「ら抜きことば」と「可能動詞」

「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法の一考察

本稿は、中学生を対象とした口語文法の中の、「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法について考察するものである。その際、従来の国語教育における文法の教授法について、日本語学・日本語教育の先行研究を参照しながら、「ら抜きことば」と「可能動詞」についての指導法を考察するものである。


一「ら抜きことば」と「可能動詞」の先行研究

一・一「ら抜けことば」から「ら抜きことば」へ

「ら抜きことば」については、国立国語研究所(一九八一)、井上史雄(一九九八)などにより、中部地や中国地方で生まれ、各地で方言として行われてきたが、大正から昭和の初めごろに東京などに広まったと考えられている。
現在では一般に「ら抜きことば」といわれる「来れる」「見れる」「食べれる」などの語形の指摘は、田中章夫(二〇一四)によると、早い例としては、松下大三郎(一九二四)に静岡の方言として紹介されている。そして、中村通夫(一九五三)が昭和初期の東京の山の手の青年たちから使われ始めたという指摘があるが、当初は適当な呼び名がなく、田中章夫(一九八三)では、「れる言葉」などと呼んでいたと述べている。それが一九九二年九月二七日付総理府発表の「国語に関する世論調査」のことを報じた週刊誌や新聞が契機となって注目されるようになり、『角川必携国語辞典』(一九九五年・初版)の編集の際に大野晋が「ら」が抜けたものであると主張したことから「ら抜けことば」となり、『NHKことばのハンドブック』(一九九四年・二月・第四刷)にも「ら抜け(表現)」となったが、『NHKことばのハンドブック』(一九九九年・六月・第九刷)では「ら抜き(表現)」というようになったと指摘している。
他に一九八八年八月五日付の読売新聞朝刊に「ラ抜け言葉にガックリ」、一九九二年一〇月二九日付の朝日新聞の朝刊に「『ら抜け』ともいう」などの注記がみられるという。これらを考え合わせて、田中章夫(二〇一四)では、一九九〇年ごろは「ら抜け」と「ら抜き」が激しく競いあっていたが、大勢としては「ら抜け」から「ら抜き」へと流れたことを指摘している。
「ら抜きことば」は、「可能動詞」と密接に関わるものである。金水敏(二〇〇三)では、「ら抜きことば」の特徴を以下のようにまとめ、話者を「非ラ抜き人」「完全ラ抜き人」「不完全ラ抜き人」の三つに分けている。

A 形態的には、カ行変格活用、一段活用の動詞の未然形(打ち消しの「ない」が続く形)に、下一段活用の「れる」を付けた形である。
(例「来れる」「着れる」「食べれる」)
B 「―することができる」に似た、「可能」の意味を表す。
C 基本的に、意志的動作を表す動詞からのみ作られる。

「ら抜きことば」が広まった理由としては、「食べられる」「先生が見られる」や「見られる」「先生が見られる」などを「食べれる」「見られる」とすることで可能の意味を明確にし、受身・可能・尊敬の区別を容易にするためという指摘がなされることが多いが、これらをまとめて、井上史雄(一九九八)は、「意味の明晰化」と「動詞活用の単純化」としている。
なお、「れる・られる」の尊敬の用法については、中村通夫(一九四八)が文章語か京阪地区で用いられてきたもので、下町言葉・江戸なまりでも尊敬の場合には、「お―になる」などの他の表現を用いてきたことを述べている。「れる」「られる」の多義性に起因する現象でもあるといえるであろう。

一・二「可能動詞」

日本語史では、可能動詞は室町時代に成立したと考えられているが、その成立過程については諸説あり、坂梨隆三(一九六〇)は、諸説を三つに分類整理し、抄物・キリシタン狂言資料をもとに考察を加え、三つの段階で成立したものとし、可能動詞の成立が下二段活用に起源を持つとしている。三つの段階とは以下の通りである。

(第一段階)「知るる」「切るる」に「読むる」「持つる」を加えた段階
(第二段階)第一段階の諸語が一段化していく段階
(第三段階)その対応語が下二段自動詞を持たなかった四段他動詞や、四段自動詞が下一段活用となって独立していく段階

坂梨隆三(二〇〇六)においても、渋谷勝己(一九九三)を受けて多少の加筆はしてあるものの、可能動詞の下二段活用起源説での説明を行っている。坂梨隆三(一九六九)による諸説の整理は、以下の通りである。


