細江逸記『動詞時制の研究』

細江逸記(1931)『動詞時制の研究』篠崎書林
序の前の扉の箇所には、国学者である本居宣長の『玉勝間』を引用して、学問の心得を示しているのが特徴的である。また、序文には、細江逸記(1928)のころにまとめた論であることも示されてい。

「扉」表
なすべきことは
みずからなせと
おしえたまいし  いつき
なきはうえの
みたまにささぐ
「扉」裏
われにしたがひて物まなばむともがら
も、わが後に、又よきかむがへのいで
きたらむにはかならずわが説にななづ
みそ。わがあしきゆゑをいひてよき考
へをひろめよ。すべておのが人ををし
ふるは道を明らかにせむとなれば、か
にもかくにも道を明らかにせむぞわれ
を用ふるにはありける。道を思はでい
たづらにわれをたふとまんはわが心に
あらざるぞかし。(玉勝間)

「序」
pp.2-3
1931.3「國學院雑誌」
1931.8「国語と国文学」
「なお、私はこの小論文で、ずいぶん東西の学者の説に対して遠慮のない批評を加えたが、それは決して私のこれらの学者に対する敬意が薄いためではないことを了とされたい。私はこれらの熱心な先輩諸学者に対し絶大な敬意を表するとともに、これらの先覚がふびんな私の目に光明を授け、進むべき道を示して下さった大恩に対して無限の感謝をささげるものである。そして真理の忠実な使徒であるこれらの先達は必ずやあの鈴の屋翁が玉勝間の中に書いているような明朗な心で後進を待つものであると信じて、あえて敬虔な態度で自分の考えを述べる私である」

「つ」「つべし」
pp.66-70
以下の古典の「つ」「つべし」の語形との比較を通じて、Present Perfectは「確認確述」の語形であると定義づけている。
わが心春の山べにあくがれてながながし日をけふも暮らしつ(新古今集,巻1)
わが心慰めかねつ更科やをばすて山に照る月を見て(大和物語,151段)
万葉学のためにもまた光栄のきはみといひつべし(佐々木博士、『心の花』本年6月号)

「き」と「けり」
p.101-102
この箇所では、山田孝雄の学説での「けり」の扱い方「現実を基本として、これにより回想を起こすなりけり」に対して、「昔男ありけり」などの「けり」との関係性が説明できないことを指摘している。
pp.119-128
この箇所で、『竹取物語』の例をあげ、「『き』は目睹回想で自分が親しく経験した事柄を語るもの、『けり』は伝承回想で他からの伝聞を告げるのに用いられたものである」としている。さらに「とにかく上のような区別は平安朝初期までは明りょうにあったが、後漸次失われてついには区別のないものと考えられるようになったけれども、私の考えによれば鎌倉時代まではある程度残存していたようである」としている。その後、「國學院雑誌」「国語と国文学」で賛辞を得て広まったもので、文法教科書にも採用されるようになった。そして、教師用指導書の類には、必ず、細江逸記の名前が記されるようになったのである。このことは、国語学者が気付かなかったことに英語学者が気付いたことの典型的な例であるとともに、細江逸記の語学センスのよさを示すものであろう。脚注の箇所には、岡倉由三郎の自宅での座談のときに「き」と「けり」の話題が出て、そのときに着想を得たものであることが述べられている。また、やや近い着想を得ているものとして、草野清民『日本文法』、藤岡作太郎『国文学全史 平安朝編』をあげている。

「む」「べし」
pp.141-142
shall、willに相当するものとして、「む」「べし」を示している。この箇所では、『萬葉集』を引用し、「む」を「もふ」(=思う)の意味の古語から出たものと推定し、金沢庄三郎の「見る」説を注で紹介している。また、宮良当壮八重山語彙』を引用し、琉球諸語および付近の言語から、「べし」は「はず」と同語であるとし、チェンバレンの説も引用している。
居り明かし今宵は飲まむ郭公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ(萬葉集、巻18)
うつつにも夢にも我はもはざりき(萬葉集、巻11)
万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし(萬葉集、巻5)