがって、説明の仕方は異なるものの、基本的には、時枝誠記(1941)が「れる」「られる」を詞とした流れを受けていると考えられる。「ている」「てゆく」「てくる」の関係について、
これらは単に話し手の主観的な使い分けにすぎない。また「てゆく」「てくる」のみならず「ている」も、方向性を意識しないという意味において主観的な表現であると認定される。
と述べている。このように「ている」を「話し手の主観的な表現」と説明したことで、従来、曖昧であった「ている」という状態性を示すものの定義が、状態性とは「話し手の主観的な表現」と説明でき、非情の受身は、古典では、存続の「たり」「り」を下接したりすることから、「状態性」とはされてきたものの、明確に説明できないために、「非情の受身は状態性」という説が疑問視され、多くの説が提出されてきたが、この状態性という曖昧になっていた事柄に、終止符を打つことになった。山田孝雄の指摘した状態性について、小杉商一(1979)や金水敏(1991)など個別的研究などで指摘されてきた、「非情の受身とは状態性である」という説の正当性も説明することとなった。
それに対して、尾上圭介(1998a・1998b・1999)は状態性を用いずに、受身根源説にも、自発根源説にも立たず、受身・可能・自発・尊敬を一つにまとめ、主語を場と考え、「出来文」(事態全体の出来事を語る文)としている。そして、非情の受身については、主語は人間以外のもので、被影響者ではなく、情景描写の受身であるとし、平安時代からある日本語本来のものであり、非情の受身ではないとした。近代になってから、外国語直訳口調の中から次第に市民権を得てきたものと区別している。つまり、尾上圭介の論は、非情の受身と呼ばれていたものを「情景描写の受身(日本語固有)」と「非情の受身(日本語非固有)」とに分けている。これは山田孝雄(1908)述べた古典の有情・非情の受身は固有のものとして認めているが、西欧文翻訳の影響のものは非固有としているものを継承・発展せたものといえる。