一「読ま+れる」→「読める」・・『口語法別記』・山田孝雄・湯澤幸吉郎
二「読ま+る」→「読める」・・『新選古語辞典』
三「読み+得る」→「読める」・・渡辺実


二 「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法の考察

可能動詞については、本来、四段・五段動詞から作られるものであるが、近年、四段・五段動詞以外でも作ってしまうことが多い。例えば、「見る(上一段)」を「見れる(本来は「見られる」)」としたり、「捨てる」を「捨てれる」(本来は「捨てられる」)としたりする類である。
これらは、「ら抜きことば」「れ足すことば」「さ入れことば」などと言われている現象である。また、文語文法ではの指導の際には、「書ける(書く+り)」「読める(読む+り)」のように、本来は、四段動詞に「り」がついたものを一語として扱ってしまう誤りが続出するということが起きている。
これらの文法指導では、文語文法の指導の際、四段動詞の已然形に、完了・存続の助動詞「り」の連体形が下接するときに、一語として扱ってしまい、可能動詞と間違いやすいことがあげられる。また、口語文法の指導の際、「ら抜きことば」や「れ足すことば」にしてしまうことも考えられる。以下、文語文法の「る・らる」と口語の「れる・られる」の接続及び可能動詞についての説明を、教師用指導書として用いられている渡辺正数(一九九三)及び会田貞夫・中野博之・中村幸弘(二〇〇四)を参照し整理すると、以下のようになる。

【「れる・られる」の接続】
「れる」は「ある」以外の五段動詞の未然形「ア段」と、サ変動詞の未然形「さ」につき、「られる」は右以外の動詞の未然形及び助動詞「せる」「させる」「たがる」の未然形につく。

【可能動詞】
可能動詞は、「できる」という意味が加わったもので、五段動詞に可能を表す助動詞「れる」がついて、「書かれる」が「書ける」のようになったものと推測される。ただし、「ある」などのように、五段活用がすべて可能動詞になるわけではない。

これらの説明は、一般的な記述と言えるが、生徒に理解させることは容易ではない。そこで、戦後、国語教育とは異なった発達をしている日本語教育の立場をみていくこととする。
山田敏弘(二〇〇四)は、学校文法の「書く(五段動詞)」が「書ける(可能の形)」、「食べる(一段動詞)」が「食べられる(語幹+可能の助動詞)」、「する(サ変動詞)」が「できる(特殊形)」の例をとりあげている。そして、「書く」「食べる」の例をとりあげて、ローマ字で「e」「re」を取り出して説明を加えている。

五段動詞「書かれる(kak-are-ru)」→「書ける(kak-e-ru)」
一段動詞「食べられる(tabe-rare-ru)」→「食べれる(tabe-re-ru)」
(一九頁―二〇頁)

この説明の特色としては、ローマ字書きすることで視点を変える見方を示している点があげられる。また、ことばは変化し、システム化する立場を取っている。しかし、この日本語教育の方法では、国語教育として生徒に理解させることは容易ではない。むしろ、便法のようなものが必要ではないだろうか。
小柳智一(二〇〇八)の指摘にあるように、未然形とは未実現を示すものであるのに、「る・らる・す・さす・しむ」という既実現を示すものが接続するという、未然形接続の中では異質なものであるのが、主な原因のようにも感じられる。
それでは、どのように生徒に指導するのが実践的であろうか。永野賢(一九五八)では、以下のような原則を立てることを述べ、判断をくだすことを述べている。

「五段活用の動詞には、可能動詞の形がある。」「それ以外の動詞には、可能動詞の形はなく、未然形に『られる』(サ変は「れる」をつけて『される』となる)をつける。」というような原則を立てることができる。こういう原則によって、正俗の判断を下すことができるであろう。
(二五〇頁)

この記述は、原則を立てることで生徒の理解のためには有益である。しかし、論者が用いている説明は、さらに便法的なものである。それは教師用指導書の類には見当たらない説明ではあるが、山田孝雄(一九〇八)と井上史雄(一九九八)の論を参考にしたものである。
「ら抜きことば」の接続については、大矢透(一九〇二)、山田孝雄(一九〇八)、橋本進吉(一九三五)の未然形の音に注目する方法を採用している。すなわち、「ア音(未然形)+れる」「イ・エ・オ音(未然形)+られる」とする方法である。この方法を用いれば、以下の例も比較的容易に理解できる。

