「る」「らる」の受身根源説

今回は、「る」「らる」の受身根源説を紹介します。私の書いた論文の一部を掲載します。
山田孝雄(1936)が、「る・らる」の原義を受身をととらえた上で、そこから自発が出たとして、
それより一轉して自然にその事現るゝ勢にあることを示す。今これを自然勢といふべしその例
坊主山の早蕨かと怪しまる。
眺めらるゝは故郷の空なり。
この自然勢が受身の一變態なりといふことは、その勢の起る本源は大自然の勢力にありて人力を以て如何ともすべからぬことを示すものにして、人はそれに對して従順なるより外の方途なきなり。これ即ち大なる受身といふべきなり。
と述べており、自発を人間の力ではどうすることもできないで、従順にならざるをえないと考えている点は、注目してよい。一般に原義を自発とした方が説明しやすいというだけの理由で原義を自発ととらえ、自発から受身・可能・尊敬が出たとするが、その順序はまちまちで、同時派生的ととらえるしかない。
この山田孝雄(1936)の論をいっそう論理的に発展させたものとして、森重敏(1956・1965)がある。森重敏(1956・1965)では、「る・らる・す・さす・しむ」は、格助詞と相関することから、「格の助動詞」であるとして、次のように述べている。
動詞は、述語となることを本来とするから、自然、まず、格に関する道具として、格の助動詞ともいうべきものを分出する。いわゆる「る」「らる」「す」「さす」「しむ」など、受身・使役・自発・可能・敬語の助動詞がそれである。これらは述語に対する主語などの文出する格助詞−これもまた名詞の道具のようなものである−と相関する。たとえば、
花が風に散らされる。
のように、「れる」である以上は「が」であり「に」であり「が」「に」である限り「れる」となるのであって、他の格助詞で代えることはできないし、また、「が」と「に」とを入れ替えることもも勿論できない。この緊密な論理的相関のありかたが、実は上来論理的格助詞といってきたものの一番の基礎なのである。
このように説明した上で、受身の場合は、形式上は、「花−れる」だが、「風に散らされる」の部分が「風が散らす」という力が、主者「花」に向かって働き、働かれる主者「花」が「散らす」という働きを受けることを述語とすることとなり、「散らす」力が無力な主者において実現するために「散らす」と「れる」とは一本になると解釈している。