玉勝間にみる学問の精神

(近世の資料)本居宣長

一 『玉勝間』

おのれ古典(いにしへぶみ)をとくに、師の説(ときごと)とたがへること多く、師の説のわろきことあるをばわきまへいふ事

も多かるを、いとあるまじき事と思ふ人多かんめれど、これすなはちわが師の心にて、常に教へられし

は、後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、な憚り(はばか)そとなん教へられし。こ

はいとたふとき教にてわが師のよにすぐれ給へる一つなり。おほかた古を考ふること、さらにひとりふ

たりの力もて悉(ことごと)くあきらめつくすべくもあらず。またよき人の説ならんからに、多くの中には、誤も

などかなからん、必ずわろき事もまじらではえあらず。そのおのが心には、今はいにしへのここと悉く

明らかなり、これをおきてはあるべくもあらずとおもひ定めたることも、おもひの外に、また人のこと

なるよき考も出でくるわざなり。あまたの手を経(ふ)るまにまに、さきざきの考のうへをなほよく考へきは

むるからに、つぎつぎにくはしくなりもて行くわざなれば、師の説なりとて、かならずなづみ守るべき

にもあらず。よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、学問の道には、いふかひなきわざな

り。(本居宣長『玉勝間』)