書く→書か(ア音)+れる→書かれる
食べる→食べ(エ音)+られる→食べられる

この方法を実際に生徒指導の際に用いてみると、助動詞の接続について理解が十分でなくても、理解は容易なようである。また、同様に山田孝雄(一九〇八)の方法で、「ア音(未然形)+せる」「イ・エ・オ音(未然形)+させる」とすれば、以下のように「さ入れことば」の判定にも役立つ。

書く→書か(ア音)+せる→書かせる
食べる→食べ(エ音)+させる→食べさせる

また、井上史雄(一九九八)は「ら抜きことば」を可能動詞と関連づけ、一連のものとして考察している。そして、「る」を省くと命令形として意味が通るか否かで「可能動詞」か「ら抜きことば」なのかを判定するという方法を提出している。具体例を示すと以下のようになる。

「書ける」→書け→命令形として意味が通る
→「書ける」は可能動詞
「食べれる」→食べれ→命令形として意味が通らない
→「食べれる」は「ら抜きことば」

この方法は、文法が苦手な生徒でも理解しやすく、役立っている。このように便法を示したのちに、再び文法説明を行うことも一案であると思う。
また、日本語教育の立場として、萩原一彦(二〇〇八)は、可能表現として「動詞の可能形」と「動詞(辞書形)+ことができる」の二つをあげ、「動詞の可能形」として、以下のように「ラ抜き」を認め、「見える」「聞こえる」「わかる」には、もともと可能の意味が含まれているので、可能表現にはしないと述べている。

五段動詞→命令形+る
一段動詞→ます形+られる(ます形+れる[話し言葉・ラ抜き])
する動詞→―できる
来る→来られる(来れる[話し言葉・ラ抜き])

佐々木瑞枝(一九九四)は、以下のように述べ、国語教育と日本語教育との違いを述べている。

大学の留学生教育では、まだ「着られる・寝られる」の形を教えている。日本語の教科書もまだ「寝れる、食べれる」の例は見かけない。しかし、留学生は日常この表現を耳にするだろうから、「最近はこんな言い方も出ています」と「見れる」「食べれる」も教えるようにしている。

これら佐々木瑞枝(一九九四)、萩原一彦(二〇〇八)などの日本語教育の方針は、日本語教育では、言語の実態に即したことが重要であり、首肯できるところである。
一方、「ら抜きことば」は、国語審議会では容認されていないため、以下のように平成二三年検定済の中学校国語教科書では、教科書会社の主要五社ともに中学校二年で扱い(光村図書は脚注で可能動詞を補足的に説明)、そのうち三社が可能動詞を本文で立項し、脚注や左注をつけている。

学校図書・・本文で立項
【左注】
◎可能動詞の活用・・全て下一段活用で命令形はない。
◎可能動詞の意味・・「取れる」は「取ることができる」という意味以外に、「自然に取れる」という意味でも用いられる。このように、可能動詞は「自然にそのようになる」という意味になることもある。
教育出版・・本文で立項
【脚注】
可能動詞には命令形はない。
●「話さない」と「話せない」
「話す」に「ない」をつけた形は「はなせない」ではなく、「はなせない」だ。「はなせない」は「話す」の可能動詞「話せる」に「ない」をつけたもの。
●「見れる」は可能動詞か?
可能動詞は、五段活用の動詞から作られる。上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」を可能動詞のようにした、「見れる」「出れる」という言い方は、一般的とはいえない。
●二つの「切れる」
「切れる」には、他動詞「切る」から可能動詞になった「切れる」と、自動詞の「切れる」とがある。「取れる」「割れる」「裂ける」なども同様に、可能動詞と自動詞との二つがある。
三省堂・・本文で立項
左注・脚注なし
東京書籍・・本文で立項
【脚注】
○可能動詞にならないもの
「食べれる」「来れる」のように五段動詞以外の動詞を可能動詞にすることは、書き言葉では一般的ではない。また、五段動詞でも、「光る」「曇る」「響く」のような動詞は可能動詞にならない。
光村図書・・本文で立項しない。脚注で立項。
【脚注】
♢可能動詞の活用
「・・できる」という意味の可能動詞は、五段活用の動詞をもとにした、下一段活用の動詞である。
・飲む(五段)→飲める(下一段)
・走る(五段)→走れる(下一段)

このように、注でもっとも詳しく扱っているのは教育出版であり、一番軽く扱っているのは、三省堂と光村図書であることがわかる。また、学校図書は、自発と可能にまたがる例を説明しており、特色のある注である。教科書編纂者の中で、文法的な項目執筆に関わった日本語学専攻の編纂者を見てみると「ら抜き」の記述に重きを置いてない教科書は、関西出身の研究者で日本語教育も行っている編纂者が中心的に関わっていることがわかる。執筆者の特徴で分類すると、以下のような特徴が見られるのが興味深い点である。

教育出版
執筆者が関東中心で日本語学専攻
ら抜きは一般的でない地域の執筆者
学校図書
執筆者が関東中心で日本語学専攻
ら抜きは一般的でない地域の執筆者
光村図書
執筆者が関西中心で日本語学専攻だが日本語教育も行っている
ら抜きは一般的である執筆者。
三省堂
執筆者が教科研や日本語教育との関わりがある
東京書籍
論理学者も執筆者に加わっている

このように採択する教科書によっても違いがあるため、どこまで、「ら抜きことば」や「可能動詞」について指導するかという問題とも関わってくる。


結び

本稿では、「ら抜きことば」と「可能動詞」についての指導法について考察した。接続や活用以外に、「る」を取り除いて命令の意味として通るかどうかで判断する方法を便法として取り入れることの有効性について述べた。また、中学校の国語教科書には、それぞれ執筆者の出身地域や専門性などが反映されていることを示した。


(参考文献)

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井上史雄(一九九八)『日本語ウォッチング』岩波書店
岡崎正継・大久保一男(一九九一)『古典文法別記』秀英出版
大矢透(一九〇二)『東文易解』大日本東京・泰東同文局【テキストは李長波編(二〇一〇)『近代日本語選集・第七巻』栄光】
神田寿美子(一九六四)「見れる・出れる」『口語文法講座・3』明治書院
教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(一九六三)『文法教育 その内容と方法』
金水敏(二〇〇三)「ラ抜き言葉の歴史的研究」『月刊 言語』大修館書店
金田一春彦(一九五七)『日本語』岩波書店
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佐伯梅友・鈴木康之監修(一九八六)『文学のための日本語文法』三省堂
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坂梨隆三(二〇〇六)「近世語法研究」武蔵野書院
佐々木瑞枝(一九九四)『外国語としての日本語―その教え方・学び方―』講談社
渋谷勝己(一九九三)「日本語可能表現の諸相と発展」『大阪大学文学部紀要』第三三巻第一分冊
白川博之監修(二〇〇一)『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』スリーエーネットワーク
スリーエーネットワーク編(二〇〇一)『みんなの日本語初級?・教え方の手引き』スリーエーネットワーク
田中章夫(一九五八)「語法からみた現代東京語の特徴」『国語学』九号
田中章夫(一九八三)『東京語―その成立と展開』明治書院
田中章夫(二〇一二)『日本語雑記帳』岩波書店
田中章夫(二〇一四)『日本語スケッチ帳』岩波書店
田辺正男・和田利政(一九六四)『学研国文法』学習研究社
土屋信一(一九六二)「東京語の成立過程における受身の表現について」『国語学』一二号
永野賢(一九五八)『学校文法概説』共文社
中村通夫(一九四八)『東京語の性格』川田書房
中村通夫(一九五三)「『来れる』『見れる』『食べれる』などという言い方についての覚書」『金田一博士古稀記念・言語民俗論叢』三省堂
中村幸弘(一九九三)『先生のための古典文法Q&A一〇〇』右文書院
萩原一彦(二〇〇八)『ストーリーと活動で自然に学ぶ日本語 いつかどこかで』スリーエーネットワーク
橋本進吉(一九三五)『新文典別記上級用』冨山房
橋本進吉(一九三六)『改訂新文典別記初級用』冨山房
保科孝一(一九三八)『教師のための口語法』育英書院
町田健(二〇〇二)『まちがいだらけの日本語文法』講談社
松岡弘監修(二〇〇〇)『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』スリーエーネットワーク
松下大三郎(一九二四)『標準日本文法』紀元社
森田良行(二〇〇二)『日本語文法の発想』ひつじ書房
森山卓郎(二〇〇二)『表現を味わうための日本語文法』岩波書店